日本の中等デザイン教育の始まり 日本中等设计教育的开端
Design Education of Secondary School in Meiji Era
明治时代中学的设计教育
半田 伊史大泉学園高等学校 大泉学园高等学校HANDA Yoshifumi 半田义文Ohoizumi-Gakuen Highschool
大泉学园高中
1.はじめに 1.引言
現在ではデザイン教育機関というと,大学それも芸術系でのそれを思い浮かべる人が多いかも知れな い。しかし日本のデザイン教育の歴史をひもとくな らば,第二次世界大戦後の学制改革までは,量的に は中等教育,しかも工業系としての教育が中核をな していたことを知ることができよう。現在では理解 し難い側面もあるが,それはデザイン教育が国の殖産興業政策の一環としての役割を担っていたからで ある。もちろん工業が未発達な当時の日本にあって は,デザインは工芸と未分化の状態にあり,また絵画とデザインも明確に分離されていたわけではない。 しかし工芸が輸出の重要品目であった当時にあって は,デザイン教育の振興もまた国にとって見逃すこ とができない問題でもあった。特に地域の地場産業 と密接なつながりを持つ中等教育の中でのデザイン教育が果たした役割については再評価を試みる価値 があるものと思われる。
如今,提到设计教育机构,许多人可能会想到大学,尤其是艺术类院校。然而,追溯日本设计教育的历史,可以发现,在第二次世界大战后的学制改革之前,从数量上看,中等教育,尤其是工业类教育,构成了其核心。尽管现在有些方面难以理解,但这是因为设计教育当时承担了国家殖产兴业政策的一部分角色。当然,在工业尚未发达的日本,设计与工艺尚未分化,绘画与设计也没有明确分离。但在工艺作为重要出口商品的时期,振兴设计教育对国家而言也是不容忽视的问题。特别是与地方产业紧密相连的中等教育中的设计教育所扮演的角色,值得重新评估。
デザイン史に関する記述が比較的増えてきた現在 にあっても,こうした中等デザイン教育ついて触れ たものはまだ少ないように思われる。この機会に, その発足当時の状況と,社会的な背景を探ってみた い。
即使在设计史相关记述相对增多的现在,关于中等设计教育的提及似乎仍然较少。借此机会,我想探讨其创立初期的状况及社会背景。
2.明治政府の近代化と教育政策 2.明治政府的现代化与教育政策
明治維新によって徳川幕府の封建的政治組織を廃止し,近代的な国家組織を構築しようと,時の政府 はさまざまな政策をとった。明治政府の基本政策に「殖産興業」があるが,政府発足当初の日本には,近代産業の発展に直接つながる産業構造や欧米のよう な産業技術は育成されていなかった。しかも,幕末 における開国騒動の中で,日本が経済的にも後進国 であることを十分に認識させられた。そこで明治政府は,先進国である欧米の文化を輸入して,近代的
明治维新通过废除德川幕府的封建政治组织,试图构建现代化的国家机构,当时的政府采取了多种政策。明治政府的基本政策之一是“殖产兴业”,但在政府成立之初,日本尚未培育出直接促进近代产业发展的产业结构或像欧美那样的产业技术。此外,在幕末开国动荡中,日本充分认识到自身在经济上仍属后进国家。因此,明治政府决定引进欧美先进文化,以实现现代化。
政治組織と産業•経済組織を整備しようとしたので ある。
政治组织和产业•经济组织进行了整顿。
しかし,当時のわが国は政治的には治外法権の制限を受け,経済的にも関税の自主権を持たなかった ため,欧米先進国と対等の地位に立つことができな かった。そこで,対等な地位を得るために国内の産業と経済の充実をはかろうと,殖産興業政策を実施 した。
然而,当时的我国在政治上受到治外法权的限制,经济上也没有关税自主权,因此无法与欧美先进国家处于对等地位。于是,为了获得对等地位,我国实施了殖产兴业政策,旨在充实国内产业和经济。
具体的政策としては,まず江戸時代からの商業資本を産業資本に転化させるため,明治 5 年国立銀行条例を公布して資本の蓄積のための媒介組織を整備 し,資本主義経済のもと近代型産業を発足させた。 さらに明治政府は産業の保護政策をとり,またみず からも企業経営者として官営工場を創設し,資本主義発達の素地を固めようとした。こうした官営工場 の中には,東京•大阪砲兵工廠,横須賀造船所,長崎製鉄所のように幕府から継承したものや,石川島造船所,兵庫造船所,堺紡績所などのように旧諸藩 から継承したものがあった。そして,新規事業とし ては富岡製系場,千住製絨場のように洋式工場とし て創設したものもあった。
具体的政策方面,首先为了将江户时代以来的商业资本转化为产业资本,明治 5 年公布了国立银行条例,完善了资本积累的中介组织,启动了资本主义经济下的近代型产业。此外,明治政府采取了产业保护政策,并亲自作为企业经营者创建了官营工厂,旨在巩固资本主义发展的基础。这些官营工厂中,既有如东京·大阪炮兵工厂、横须贺造船所、长崎制铁所等继承自幕府的设施,也有如石川岛造船所、兵库造船所、堺纺织所等继承自旧藩的设施。同时,作为新事业,还创建了如富冈制丝场、千住制绒场等洋式工厂。
このように経済的には資本主義体制,産業的には近代工場生産への転換という方向性を示したのであ るが,教育面においても藩学や寺子屋制度から近代的な学校制度への改変が行われ,明治 5 年の学制発布,明治12年の教育令,明治19年の学校令が順次施行されていった。
这样,在经济上展示了向资本主义体制、产业上向近代工厂生产转变的方向,同时,在教育领域也进行了从藩学和寺子屋制度向近代学校制度的改革,明治 5 年的学制颁布、明治 12 年的教育令、明治 19 年的学校令相继实施。
明治 5 年に発布された学制は,小学•中学•大学 の三基本段階による教育制度をめざしたもので,デ ザイン・工芸を扱う工業学校や農業•商業学校は「中学」の一種とみなされたが,詳細な規定はなにも設 けられていなかった。翌明治6年に出された学制二編追加には,「諸芸学校•鉱山学校•工業学校•農業学校•商業学校•獣医学校」等を専門学校の一種と
明治 5 年颁布的学制旨在建立小学、中学、大学三个基本阶段的教育制度,将涉及设计与工艺的工业学校以及农业、商业学校视为“中学”的一种,但并未设立详细规定。翌年明治 6 年发布的学制二编追加中,将“诸艺学校、矿山学校、工业学校、农业学校、商业学校、兽医学院”等列为专门学校的一种。
みなし教員養成等をその目的としたが,当時この規定に合致する学校は,開成学校の組織を改組して設 けられた工業学校各学科,諸芸学校各学科および鉱山学校学科くらいのもので,非常に少なかった。産業教育系学校は,学制発布当時においては学校制度 の外において行われていたのである。
虽然目的是培养准教师等,但当时符合这一规定的学校仅有改组开成学校组织后设立的工业学校各学科、诸艺学校各学科以及矿山学校学科等,数量非常稀少。产业教育类学校在学制颁布时,是在学校制度之外进行的。
工業教育では,明治 4 年頃から工部省の各局•各寮に修技黌や伝習所を設けて,現場技術者養成の速成的教育を行った。たとえば製鉄寮では覺舎,勧業尞内においては女子伝習所を設置した。また,明治 7 年には開成学校内に製作学教場を設けて,精練学及び工作学を教授した。
工业教育方面,自明治 4 年左右起,工部省在各局、各寮设立了修技黌和传习所,进行现场技术人员的速成教育。例如,在制铁寮设立了觉舍,在劝业寮内设立了女子传习所。此外,明治 7 年,在开成学校内设立了制作学教场,教授精炼学和工作学。
3.万国博覧会と海外技術の導入 3.万国博览会与海外技术的引进
1970年の大阪万博が,戦後産業および経済発展の節目として開催され,多くの人が時代の流れを直接的に感じ取り,とりわけデザインが社会的に認知さ れた出来事であったことは記憶に新しい。博覧会の時代とも言われる19世紀において,博覧会の開催 は,現在考える以上に当時の社会や産業•経済に とって大きな意味を持っていた。
1970 年的大阪世博会作为战后产业和经济发展的一个里程碑而举办,许多人直接感受到了时代的潮流,尤其是设计在社会上被广泛认知的事件仍记忆犹新。在被称为博览会时代的 19 世纪,博览会的举办对当时的社会、产业和经济具有比我们现在所想象的更大的意义。
日本のデザインおよびデザイン教育近代化の初期過程で大きな意義を持つのは,明治6年(1873年)に開催されたウィーン万国博覧会であろう。明治政府主導で最初に参加したこの博覧会の出品企画には,佐野常民副総裁のもとで政府の顧問としてドイツ人 ワグネルが参画した。西欧の模倣としか評価されな かった機械製品よりも,日本独自の工芸品を中心に出品するという彼のねらいは功を奏し,日本の工芸品は西欧諸国において高い評価を得た。これを契機 として,工芸品輸出の引き合いが増加し,その後の海外貿易の重要政策の一つとして上げられるように なった。
在日本设计及设计教育现代化的初期过程中,具有重大意义的是明治 6 年(1873 年)举办的维也纳世界博览会。这是明治政府主导下首次参加的博览会,其展品策划在副总裁佐野常民的领导下,有德国顾问瓦格纳参与。与仅被视为模仿西欧的机械产品相比,他主张以日本独特的工艺品为中心进行展出,这一目标取得了成功,日本的工艺品在西欧各国获得了高度评价。以此为契機,工艺品的出口订单增加,成为后来海外贸易的重要政策之一。
佐野常民が博覧会事務局に加わったとき,彼は正院に,博覧会参同の目的を明らかにした上言書を提出していた。佐野が参加の目的としてあげた五つの項目の中には,日本に博物館を作ったり博覧会を開 いたりするための基礎づくり,優秀な物産の出品に より日本の栄誉を海外にあげることもあるが,それ ら以上に重要と目されたのは出品物が輪出増加の系
佐野常民加入博览会事务局时,他向正院提交了一份上言书,阐明了参与博览会的目的。在佐野提出的五个参与目的中,包括为日本建立博物馆和举办博览会奠定基础,以及通过优秀产品的展出提升日本在海外的荣誉。然而,比这些更为重要的是,展品被视为增加出口的关键。
口となること,他国の機械技術を学んで日本の学芸 の進歩や物産の増殖に道を開くことだった。このた め「工業各科ノ学生及諸織工七十名程 7 募撰シ,之 ヲ率イ此会ニ赴キ,現地ニ就テ各専門ノ業術ヲ実見伝習セシメ」ということを提案していた。
其目的是学习其他国家的机械技术,为日本学术艺术的进步和物产的增加开辟道路。为此,他提出“招募选拔工业各科学生及织工约七十名,带领他们前往此次会议,在当地实地学习各专业技艺”。
佐野の真意は学生を技術伝習に参加させることで あったが,この案は正院において否決されてしまう。佐野は何とか技術伝習を実施したいと考え,博覧会終了後に博覧会参加者の中から人選して技術伝習の方針を定め,政府にこれの許可を求めた。しかし,彼 に示された回答は即時帰国の訓令であった。これは,技術伝習の費用の都合がつかなかったためであった。 ところが博覧会参加者の中からは,自費で滞在し技術伝習を受けようとする者が出てきたため佐野はこ れを許可し,ワグネルに技術伝習の斡旋指導を依頼 した。このような状況を見て,政府も自費で技術伝習を受けている者に若干の者を加えて,官費による技術伝習に切り替え,1873年より6カ月の滞在延長 を認めたのである。工業方面の技術伝習に参加した のは15名で,その中には後にデザイン教育に貢献す る納富介次郎や平山英三がいた。
佐野的真实意图是让学生参与技术传习,但这一提案在正院被否决。佐野设法想要实施技术传习,于是在博览会结束后从参与者中选拔人员,制定了技术传习的方针,并向政府申请许可。然而,他得到的答复是立即回国的命令。这是因为技术传习的费用无法筹措。不过,博览会参与者中有人提出自费留驻并接受技术传习,佐野便予以批准,并委托瓦格纳负责技术传习的协调指导。看到这种情况,政府也决定将自费接受技术传习的人员中增加若干人,转为官费支持的技术传习,并从 1873 年起批准了 6 个月的延长居留。参与工业领域技术传习的有 15 人,其中包括后来为设计教育做出贡献的纳富介次郎和平山英三。
伝習生たちは帰国後,国内の産業育成や技術伝習 に貢献した。デザイン・工芸関係では,イタリーで製系術を学んだ圓中文助は,東京山下門博物館で製系撚糸及び生糸検査法の技術伝習に従事したのち,四ッ谷内藤新宿勧業寮試験場構内で応用の技術伝習 に従事し,わが国の製糸業,特に撚䌜の振興に大 きな足跡を残した。
传习生们回国后,为国内的产业培育和技术传承做出了贡献。在设计与工艺领域,曾在意大利学习制丝技术的圆中文助,于东京山下门博物馆从事制丝捻线及生丝检查法的技术传授后,又在四谷内藤新宿劝业寮试验场从事应用技术的传授,为我国的制丝业,尤其是捻丝的发展留下了深刻的足迹。
機織法の伝習生であった伊達弥助(五代)は,繻珍緞子を発明し,西陣機業の復興と機械化に貢献し た。
机织法的传习生伊达弥助(五代)发明了绉缎,为西阵织业的复兴和机械化做出了贡献。
染色法の伝習生中村喜一郎は,西陣の染殿におけ る技術指導,八王子織染学校校長として染色技術教育に足跡を残した。
染色法的传习生中村喜一郎,作为西阵染殿的技术指导以及八王子织染学校的校长,在染色技术教育方面留下了足迹。
製陶法の伝習生であった納富介次郎と河原忠次郎 は,東京山下門内博物館で製陶術の技術伝習に従事 し,後に江戸川製陶所を設立し,製陶教育を行った。江戸川製陶所は,官の指導によってはじめられた博物館技術伝習が中止されたことを遺憾として,民間事業として技術伝習を続行しょうというものであっ
曾是制陶法传习生的纳富介次郎和河原忠次郎,在东京山下门内博物馆从事制陶技术的传习工作,后来他们创立了江户川制陶所,并开展了制陶教育。江户川制陶所对于官方指导下的博物馆技术传习被中止感到遗憾,决定以民间事业的形式继续推进技术传习。
た。納富介次郎は,次に中等工業学校の設立を手掛 け,金沢区工業学校,富山県工芸学校,香川県工芸学校の創設に関わりデザイン・工芸教育の確立に貢献した。
纳富介次郎接下来着手建立中等工业学校,参与了金泽区工业学校、富山县工艺学校、香川县工艺学校的创立,为设计与工艺教育的确立做出了贡献。
4.納富介次郎と三工芸学校の創設 4.纳富介次郎与三工艺学校的创立
(1)金沢区工業学校 (1)金沢区工业学校
石川県は政府の政策のもと,明治 9 年金沢区方勧業場を県営に移し,同13年石川県勧業博物館を県立 にするなどして特産産業の保護育成につとめていた。納富は,1882年(明治 15)石川県から招かれて,陶器,銅器,漆器の改善を依嘱された。介次郎が来県 した頃,輪出産品として工芸品が高く評価されるよ うになり,わが国の伝統文化の見直しが行われた。 この風潮に助けられて石川県では,伝統工芸復興の萌しが現れはじめていた。たとえば,輪島漆器は沈金•蒔絵などの技法を発展させ,山中漆器は県外さ らには海外市場にも視野に入れた製品開発を始めて いた。当時の石川県の同業者は,お互いに敵視して僅かな利益を多数で争い,さらに製品も粗製濫造と いう状況にあった。納富は,千坂県令に同業者団結 の利益を進言し,さらにその具体的な方法(組合組織)を県内を巡回して説いてまわった。これは,日本における組合制のさきがけであり,後に農商務省 が発表した組合準則などは,これを基礎として制定 されたと言われている。
石川县在政府的政策下,于明治 9 年将金泽区方劝业场转为县营,并于明治 13 年将石川县劝业博物馆设为县立,致力于保护和培育特色产业。纳富于 1882 年(明治 15 年)受石川县邀请,受托改善陶器、铜器和漆器。介次郎来到该县时,工艺品作为出口产品受到高度评价,我国传统文化开始重新审视。在这种风潮的推动下,石川县开始显现出传统工艺复兴的萌芽。例如,轮岛漆器发展了沉金、蒔绘等技法,山中漆器则开始着眼于县外乃至海外市场的产品开发。当时的石川县同行之间相互敌视,争夺微薄的利润,产品也处于粗制滥造的状态。纳富向千坂县令建议同行团结的利益,并巡回县内宣传具体的组织方法(组合组织)。这是日本组合制度的先驱,据说后来农商务省发布的组合准则等也是以此为基础制定的。
1886年(明治19年),再び石川県の巡回指導を依嘱された。この時は,農商務省の絵画共進会の審査委員長として,岩村知事や各郡区長を前にして,金沢の諸工芸に対する改善の方針を演説し,くわえて中国への工芸品の輪出貿易を提案した。しかしこの提案は却下された。
1886 年(明治 19 年),他再次被委托担任石川县的巡回指导。此时,作为农商务省绘画共进会的审查委员长,他在岩村知事和各郡区长面前,就金泽各类工艺的改进方针发表了演讲,并提出了向中国出口工艺品的贸易建议。然而,这一建议被否决了。
1887年(明治20年),嘱託任期が終わって石川県 を去ろうとしたとき,県当局は強く彼を引き留め,廃案となった中国への貿易の代償として何か望みを入れたいと申し出た。納富は,多年胸の内に秘めて いた工業学校創設の案を提言した。県当局は,この計画を金沢区会に諮った結果,小画学校を設立する こととなったが,納富はそれに満足せず,金沢区議会にはたらきかけて拡張論を唱えた。そして,設立
1887 年(明治 20 年),当嘱託任期结束时,石川县当局强烈挽留他,并提出希望他能提出一些替代已废弃的对华贸易方案的建议。纳富于是提出了多年来心中酝酿的工业学校创立方案。县当局将此计划提交金沢区会商议后,决定设立一所小规模学校,但纳富对此并不满足,转而向金沢区议会游说,主张扩大规模。最终,学校得以设立。
されたのが金沢区工業学校であった。 是金泽区工业学校。
当時のフェノロサ,岡倉天心らの伝統美術復興の動きがあるなかで,1885年(明治 18 年)には石川県勧業博物館内に設けられた蓮池会と同好者の集まり である絵画考究会は,絵画の革新よって伝統工芸を改良しようとする目的から,私立画学校を設立しよ うと計画したが,資金を得ることができなかった。 この計画が行きづまっている時に,絵画を盛んにし て石川県の特産工芸品の改良に着手しょうという立場から,これを助けたのが県殖産課に勤めていた宮崎豊次である。宮崎豊次は1885年(明治18年)12月 に蓮池会と絵画考究会に奨め,両会会員の名で金沢区長(現在の金沢市長にあたる)に対し,絵画復興 に関する意見書を提出して画学校建設を建議してい る。
在当时的费诺罗萨、冈仓天心等人的传统美术复兴运动中,1885 年(明治 18 年),石川县劝业博物馆内设立的莲池会与同好者的集会——绘画考究会,出于通过绘画革新来改良传统工艺的目的,计划设立私立画学校,但未能获得资金。在这一计划陷入困境时,从振兴绘画并着手改良石川县特产工艺品的立场出发,县殖产课的宫崎丰次给予了帮助。宫崎丰次于 1885 年(明治 18 年)12 月鼓励莲池会和绘画考究会,以两会会员的名义向金泽区长(相当于现在的金泽市长)提交了关于绘画复兴的意见书,并建议建设画学校。
宮崎豊次の努力と両会員の熱心な運動で,金沢区会に画学校設立の意見が唱えられるようになった。 これと同じ頃に,納富介次郎が工業学校の創立を申 し出たのである。石川県は財政も苦しくかつ工業教育に対する理解も乏しかったので,工業学校の設立 には難色を示していた。しかし,実践家として中央政界との接点を持つ納富を引き留めるために,やむ なく金沢区会にすすめて画学校を創立させることと した。
由于宫崎丰次的努力和两位会员的热心活动,金泽区会开始提出设立画学校的意见。与此同时,纳富介次郎提出了创办工业学校的申请。石川县财政困难且对工业教育的理解不足,因此对设立工业学校表示为难。然而,为了留住作为实践家并与中央政界有联系的纳富,石川县不得不建议金泽区会设立画学校。
しかし,画学校という方向性は,納富の意図する ものではなかった。納富は全力をふるって区会議員 の説得につとめ,新たに創設する学校は,金沢区を中心とする石川県産業発展の中核となるものでなく てはならないと主張した。さらに,学理研究をとお してこれを応用する技術者を教育する工業学校でな ければならないことを強く説いた。結局,納富の努力が功を奏し,金沢区は明治20年度予算に総額2,484円を計上し,これをもって金沢区工業学校(現石川県立工業高等学校)の創設が決定した。
然而,画学校这一方向并非纳富的初衷。纳富竭尽全力说服区会议员,主张新设立的学校必须成为以金泽区为中心的石川县产业发展的核心。他进一步强调,必须是通过学理研究来培养应用型技术人员的工业学校。最终,纳富的努力取得了成效,金泽区在明治 20 年度的预算中列入了总计 2,484 日元,并以此决定设立金泽区工业学校(现石川县立工业高等学校)。
金沢区工業学校は,1887年(明治20)7月,納富介次郎初代校長のもと,石川県勧業博物館を仮校舎 として開校した。在籍生徒は137名(男子80,女子 57),研究生69名(男子32,女子37)であった。開校式は日をあらためて同年10月26日に,第四高等中学(旧第四高等学校)の施設視察のために来県して
金沢区工业学校于 1887 年(明治 20 年)7 月,在首任校长纳富介次郎的领导下,以石川县劝业博物馆为临时校舍正式开学。当时在校学生有 137 名(男生 80 名,女生 57 名),研究生 69 名(男生 32 名,女生 37 名)。开学典礼则改期至同年 10 月 26 日举行,正值第四高等中学(原第四高等学校)为设施视察而来到该县之际。