専修大学社会科学年報第 45 号― 175 ― 1)引言昨夏、 社研の「 中国自動車産業視察調査」 に参加したが、 振り返ると隣の中国に始めて足を踏入れたのは、 たしか麻島所長時代( たしか1 9 9 0 年代) に、 上海社会科学院と学術交流を試みたことがあり、 さらに逝くなられた野口真先生と文学部樋口淳先生が報 告さ れ た 社研の 北京大学国際 関係 学院と の 学術 交流に 続き 、 翌年1 1 月、 同じ く 国際 関係 学院ア ジ ア ア フ リ カ 研究所の 李寒梅教授( 当時 は 副教授) を 全く 新し い 研究棟 「 陳 瑞鵬 楼」 に 訪 問 す る こ と が 出来た の で あ る 。 同行し た 旧大友ゼ ミ 出身の 石井洋一君が 持参し た 銘 酒「 賀 茂鶴 」 を 同席さ れ た 北京大学名誉教授( 著名な 書 家で も あ る ) 張 振国先生に 謹 呈す る と 「 日本酒は 飲 み 易い 」 と 大変喜ば れ 、 後刻「 達 筆 な 礼詞 」 を 届け て 下さ っ た 。 帰途学内の 大き な 池と そ の 畔に 葉 劍 英の 筆 に な る 『 中国人民的美国朋友埃德加期之墓1 9 0 5 - 1 9 7 2 』 を も 訪 ね た の も 懐か し い 。 2 0 0 5 年1 1 月に も 、 北京市内張 自忠路の 旧「 段祺瑞の 北京中央政府」 の 跡 に あ る 「 中国社会科学院日本研究所」 を 訪 問 、 蒋立峰所長 ・ 孫 新副所長 ・ 高洪所員 ・ 李春光所員 ( 現 在中国在日日本大使館 二等書 記 官) ・ 超剛 所員 ・ 孫 伶伶所員 ら と 交流を 深め る こ と が で き 、 こ れ が 縁と な っ て 、 2 0 0 7 年に は 、 河南大学日本研究所に 拙い 蔵書 の 大半を 寄贈 す る こ と が で き た 。 そ も そ も の 動 機 は 「 日本研究所の 有沢広巳・ 馬 場 敬治、 両( 東 大教授) 文庫 」 を 拝見 し て 、 必ず し も 十分で は な い と 考え て 寄贈 を 申出た の で あ る 。 そ の 頃 中国で は 、 「 日本研究所」 ブ ー ム で も あ っ て 、 2 0 0 年2 月に は 、 再出発の 「 河南大学日本研究所( 所長 は 上記 の 高洪博士) 開 所式」 に 出席し た 。 矢吹晋横浜市立大学名誉教授・ 村井忠禧横浜国立大学教授・ 清水美和中日新聞 編 集委員 ら と 招か れ 、 私は 「 河南大学日本研究所兼職 教授」 の 「 聘書 」 を 戴い た 。 河南大学( 開 封市順 河区明倫 街・ 金明大道地域に わ た り 、 広い 校地に 多数の 校舎が 建て ら れ て い る ) は 、 河南人民政府の 援助の 下、 大学院( 成人教育も 含む ) 総合大学で あ る が 、 周知の よ う に 、 開 封は 「 宋の 時 代に は 東 京」 で あ り 、 河南省の 省都鄭 州に 隣接し 、 戦前来「 綿 作地」 に 属し て い る が 、 近時 の 「 高速鉄道時 代の 到来」 で 、 北京・ 鄭 州・ 武漢 ・ 長 沙・ 広州( ・ 香港) の 建設 が 予想さ れ 、 そ れ に 伴い 「 鄭 州~ 開 封」 間 に は 路面電 車 を 走ら せ る 計 画も 始ま っ て い る と い う 。 い ず れ 将来に は 、 単独で 「 鄭 州空港か ら 、 開 封・ 河南大学」 に 到着す る こ と も 可能と な ろ う 。 な お 、 上述し た 私の 「 蔵書 」 約 8 5 0 0 冊 余が 現 在整理・ カ ー ド 化が 進 行中で あ る が 、 河南大学よ り 、 2 0 0 7 年 月4 日付で 「 栄誉証 書 」 を 頂 戴し て い る 。 出来れ ば 、 も う 一回寄贈 を 実現 し て 「 万」 を 超え た い と 念願 し て い る 。 最近の中国 研究の動向 加藤幸三郎<研究ノート> CORE Metadata, citation and similar papers at core.ac.uk ― 17 ― 専修大学社会科学年報第 45 号2)西安・西北大学訪問・交流 2 0 0 8 年1 1 月に は、 始めて西安・ 西北大学に王維坤先生を訪ね、 学内文博学院を訪問、 先生に初めてお会いでき、 当時発見されて有名になっていた「 井真成氏『 墓誌』 」 ( 丁度運悪く、 日本で展示中のため、 「 レプリカ」 ) を見学した( なお王維坤教授とは、 こ の 『 墓誌 』 発見 の 経緯 と も 関係 し て 、 本学前文学部長 矢野健一教授の 推薦 ・ 要請 で 、 昨2 0 1 0 年秋に 來 日、 半年の 予定で 文学部客員 教授と し て 、 「 ゼ ミ ナ ー ル 」 を 開 講 さ れ て い る ) 。 こ の 折に は 、 西安市内の 「 旧長 安城の シ ル ク ロ ー ド 」 の 起点を は じ め ( す で に 、 市内に は 建設 工事の 組 立て が 各所で 始ま っ て い た ) 、 「 清真時 ( イ ス ラ ム 教) 」 ・ 「 清英寺」 と 空海の 修行し た 僧坊、 有名な 「 阿部仲麻呂 記 念碑」 な ど も 見 学で き た 。 さ ら に 、 ま だ 当時 は 、 「 第 号{ 未発掘} 」 が 発見 さ れ た ば か り の 「 兵馬 俑記 念館 」 第一号を 見 学し 、 そ れ も 今回と 違 い バ ス で 「 入口」 に 到着す る と 、 多数の 「 お 土産売り 」 の 人た ち の 執 拗な こ と 、 そ れ を や っ と 潜り 抜け て 、 第一号「 発掘現 場 」 を 見 学、 偶然に も 、 ガ イ ド さ ん の ご 好意で 「 1 9 7 4 年 月頃 、 旱害に 悩む 農 民 名と と も に 井戸を 掘っ て い た 、 最初の 兵馬 俑発見 者、 楊 志発さ ん 」 と 面会す る こ と が 出来た 。 今思う と 、 多数の 見 学者で ご っ た 返し て い た が 、 今回の よ う に 「 電 気自動 車 」 で 「 炭酸ガ ス 」 に 留意す る ( 拙い 経験だ が 、 イ ン ド ・ タ ー ジ マ ハ ル の 場 合の 「 電 気自動 車 や 馬 」 を 使用し て い た ) の は 、 人類 の た め に も 進 歩と い え よ う 。 ま た 「 華 清池」 も 訪 ね 、 温泉噴 出に 興 味を ひ か れ た が 、 奥ま っ た 「 西安事変旧址五間 廳 」 の 質 素な 建物と 1 9 年冬「 寝巻き 姿の 蒋介石」 を 追駆け た 張 学良の 心境を 推察で き た 。 い わ ゆ る 歴史的に も 有名な 「 西安事件」 の 発端の 場 所で あ る 。 3)「中国改革開放與東亜:東亜合作論 壇2008」於中国人民大学国際関 係学院こ の 帰途、 北京に 立ち寄り、 前述の中国社会科学院日本研究所に近い「 北京和敬府賓館」 に着き、 宿泊の手続きをしていたら、 高洪博士から電話が入り、 「 明日朝7 時に迎えにゆくから、 その予定で」 とのこと、 何やら判らず、 同行の超剛博士は、 「 改革・ 開 放シ ン ポ 」 の 質 疑・ 応答者に 予定さ れ て い る と い う 話 。 全く 突然で 何に こ と や ら さ っ ぱ り 判ら な い 。 そ の 翌朝、 約 束の 時 間 に な る と 、 高洪博士は 、 夫人が 運 転さ れ る 車 で 迎え に 来ら れ 、 「 人民大学で の 『 東 亜合作論 壇 2 0 0 8 』 に 私も 出席す る が 、 午後の 討 論 に 参加し て 欲し い 」 と い う 話 、 し か も 「 レ ジ ュ メ 」 も 資 料も 知ら な い と い う 。 北京市内の 朝の ラ ッ シ ュ を 抜け て 、 始め て の 人民大学に 到着。 聞 く と こ ろ で は 、 こ の 中国人民大学は 、 中国で は 北京・ 清華 両大学に 次ぐ 三番目の 「 中国共産党幹 部の 子弟育成の 大学」 と い う 。 近代的な 高層 の 研究棟 が 並ん で い た 。 そ の 学内「 東 亜研究中心」 で 開 催さ れ て い た 会場 の 「 受付」 に は 、 私宛の 「 配布資 料」 が す で に 用意さ れ て い た 。 し か も 早速迎え 入れ ら れ て 、 駐 中国日本大使館 道上尚史公使〔 広報 文化セ ン タ ー 主任〕 や 亀山伸正( 同政治部) 研究員 、 そ れ に 主催者の 一人の 高原明生東 大教授、 (昨年出版さ れ た 『中日関係 史1978-2008』の 監 訳者)、神戸大学王柯教授(午後の 討 論 で は 、私の 通訳の 労を と っ て 下さ っ た )方々と 挨拶を 交わ す こ と が で き た 。午前中の 報 告を 終 え ら れ た 高洪博士は 、「記 念写真」撮影後、日本へ 出発の 為 直ち に 帰ら れ て し ま い 、午後の 「コ メ ン ト 」は 私の 判断で 話 さ ざ る を 得な い 羽目に な っ て し ま っ た 。配布資 料に よ れ ば 、参加者は 日韓 中三国の 大学研究者47名、人民大学関係 者27名の ほ か に 、新聞 ・ 最近の中国研究の動向 ― 177 ―情報 関係 者1名と い う 多彩な 顔ぶ れ で あ っ た 。旅程上、一日し か 参加で き な か っ た が 、恐ら く こ の シ ン ポ ジ ュ ウ ム の 「 基調 報 告」 と も い う べ き 、 高原明生教授の 『 日韓 中三国間 協 力の 障害と そ の 克服』 ( 中国語 発言) を 以下に み て み よ う 。 昨年秋の 「 日中国交関係 」 を 揺る が し た 「 尖閣 諸 島 」 を め ぐ る 日中間 の 領 土問 題 = 外交摩擦に も 通じ る 内容を 含ん で い る と い え よ う 。 私の 見 る 限り 、 三つ の 論 点か ら 構 成さ れ て い る 、 と 考え ら れ る 。 (ア)協力の進展とコミユニテイ形成の可能性 ま ず 日韓 中の 三国間 協 力が 諸 地域で 進 ん で い る こ と は 、 毎年三国間 首脳会議 に 提出さ れ る 『 協 力進 捗 報 告書 』 に 明示さ れ 、 2 0 0 7 年 月に は 、 外相会議 が A S E A N プ ラ ス な ど の 多国間 会合時 で は な く 、 始め て 独自に 開 か れ た 。 2 0 0 8 年秋か ら は 、 同様に 三国間 首脳会議 が 開 か れ る こ と が 決 定し て い る 。 そ し て 、 大臣レ ベ ル な い し は 局長 レ ベ ル の 三者会合が 毎年開 催さ れ る よ う に な っ て い る 。 個 別 の 領 域と し て は 、 貿 易、 投資 、 ビ ジ ネ ス 環 境、 物流、 環 境保護 、気候変動 、科学技術 、情報 通信、金融、税関、治安、保健、文化、教育、人事行政な ど が あ る 。政治家や 役人の み な ら ず 、日中韓 Aサ ッ カ ー・チ ャ ン ピ オ ン ズ カ ッ プ や 日中韓 ジ ュ ニ ア 交流競 技会が 開 か れ て い る ほ か 、三国の エ ネ ル ギ ー産業 の 指導 者た ち が 集う 北東 ア ジ ア 石油フ オ ーラ ム な ど 業 界の 会合も あ る 。さ ら に 、例え ば 、日中韓 の 学生が 自主運 営す る 国際 ビ ジ ネ ス コ ン テ ス ト (OVAL=OurVisionf o r A s i a n L e a d e r s h i p ) も 毎年活発に 開 催さ れ て い る 。 こ の よ う に 、 社会の 様々な レ ベ ル で の 三国間 交流ネ ッ ト ワ ー ク も 実態 と し て い よ い よ 発展し て い る 。 様々な 三国間 の ネ ッ ト ワ ー ク や フ レ ー ム ワ ー ク の 増加は 、 言う ま で も な く 、 モ ノ 、 カ ネ 、 ヒ ト 、 情報 、 さ ら に は 環 境汚染や ウ イ ル ス な ど 、 実に 様々な 「 も の 」 が 国境を 越え て 活発に 流通す る よ う に な っ た こ と と 関係 す る 。 そ し て 様々な 越境現 象の 進 展が 果た し て 東 北ア ジ ア の 地域統 合を 推進 し 、 コ ミ ユ ニ テ イ の 形成に つ な が る の か が 大き な 関心事と な っ て い る 。 し か し 、 コ ミ ユ ニ テ イ は 厳格に 定義 さ れ な い ま ま 日常的に も よ く 使わ れ る 言葉 で あ り 、 東 北ア ジ ア コ ミ ユ ニ テ イ と は 何で あ る か に つ い て も 、 人に よ っ て そ の 理解は ま ち ま ち で あ る 。 前近代的な 村落社会の よ う な 、 歴史や 文化を 共有す る 者の 共同生活体を イ メ ージ す れ ば 、東 北ア ジ ア コ ミ ユ ニ テ イ は 相当長 期の 間 、実現 不可能だ と 多く の 人が 結 論 せ ざ る を え な い だ ろ う 。し か し 、現 代社会に お い て コ ミ ユ ニ テ イ と 呼ば れ る 存在は 必ず し も 共同生活体で は な い 。社会学者の 定義 も さ ま ざ ま だ が 、敢え て 大別 す れ ば 、一定の 地理的な 領 域を 基本要件と す る 捉え 方と 、必ず し も 地理的な 領 域を 要件と し な い 立場 の 二種 類 に 分け ら れ 、......そ の 他の 要件に つ い て も 捉らえ方に幅があるが, 血縁や地縁のほか、 共通の価値や信仰、 あるいは共通の利益やニー ズ 、 さ ら に 場 合に よ っ て は 共通の 興 味や 関心な ど を 基礎 と し て 、 構 成員 が 絆 で 結 ば れ ア イ デ ン テ イ テ イ を 共有す る こ と が 一般的に コ ミ ユ ニ テ イ の 要件と し て 求め ら れ る だ ろ う 。 そ こ で 、 コ ミ ユ ニ テ イ 形成の 可能性を 考え る 上で 注目す べ き は 、 ネ ッ ト ワ ー ク と フ レ ー ム ワ ー ク の 発展で あ る 。 す な わ ち 一方に お い て は 、 「 も の 」 の 越境を 可能に し 、 促進 す る ネ ッ ト ワ ー ク 、 あ る い は 「 も の 」 の 越境の 結 果と し て 形成さ れ る ネ ッ ト ワ ー ク 、 あ る い は 「 も の 」 の 越境の 結 果と し て 形成さ れ る ネットワー クが存在する。 ネットワー クを形成する主体は、 さまざまであり、 企業や研究所、 非政府組 織 ( N G O ) 、 財 界人や 研究者、 海賊 、 テ ロ リ ス ト 、 華 僑 や 印僑 、 そ れ に ポ ッ プ ・ カ ル チ ャ ー の 愛 好者や シ チ ズ ン な ど を 含む 。 疫病感染者が 、 自覚の 無 い ま ― 178 ― 専修大学社会科学年報第 45 号ま 感染ネ ッ ト ワ ー ク を 形成し て し ま う 場 合も あ る だ ろ う 。 他方、 そ れ と 同時 に 、 「 も の 」 の 越境を 促進 し 、 あ る い は 規 制す る た め の 多角的な フ レ ー ム ワ ー ク づ く り が 進 め ら れ て お り 、 一般的に は そ の 構 成員 は 国家機 関で あ る 。 な ぜ か と 言え ば 、 そ れ を 促進 す る に せ よ 規 制す る に せ よ 、 一国だ け では「 もの」 の越境を統制できない場合がほとんどであるから だ 。 そ し て 問 題 別 、 機 能別 に 多層 的に 形成さ れ る 無 数の ネ ッ ト ワ ー ク と フ レ ー ム ワ ー ク の 重な り 合い が 最も 濃 密な 地域こ そ 、 自然と コ ミ ユ ニ テ イ が 形成さ れ る 範 囲と な る も の と 思わ れ る 。 日韓 中は 地理的に 近接し 、 儒教な ど の 文化的な 共通性も 比較 的高い ほ か 、 三者間 の ネ ッ ト ワ ー ク と フ レ ー ム ワ ー ク の 発展状況 に 鑑 み れ ば 、 将来の コ ミ ユ ニ テ イ 形成に 期待が 持て そ う な 気も す る 。 し か し 三国の 間 に は 、 「 絆 で 結 ば れ ア イ デ ン テ イ テ イ を 共有す る」 コミユニテイを形成する上で障害となる問題 も 存在す る 。 そ の 中で も 根が 深い の が 、 歴史認 識 と 領 土を め ぐ る 問 題 で あ り 、 さ ら に は そ の 根底に あ る ナ シ ヨ ナ リ ズ ム の 問 題 で あ る 。 以下に お い て は 、 そ れ ぞ れ に つ い て 簡 単な 考察を 行い 、 そ の 上で 問 題 を 克服し 協 力を 深め る た め の 方策を 考え る こ と と し よ う 。 (イ)協力の障害――歴史認識、領土問題、そ してナシヨナリズム 歴史認 識 問 題 と は 、 何か 。 い わ ゆ る 歴史認 識 問 題 と 歴史を め ぐ る そ の ほ か の 問 題 と は 区別 す べ き で あ り 、 日韓 中の 間 の 政治関係 に 影響 を 及ぼ し て きたのは後者であって、 歴史認識 問 題 で は な い と い う の が 筆 者( 高原氏) の 仮説で あ る 。 こ こ で は 、 韓 国と 中国の 間 の 歴史認 識 問 題 に つ い て は 明示的に 触れ ず 、 日韓 お よ び 日中の 間 の 問 題 の み を 取り 上げ る 。 よ く 言わ れ よ う に 、 様々な 歴史的事象に つ い て の 認 識 が 多く の 人々の 間 で 、 ま し て や 三つ の 国の 国民の 間 で 完全に 一致す ることはあ り え な い だ ろ う 。 義 和団事変や 、 日露戦争に つ い て の 認 識 は 三国の 国民の 間 で は 一致し て い な い し 、 当面そ れ を 期待す る 必要も な い 。 で は 、 日韓 中の 間 の 外交関係 に と っ て 問 題 と な る 重要な 歴史認 識 は 何か と い え ば 、 そ れ は 日韓 併 合及び 日中戦争の 性質 と 、 そ こ か ら 得ら れ た 教訓 に つ い て の 認 識 だ と い っ て 間 違 い な い だ ろ う 。 確 か に 、 例え ば 、 日中戦争は 侵略で は な か っ た と 言う 政治家や 学者が 一部に い な い わ け で は な い 。 し か し 、 そ う い う者はいやしくも歴史学者を名乗る者の間にはほとんどいないのではないか。また、日本政府の立場が揺らいだことはない。これに対し、小泉前首相は「誤った歴史認識の持ち主ではなかったか」と考える中国人や韓国人も少なくないかもしれない。しかし、例えば戦後0周年にあたり発せられた談話の中で、小泉は次のように述べている。我が国は、かって植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。こうした歴史の事実を謙虚に受け止め、改めて痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明するとともに、先の大戦における内外のすべての犠牲者に謹んで哀悼の意を表します。悲惨な戦争の教訓を風化させず、二度と戦火を交えることなく世界の平和と繁栄に貢献していく決意です。あるいは、2001年の初めての靖国神社参拝の際に発せられた談話では、既に次のように述べていた。わが国は明後八月十五日に、五十六回の終戦記念日を迎えます。二十一世紀の初頭にあ Related papers