「──い、おい! 潔! 起きろ!」
乱暴に身体が揺さぶられる。起きなければと思うのに、なかなか意識を捉えることができなかった。質の悪い午睡(ごすい)をした時のように、夢と現(うつつ)の狭間から戻ってくることができない。必死に目をこじ開けようとすると、瞼がぴくぴくと動くのが分かった。何とも気分の悪い感覚だった。これって金縛りってやつか? 思い通りに動かない身体に内心舌打ちをした時だった。頬に凄まじい一発を食らった。
「いってぇ‼」
さすがに目が覚めた。
潔は跳ね起き──心臓が止まるかと思った。こちらを覗き込んでいる男の姿に、己の正気を疑った。
「……凛?」
死んだはずの糸師凛が、そこにはいた。綺麗な顔をこれ以上ないほどしかめて、不機嫌に睨みつけてくる。彼が着ている見覚えのあるユニフォームが何なのか、すぐには思い出せなかった。濃いブルーのユニフォーム。まるでブルーロックの象徴のような、見る者の心をざわつかせるコバルトブルー。
「U―日本20代表選の時の、ユニフォーム……?」
目の前の凛が着ているユニフォームの特徴と合致するものは、潔が記憶している限りそれだけだ。どういうことだ? 潔は息も止まるほど混乱した。自分は冴と共に轢(ひ)かれたのではなかったか? 呆然とする潔に、凛がぎゅっと眉根を寄せる。潔が見慣れた顔より幼い顔つきだった。
「何をふざけたことを抜かしてんだ? 自分を殺すって言った男に対して、ずいぶんと舐めた態度じゃねぇか」
「殺す……?」
「ああッ⁉ それすらまともに聞いて無かったのかよ! 今すぐブチ殺すぞ!」
瞬時に激高する凛に、潔は思わず涙をこぼした。きっとこれは夢だ。潔は思った。あれだけの大型トラックに轢かれて無事に済むとは思えない。目の前の光景はあくまでリアルな夢で、実際の自分は重症を負って昏睡(こんすい)しているに違いない。これは運命の女神(モイライ)が与えたギフトだ。潔は口を掌で覆い、必死に嗚咽(おえつ)を堪えた。絶望した潔を女神たちが哀れんで、美しい夢を見せてくれているのだ。もう一生目覚めたくない、と潔は願った。非情な現実に戻りたくない。死ぬまでこの夢に浸っていたい。凛が死んだ世界になど、絶対に還りたくない。
「おまえ、何泣いて──」
凛が僅かに狼狽(うろた)えた時だった。控室の扉が乱暴に開かれた。すらりとした長身の青年が飛び込んでくる。潔は目を見開いた。
「冴……?」
糸師冴だった。激しく動揺した様子で、息を切らせている。こんなに取り乱した彼を見たのは初めてだった。顔色を失うほど狼狽(ろうばい)している姿に、まさか、と思った。まさか、そんなはずはない──。
「凛」
冴が震える声で弟の名を呼んだ。おぼつかない足取りで近寄り、凛の顔に手を当てる。凛は愕然とした。冴を凝視する。その瞬間、愚直に兄を慕う弟の顔があらわになった。
「……生きてる?」
その一言は、心臓が止まるほどの衝撃を潔に与えた。冴、と潔は喘ぐように呼んだ。冴がゆっくりとこちらを見る。
「雨」
潔は震える声で言った。
「トラック」
冴の身体がぐらりと傾(かし)いだ。壁に背中がぶつかる。冴は片手に顔を埋(うず)めた。そのまままるまる一分はその格好で立ち尽くしていた。
「兄ちゃん?」
凛が戸惑ったように兄に触れた。
「どうしたんだよ。トラックってなんだよ。おまえら、何の話をしてるんだ? そもそも、面識あったのか? 聞いてねぇぞ」
冴は長い長い息を吐き出した。顔を上げる。冴は弟の頭を掴み、自分の肩に押し付けた。凛が息を呑むのが、潔にも分かった。兄ちゃん、と凛がもう一度呼ぶ。今にも泣き出しそうな声だった。
「……凛」
冴は大切そうに弟の名を紡いだ。それから、凛から身を離した。潔に歩み寄り、腕を掴む。肩が抜けると思うほどの力で引き上げられた。冴は潔を連れてドアを開けた。突然の成り行きに固まっていた凛が、慌てた様子でドアを閉めようとした。
「ま、待てよ! 潔になんの用だよ? っていうか、兄ちゃんさっきからおかしいぜ?」
「退(ど)け」
冴は端的に命じた。先ほどの様子が嘘のような、冷静な声だった。だが腕を掴まれている潔には、冴の動揺が伝わっていた。冴の手は震えていた。
「潔に話がある」
「は?」
「分かったら退け」
「わっ、わかんねーよ! わけわかんねぇ! つか、話ならここですればいいだろッ」
「二人きりで話す必要がある」
「なっ──」
「おまえには関係の無いことだ」
冴の声には突き放す響きがあった。凛は石を飲み込んだように固まった。冴は潔を連れて部屋を出た。潔は黙って従った。頭が現実に追いつかず、何も考えられない。確かなことはひとつ。冴はいつだって正しい。彼が潔と二人きりで話す必要があるというのならば、そうなのだ。
冴は通路を進み、ひとけの無いところで立ち止まった。二人は向き合い、しばらく黙っていた。口火を切ったのは冴だった。
「何がどうなってる?」
途方に暮れた囁きだった。
「おまえは──あの、潔か」
潔には、冴の言わんとしていることが分かった。
「そうだ」
頷き、乾く口を必死に動かして言葉を押し出した。
「あんたの義弟(おとうと)の、潔世一だ」
冴は壁に背中を預け、天を仰いだ。潔の目が、自然と壁に貼られたポスターに吸い寄せられる。ブルーロックと糸師冴を加えた日本代表選手の試合を宣伝するポスターだった。潔は震える指でポスターを指さした。
「冴、見て」
冴は首をひねり、そこに貼られたものを見た。記載された日付を繰り返す。二人が生きていた年から、十年も遡(さかのぼ)った日付を。
「どういうことだ?」
冴はもう一度疑問を呟いた。動揺する冴を見ていると、潔は不思議と落ち着いてきた。ためらいがちに、馬鹿げた単語を口にした。
「タイムスリップ」
冴が潔を見る。
「……って、やつ?」
沈黙が流れる。冴がハッと笑った。乾いた失笑だった。
「バカかよ。小説じゃねぇんだ。そんなもん、マジであるわけねぇだろ」
「じゃあ、この状況は何なんだよ」
「……」
「夢にしてはおかしいだろ。リアルすぎる」
「……おまえが、俺の頭が生み出した妄想って可能性もある」
「それを言ったら、こっちも同じだ。おまえは俺の妄想なのか?」
「さあな」
冴は肩を竦めた。
「俺はすげぇリアルな夢を見てるんだろ。そうでなきゃ、説明がつかない」
「……そうだな」
潔は認めた。タイムスリップしたなんて話より、夢オチの方がよほど現実味がある。
「もし夢なら、すげーリアリティだ」
潔は冴の顔に触れた。清冽(せいれつ)な美貌を見つめる。
「俺もおまえも、確実に身体が小さくなってるぜ。おまえの顔も、俺が知ってるより若い」
「……おまえは童顔だからよく分かんねぇ」
「そんなわけあるか」
「……認めたら、負けな気がするぜ」
「なんの意地なんだか。……ああ、見ろよ」
潔は自分の手を冴の前にかざした。
「怪我が消えてる」
冴は舌打ちをした。腕を組んで、ポスターをじっと睨む。やがて、掠れた声で言った。
「ここは本当に十年前なのか?」
「……たぶん。もしくは、十年前の夢を見てる」
「どっちにしろ馬鹿げてる」
冴は乱暴に髪をかきあげた。顔から血の気が引いているのを見て、自分も同じ顔をしているに違いないと思った。
「俺はなんでもいいよ。夢でも、なんでも」
潔はぽつりと本音をこぼした。冴とまっすぐに目が合う。
「凛がいる」
目頭が熱くなった。
「凛と話ができる。これ以上に大事なことがあるか?」
気づけば血が滲むほど唇を噛んでいた。肩を震わせる潔に、冴はふっと苦笑した。長い指で潔の前髪に触れる。
「無いな」
迷いなく断じる。
「何も無い」
冴は潔を片腕で抱き締めた。潔は冴の肩口に額を押し付けた。冴も顔を寄せてくる。彼の顎に自分の髪が触れているのが分かった。お互いの震える息遣いが聞こえる。目の前にいる男が、自分の脳みそが生み出した妄想でもなんでも構わなかった。この心臓が壊れてしまいそうな衝撃と感動を分かち合える存在がいることに、心から感謝した。無神論者だったけれど、今日から毎朝毎晩あんたに祈りを捧げるよ。潔はいるかも分からない神とやらに呼びかけた。それでも足りないくらいだと思うけど、とにかく感謝する気持ちだけは本物だ。
「これが夢なら」
冴が吐息混じりに囁いた。
「二度と目覚めたくないな」
「……俺もだよ」
気を抜けば涙が出てしまいそうで、奥歯を強く噛み締めた。冴が潔を抱く腕に力を込めた、その時だった。
「──何、してんだ」
聞く者の心を突くような、軋(きし)んだ声ががらんとした通路に響いた。二人はぱっと身を離した。糸師凛が、愕然とその場に立ち尽くしていた。傷つき打ちのめされた顔をしていた。絶望すら漂わせていた。
「何してるって、聞いてんだよ」
「凛」
潔は名を呼んだが、言葉が続かなかった。思わず縋(すが)るように冴を見る。冴は舌打ちをした。潔にだけ聞こえる小声で毒づく。
「……クソッ、下手打っちまった」
「兄ちゃ──兄貴」
凛は大股で歩み寄った。腕を伸ばせば届く距離で立ち止まった。
「潔と、何をしてたんだ?」
そう詰問する声は、もはや兄を慕う声では無かった。男の嫉妬が剥き出しになっている。逞(たくま)しい身体から怒りが迸(ほとばし)っていた。無意識なのか、冴は潔を守るように背に庇った。凛の瞳がますます燃えていく。
「おまえたち、初対面じゃねぇな」
凛は抉(えぐ)るように二人を睨みつけた。冴は一瞬間を置いてから、淡々と答えた。
「おまえには関係のないことだ」
「っ、またそれかよ!」
噛み付くように怒鳴る。本気の怒声に、潔は反射的に身を竦ませた。長い期間に渡る交際中、凛と喧嘩したことなど数え切れないほどある。だがここまで激昂した凛を見るのは久々だった。
「潔と関係ないのは兄貴だろ! こいつは俺の──ッ」
凛は中途半端に言葉を途切らせた。唇を噛み締め、潔を睨みつける。殺気すら感じさせる視線に、潔は凍りついた。凛が腕を伸ばす。その手が潔に触れる前に、冴が打ち払った。怒りのためだろう、凛の白い頬が紅潮した。
「邪魔すんな!」
「今のおまえを潔に近寄らせることはできねぇよ。何をしでかすか分かったもんじゃねぇ」
「俺がこいつに何をしようが、兄貴に口を挟む権利はねぇ」
「大ありだ。潔は俺にとっても大事な──」
潔にはその先の言葉の想像がついた。義弟か、家族か。どちらにせよ、今の凛に言えるはずもないことだ。
凛は身体を震わせた。彼はもはや狂乱寸前に見えた。
「大事な何だよ。最後まで言えよ!」
「おまえの心配するような仲じゃない。だから落ち着け」
「ふざけんな!」
凛は冴の襟首を掴んで、壁に叩きつけた。冴が呻く。凛は構わず冴の首を締め上げた。
「潔を見つけたのは俺だ! 兄ちゃんじゃない!」
「ッ、凛、」
「いくら兄ちゃんでも、俺から潔を奪うのは許さねぇ!」
冴の顔が苦痛に歪む。凛の激昂にあてられていた潔だったが、冴の身を案じる気持ちが勝(まさ)った。急いで二人の間に割って入る。
「凛、やめろ! 冴とは何も無い。俺も冴も、おまえを裏切ったりしないから!」
「黙れ!」
すさまじい力で突き飛ばされ、潔は床に倒れ込んだ。思いきり頭を打ち付ける。目の奥で火花が散った。
「潔! ……この、馬鹿がッ」
激痛に意識を奪われていた潔には、何が起こったか分からなかった。眩暈(めまい)をこらえて瞬いたとき、凛は腹を押さえて呻いていた。頬に打撲痕もあり、唇を切っている。
「い、潔? 凛ちゃん?」
不意に聞き慣れた声がした。数人の野次馬に混じって、蜂楽廻が唖然と突っ立っていた。千切豹馬と凪誠士郎もいる。あれだけ騒げば、耳目(じもく)を集めて当然だ。冴は苛立ちもあらわに乱れた髪をかきあげると、潔の傍らに立った。手を差し出す。
「立てるか?」
「う、ん……くッ」
立ち上がろうとしたが、激しい眩暈によろけた。冴の胸に倒れ込んでしまう。潔は謝って身を離そうとしたが、冴の方が早かった。軽々と潔を横抱きにし、歩き出す。泡を食った様子の蜂楽が駆け寄ってきた。
「ちょっ、潔を下ろせよ。てか、何があったんだ?」
「失(う)せろ」
「偉そうになんだよ! 潔のチームメイトは俺たちだぜ」
「潔をこっちに渡せ」
蜂楽に続いて千切と凪も冴を止めようと躍起になる。冴は冷笑した。
「たかがチームメイト如(ごと)きが出しゃばるな。潔は俺が病院に連れていく。おまえらはそこの馬鹿の手当てでもしてろ」
常人より過酷な経験を積んできたゆえだろうか。冴には人を萎縮させるオーラがある。蜂楽たちが一歩後ずさった。冴は彼らに氷のような一瞥(いちべつ)を投げかけてから、潔を抱えてその場から立ち去った。ガンガンと痛む頭と、嵐のような成り行きに疲れ果てた潔は、もう抵抗する気力もなく冴に身を預けた。
「──潔!」
凛のひび割れた声が追いかけてきたが、返せる言葉はなにも無かった。
──一時、その場は騒然となった。騒ぎを聞きつけたマスコミは、潔を抱き抱えて歩く冴を大喜びでカメラに納め、面白がったオリヴィア・愛空や士道龍聖らも嬉々として絡んできた(冴に一発蹴りを入れられて沈められた)。監獄生らも皆度肝を抜かれ、あの絵心甚八でさえ「……面倒なトラブル勃発か?」と実に面倒くさそうに訊ねた。ちなみに、その隣では帝襟アンリがパニックを起こしていた。また記者に面倒な質問をされる! との嘆きに、潔は身の置き所が無かった。一番失礼な反応をしたのは冴のマネージャーのジローラン・ダバディなる男で、冴と潔を見るなり「ゆ、誘拐?」と顎を落とした。潔は、こめかみに青筋を浮かべる冴を久々に見た。
潔はそのまま冴が雇っている車に乗せられ、病院へ連れていかれた。潔は平気だと言ったが、冴がごり押ししたのだ。検査の結果異常は見つからず、潔も冴もほっと胸を撫で下ろした。冴はブルーロックまで送るといい、冴とまだ話がしたかった潔はありがたくその申し出を受けた。
「迷惑かけてごめん」
座り心地のいい後部座席に座り、ほっと息を吐きながら潔は言った。冴は備え付けのクーラーから飲み物を取り出し、潔に手渡した。運転席と後部座席の間には仕切りが降り、二人の会話は他の誰にも聞かれる心配は無かった。
「おまえのせいじゃない」
冴は座席にもたれ、疲れたように頭を振った。
「凛の癇癪は、俺のやらかしが原因だ。おまえは何も悪くない」
潔は先ほどの凛の様子を思い返した。つい勢いで〝おまえを裏切らない〟などと言ったが──。
「……俺に対する凛の執着があれほどとは、知らなかったよ」
冴に「潔を奪うのは許さない」と迫った凛は、紛うことなき恋に狂った男の顔をしていた。
「そいつは鈍いな。あいつのおまえを見る目を見れば、サルでも気付くと思うが。……ああでも、実際にその目を向けられてる方は案外気づかないもんなのかもな」
「あいつの執着を甘く見てたぜ」
「そいつはまずい。凛は恐ろしく執念深いぞ」
「冴が言うと説得力が違うな」
「そうだろ?」
潔は笑った。冴もつられたように表情を柔らかくする。
つかの間、沈黙が流れた。潔は窓の外に目をやった。流れていく景色。慣れ親しんだ、けれどどこか遠く感じる日本の街並み。
「謝るべきは俺の方だな」
冴が言った。繊細な顔立ちに罪悪感の影が落ちていた。
「凛はきっと、俺とおまえが深い仲にあると勘違いした。あいつは思い込みが激しい。誤解を解くのは並大抵のことじゃない」
「……そうだな。凛には、俺からもう一度話しをしてみるよ」
「マジで悪かった。おまえと凛の関係を邪魔しちまった」
「それは別にいいんだよ」
「……どういう意味だ?」
「俺、凛と付き合う気は無いから」
冴は珍しく言葉を失った。潔は微笑んだ。
「これが夢でも、現実でも、俺はもう凛と恋人になったりしない。俺はあいつの傍にいるべきじゃない」
凛を殺した男は、ルーカス・サンチェスという男だった。潔たちと同時期に〈レ・アール〉に所属していた彼は、優秀なストライカーだった。彼は潔より二つ年下で、潔によく懐いていた。潔は、彼が自分に好意を寄せていることは知っていたが、まさか凶行に及ぶほど恋慕(こいした)っているとは夢にも思っていなかった。
ルーカスは取り調べでこう言ったという。
『潔世一を愛してた』
『糸師凛に世一と別れるよう迫ったが、拒否されたので、殺してしまった』
凛は、潔のせいで殺されたのだ。
昔から、自分が人に執着されるたちだとは知っていた。だがそれはあくまでフィールド上の話しであって、プライベートとは無関係だと思っていた。だって、フィールドを降りてしまえば潔世一はただの平凡な男だったから。特別秀でたところなどない、気遣い屋で控えめで押しに弱く、少しだけ引っ込み思案のある、どこにでもいる青年。そんな自分に、人の命を奪うほどに執着する人間が現れるとは想像もしていなかった。おまえって、面倒くさい男を引っかけるよな。そう言った友達の言葉を何度笑い飛ばしたことか。
潔は何も分かっていなかったのだ。自分のことも、激しい恋慕(れんぼ)が生む狂気も。その無知が糸師凛を死に追いやった。
凛が死んだ後、鏡に映った自分を覗き込んで何度も呟いた。──おまえが凛を殺したんだよ、潔世一。
「ルーカスもきっとこの世界にいる。もしこの世界が現実で、この先に待ち受けているのがあの未来である限り、俺があいつに〝愛してる〟と言うことは永遠に無い」
今度こそ、死のような沈黙が流れた。冴は静かな目で潔を見据えた。凪いだ海のような瞳。凛の冷たい激情が燃える瞳とは全然違う。それがこんなにも切なくて、こんなにも息がしやすい。
「分かった」
長い静寂の末に、冴は吐息をついた。
「俺はおまえの意思を尊重する」
「ありがとう」
ほっと息を吐く潔に、冴は小さく首を横に振った。
「礼を言う必要はない。あいつを助けたいと思うのは、俺も一緒だ」
うん、と潔は頷いた。言うまでも無く、これは凛を救う千載一遇のチャンスだった。潔の行動如何(いかん)で、凛の悲しい結末を変えられるかもしれない。そう思えば、どんなことだって耐えられると思った。
そう、例え自分の半身のように思う男に愛されない未来だって。耐えてみせる。堪えてみせる。
この世に、糸師凛を失う以上につらいことなど無いのだから。
「ままならないものだな」
冴が苦く言う。潔は微かに笑い、窓の外を流れて行く景色を目で追った。