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【期間限定再録】モイライの糸【後編】/ベティ的小说

【期間限定再録】モイライの糸【後編】

32,547字1小时5分钟

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雨が降っていた。はっと我に返ると、潔は冴のペントハウスの前にいた。どうやら自力でタクシーを捕まえてここまで来たようだが、断片的にしか覚えていない。雨に濡れた自分の有様を顧みる。よくこれでタクシーに乗れたものだ。
 雨で冷たくなった手で、冴の部屋のドアブザーを鳴らす。冴は来客が潔だと確認すると、すぐに正面玄関の扉を開けた。潔はぽとぽとと滴を垂らしながら、エレベーターに乗り込んだ。

「水遊びをする歳でもねぇだろ」

 潔を迎え入れた冴は、そう言って呆れたように薄く笑った。

「まずは風呂だな」
「……ん」

 項垂れる潔の頭を、冴はぽんぽんと軽く叩いた。
 熱いシャワーを浴びると、強張っていた心と身体がほぐれた。服はシャワーを浴びている間に冴が乾かしてくれた。冴は潔のためにココアを入れ、ソファーを指し示した。「それで?」と促す。

「恋人の誕生日の前日にまたもや他の野郎と会う気になった理由を、そろそろお聞かせ願おうか」
「……意地悪だな、恋人のお兄ちゃん」

 潔は冴の向かい側のソファーに座りながら、投げやりに言った。去年の今頃は、記念すべき凛の二十六歳の誕生日を、彼と離れて過ごすことになるとは夢に思っていなかった。

「もう色々ありすぎて、どこから手をつけたらいいか分からないよ」
「俺の興味を引きそうなことだけ話せ」
「ルーカスにも記憶があった」

 自分の分の飲み物に口をつけようとした冴は、その格好のまま動きを止めた。

「あいつは、凛を撃ち殺したルーカスだ」

 腹の底がざわめくような間が空いた。冴が立ち上がった。危うい足取りで部屋を出て行ってしまう。なかなか戻ってこない。潔は不審に思い、探しに行った。冴は寝室にいた。潔は彼を見つけた瞬間、ひゅっと喉を鳴らした。
 冴は手に拳銃を持って、立ち尽くしていた。

「──冴」

 潔はゆっくりと近づいた。冴は潔を振り返った。呼吸が荒い。動揺している。冴は潔を見て、それから手に持った拳銃を見た。

「クソッ」

 冴は葛藤をあらわに呻き、ふらりとベッドの端に座った。背中を丸めて両手で拳銃を持ち、その手を額に押し当てる。潔は近寄り、片膝をついて冴の顔を覗き込んだ。

「少しの間、そこにいてくれ」

 冴はひずんだ声で懇願した。

「俺を見張っていてくれ。じゃなきゃ今すぐここから飛び出して、あの野郎を探しに行っちまいそうだ」

 潔は黙って冴の背に腕を回した。抱え込むようにして抱き締める。どれくらいそうしていただろうか。やがて、冴は拳銃を手放した。

「……悪い。変なところを見せた」
「お互い様だろ」

 二人は目を合わせて薄く微笑みあった。
 冴は落ち着きを取り戻しつつあったが、まだ顔色が悪かった。スマートフォンを手に取り、誰かに電話をかけた。だが相手は出なかったようだ。冴は舌打ちをして、スマートフォンを放り出した。

「凛の野郎、電話に出ねぇ」
「……ああ、今は無理かも」
「どういうことだ?」
「俺とやりあったから、たぶんかなり機嫌が悪い。今は仕事の電話以外出ないと思う」
「……そうか」

 冴は頷いたが、スマートフォンから目を離さない。潔の視線に気づき、自嘲気味に笑った。

「……今あいつを一人にさせておくのは、不安だ」

 弟を思う兄の言葉だった。どうにか冴を安心させてあげたくて潔も凛と連絡を試みたが、やはり彼は電話に出なかった。潔は眉を下げた。

「ごめん。俺のせいでかなり怒ってるみたいだ」
「何があったんだ?」

 潔は事の経緯を話した。聞き終えるなり、冴はこめかみに青筋を浮かべた。

「ガラスで殴りかかってきた? ……あのイカれ野郎、気が狂ってんのか」
「ああ、どうかしてるよ。こうなることが予測できたから、俺は凛に距離を置こうって言ったんだ。でもあいつは聞きやしない。俺があいつの傍にいないなら、」

 途中で息が詰まってしまった。何とか息を吸いこんで、その先を口にする。

「──殺された方がマシだって、凛は言うんだ。ひどいだろ」

 凛は未だ一度も大切な人間との永遠の別れを経験したことがない。だから簡単に〝死〟を口にする。それを聞いて潔がどんな思いをするか、考えもしない。
 冴はしばらく黙っていた。涼しげな瞳に剣呑な色が滲む。冴は吐き捨てた。

「おまえだって、凛が死んだら自分も死ぬ気なんだろ」

 潔は返事が出来なかったが、その沈黙が何より雄弁な答えだった。

「……嘘でも否定しろよ」

 冴はくしゃくしゃと髪をかき上げた。冷ややかに潔を睨みつけた。

「凛が死んだときのおまえの有様を見れば、それくらい見当がつく」
「……」
「腐れエゴイスト共が」

 憎しみすらこもった口調だった。

「自分たちの利己的でクソな愛を貫くことしか考えてない。残される俺たちがどんな思いをするか、少しも考えようとしない」

 冴がこんなにもはっきりと潔と凛の関係を非難するのは初めてだった。潔は驚いたけれど、当然だとも思った。冴はずっと二人の関係を肯定してくれていたけれど、それと理解することは違うのだ。

「俺に言わせれば、凛もおまえも最低最悪のクソ野郎だ。大差ない」

 潔は、冴の言う通りだと思った。潔も凛もどうかしている。お互い以外見えていない。最悪なのは、冴にここまで言われてもちっとも改める気が起きないことだった。もし本当に凛が誰かに命を奪われたら、潔は今度こそ後を追うだろう。二度目の喪失に耐えられる気は微塵もしなかった。

「一度に二人も家族を失いたくない。──俺の願いはただそれだけなのに、おまえも凛も叶えようって気がまったく無(ね)ェんだったら、どうしようもないヤツらだ」

 潔は俯き、ごめんな、と呟いた。冴は溜め息をつき、潔の額を指で弾いた。
 沈黙が流れた。お互いに平静を装うために必要な時間だった。潔はずっと気になっていたことを、思いきって訊ねた。

「どうして、凛と別れてルーカスと付き合えって言わないんだ?」

 ──この八方塞がりの状況を打ち破る選択肢はひとつだけあった。潔がルーカスの愛を受け入れればいいのだ。彼のものになってしまえばいい。そうすれば確実に凛は助かる。ルーカスが凛を憎む理由が無くなるからだ。すべてを丸く収める最適解。凛を本気で愛しているならこの選択を取るべきなのではないかと、潔は何度も何度も考えた。弟の命を第一に考える冴が、このことに思い至らないはずが無い。

「おまえがルーカスのものになった瞬間、凛の心は死ぬ」

 冴は迷いなく断じた。

「俺は抜け殻になっちまった男と兄弟をやるなんてごめんだ」

 潔の手を取った。左手の薬指の指輪をとんと指先で叩く。

「おまえの恋人は凛だ。他のヤツなんざ認めない」

 断固として言い切られ、潔は泣き出しそうになった。その時初めて、己が凛の恋人に相応しいのだと、冴に認めて貰いたいと願っていたことに気が付いた。潔はずっと怖かった。自分が凛の命を脅かす存在となっている以上、彼の人生から消えるべきであることははっきりしていた。でもそれを誰かに──冴に指摘されることを恐れていた。凛の前から消えろ。そう言われてしまうことを、何より恐れていた。

「潔」

 冴が静かに名を呼んだ。大きな手が頬に触れる。

「おまえは凛の傍にいて良い。いや、いるべきだ」

 潔は冴を見た。冴も潔を見つめ返す。彼はとても優しい目をしていた。潔は長いこと黙りこみ、思いあぐね、それから立ち上がった。

「……凛の様子を、見てくるよ」

 言いわけのように、ぼそぼそと呟いた。

「心配性のお兄ちゃんの代わりに、あいつが無事かどうか確かめてくる」

 冴はハッと笑った。微かに安堵が滲む笑み。

「うちの愚弟をよろしく頼むぜ」

 素っ気ない口調なのに、驚くほどの兄弟愛が滲んでいた。大丈夫だよ、凛。潔は心の中で恋人に呼びかけた。おまえは冴に愛されている。冴も潔と同じく、凛のいない世界では正気を保てないのだ。そのことを、潔は痛いほどに知っている。
 
 

 冴の家を出てすぐに、凛から電話がかかってきた。タクシーを呼び止めようと上げていた腕を下ろし、潔は通話アイコンをタップした。

「ちょうど良かった。今からそっちに行こうと思ってたんだ」
『……』
「凛?」

 違和感を覚えて立ち止まる。沈黙。受話器から声が返って来る。

『世一、俺だ』

 全身にぞわりと怖気(おぞけ)が立った。

「ルーカス」

 背筋を冷たいものが滑り落ちる。耳の奥でざあっと血の気が引いていく音が聞こえた。

「どうして」

 その問いに対する答えは返ってこなかった。ルーカスが言った。

『あんた達、良い家に住んでるな。まさに愛の巣って感じだ』

 彼の声は淡々としていた。感情というものが窺えなかった。

「凛を出せよ」
『そいつは無理だ』
「おまえッ……」
『大丈夫、生きてるよ』

 喉が詰まった。

『凛と一緒に、家で待ってる。凛とまた会いたかったら、このことは誰にも言わないほうがいい』

 ルーカスは一方的に電話を切った。ちょうどその時、数メートル離れた場所で若いカップルがタクシーに乗り込もうとしていた。潔は走り、彼らを押しのけてタクシーに乗り込んだ。

「おい、あんた、」
「金ならいくらでも払う! だからすぐに車を出してくれ!」

 運転手は面食らった表情をしていたが、潔が紙幣を掌に押し付けると口を閉じた。すぐにレバーを入れる。怒ったカップルが窓ガラスを叩いたが、見る余裕すら無かった。家に着くギリギリまで通報するか否か悩んだが、できなかった。警察にこの状況を説明しても動いてもらえる気がしなかったし、ルーカスに逆らって凛にもしものことがあったらと思うと、恐怖で動けなくなってしまった。
 家は明かりが消えていた。玄関の扉は開いていた。潔は靴のまま家の中に入った。重たい静寂が沈殿していた。
 ルーカスはリビングにいた。手に拳銃を持っている。彼の足元には凛が倒れていた。潔が凛に駆け寄っても、ルーカスは止めなかった。

「凛! 凛、おい! 目を開けろよ!」

 力の抜けた身体を揺り動かす。殴られたのだろう、額から血が流れていた。

「気を失っているだけだ。きっとすぐに目を覚ます」

 ルーカスの顔つきに、潔はぞっとした。覚えのある表情だった。凛が死んだ後に、毎日鏡で見ていた顔とそっくり同じだった。──生きることに倦(う)んだ者の顔だ。
潔は凛を庇うようにルーカスの前に立ち、睨みつけた。

「どういうつもりだ」
「そんな怖い顔をしなくたって、これ以上凛に何かをするつもりはねぇよ。俺はただ、あんたと話がしたいだけだ」
「話をしたいなら、俺ひとりを呼び出せば良かったじゃねぇか。こんなことをする必要があったか?」
「この期に及んで二人きりで会ってもらえると思うほど、俺は純朴じゃない」

 ルーカスの言う通りだった。ごく普通に彼から連絡がきていたら、潔は間違いなく応じなかった。凛を盾に取ったルーカスのやり方は卑劣極まり無かったが、潔と確実に会うためには賢い方法だったと言えた。

「俺に何の用だ?」

 潔は訊ねながら、凛の様子を確かめた。呼吸は安定している。ルーカスの言うように、本当にただ気絶しているだけのようだ。だからといって安心はできなかった。頭を殴られているのだ。今すぐ救急車を呼びたくてたまらなかった。

「あんたに聞きたいことがあるんだ」

 ルーカスは言った。静かだが、どこか茫洋とした声だった。

「俺のことを、憎んでいるか?」

 潔は答えなかった。だがルーカスは表情からすべてを察したようだった。くしゃりと顔を歪める。

「初めから全部知ってたんだな」
「……」
「あんたは俺がしたことを全部知ってた。だから初めて会った時から俺を嫌ってた。そうなんだろ?」

ルーカスは睫毛を伏せ、自嘲した。

「恋人を殺した男を、愛せるはずもないよな」

 息が詰まるほどにさびしい声だった。潔は目の前の男にどんな感情を抱くのが正しいのか分からなくなった。怒り? 憎しみ? それは確かに感じている。でもこの目を見てしまったら。声を聞いてしまったら。憎悪以外の感情も芽生えた。芽生えてしまった。潔には、心が壊れるほど誰かを愛する気持ちがよく分かった。ルーカスのことを殺してやりたいほど憎んでいるのに、心のどこかで彼の痛みを哀れむ自分がいる。

「物心ついた時には、頭の中にあんたがいた」

 ルーカスは囁くように告白した。

「俺の中には、もうひとつの人生を送った記憶がある。あんたを愛して、でも手に入らなくて、凛を殺した記憶だ。俺が凛を殺してすぐ、あんたも死んだ。冴と一緒にトラックに撥ねられたと聞いた。俺は刑務所で自殺した」
「──」
「気づけば、俺はガキに戻ってた。まだ三つか四つで、現実と空想の区別もつかなかった。俺はあんたを、自分の空想の産物だと思ってた。俺は生まれつき頭がイカれてて、この世に存在しない人間に恋をしてるんだってな。でも、違った。あんたは実在した。俺は決めた。──今度こそ、世一を手に入れよう。もう間違えない」

 ルーカスはでも、と虚ろに嗤(わら)った。

「この世界でもやっぱりあんた糸師凛のものだった」

 ……もしも、と思った。もしも──ありえない話だけれど──凛に捨てられるようなことがあったとしたら、どうだろうか。彼の潔に対する愛と執着が薄れ、他の誰かを愛する日が来たとしたら、その時自分はどうするのだろうか。今のルーカスと同じことをしないと言えるだろうか。答えは否だ。きっと凛も凛の心を奪った相手も、潔は殺してしまうだろう。そしてそれは恐らく、凛も同じだ。ルーカスが持つ狂気を、潔と凛もまた持っていた。彼は己の愛が裏切られた時に、潔たちが行きつく果ての姿だった。

「ルーカス」

 潔は名を呼んだ。ルーカスが落とした絶望の囁きを、しかし潔は拾い上げてやることはできなかった。

「おまえの望みはなんだ?」

 ルーカスは泣き笑いを浮かべた。

「あんたの記憶に残りたい」

 ルーカスは潔の腕を掴んだ。引きずり寄せられる。抵抗しようとした潔は、ルーカスが彼自身のこめかみに銃口を押し付けたのを見て凍りついた。彼の意図を理解し、蒼褪めた。

「やめろ!」

 潔の悲鳴に、ルーカスは満たされたように微笑んだ。

「刑務所で首を吊ったとき、本当は怖くてたまらなかった。ひとりで死ぬのは怖かった」
「ルーカス、頼む、やめてくれ」
「俺の死を悲しんでくれなくていい。せいせいしたと思ってくれたって構わない。その代わり、忘れないでくれ。俺がいたことを。俺があんたを愛していたことを」

 ルーカスの指が引き金にかかる。潔は凄惨な未来を予期し、逃げるように目をつぶった。
 次の瞬間、鈍い打撲音が聞こえた。ルーカスの呻き声が上がり、パンッと破裂音がして窓ガラスが割れた。明らかに自殺を意図した発砲とは違った。潔はぱっと目を開けた。そして、愕然とした。凛がルーカスを取り押さえていた。彼が目を覚ましていたことに、今の今まで気づいていなかった。

「ッの、クソッタレが!」

 凛はルーカスが取り落とした拳銃を思い切り壁の方へ蹴り飛ばした。潔! と叱りつけるように怒鳴る。

「ボケッとしてんな! さっさと通報しろ!」
「え、あ、ああ」

 潔は未だ呆然としながらも、言われた通り警察に電話をかけた。応答した職員は、そのまま通話を切らないようにと指示した。
 凛は額から流れる血を拭きもせずに、ルーカスの髪を掴んだ。強引に顔を上げさせる。

「ふざけんなよ、クソ野郎。惚れた相手にあんな顔をさせておいて、何が愛だ。寝言は寝て言え」
「ッ──」
「自殺したきゃ他でしろ。テメェみたいな女々しい卑怯者に、潔の目の前で死ぬなんて贅沢が許されると思うなよ」

 ルーカスの身体が大きく震えたのが分かった。ルーカスは鬼気迫る形相で凛を睨んだ。

「おまえに何が分かるんだよ」

 殺意を込めて唾棄する。

「世一に選ばれたおまえに、何が」
「分かんねぇよ。分かりたくもねぇ」

 凛は傲然と笑った。

「潔の運命は俺だと神サマが決めたんだよ。文句があるなら、そいつに言え」

 あまりにも悪辣で非情な言い草に、ルーカスは反論の言葉が見当たらないようだった。
サイレンの音が近づいてくる。潔はルーカスの元に歩み寄った。しゃがみこみ、囁く。

「おまえを憎んでるかって聞いたよな?」
「……」
「ああ、憎んだよ。許せないと思った。でもな、ルーカス。俺が一番腹を立てているのは、おまえが凛を殺したことじゃない。凛を殺した時に、俺も一緒に殺さなかったことだ」

 凛のいなくなった世界で息をすることは、潔にとってどんな責め苦よりも耐え難かった。たった一人取り残される苦痛と絶望は筆舌に尽くしがたいものがあった。凛の心臓が止まっているのに自分の心臓は動いている。そのことに罪の意識さえ感じた。
 あの生き地獄に自分を突き落としたルーカスを、潔は絶対に許すことはできない。それでも。
 死を選ぶほど誰かを愛してしまう気持ちも、理解してしまえるから。

「ルーカス、俺はおまえのものにはなれない。それは何度繰り返したって同じことだ。けど、ひとつだけ約束するよ。俺はおまえを忘れない」

 ルーカスの瞳が、大きく揺らいだ。

「おまえの狂気も、罪も、愛も、俺は忘れないよ」

 ルーカスは目を閉じた。頬を涙が伝った。
 それから数分とたたないうちに、警察がやって来た。ルーカスは連行されて行った。彼は静かだった。その姿に、潔はすべての終わりを悟った。もうルーカスは二度と潔の前に現れない。どうしてかそう思った。

「痛ッ、クソ」

 悪態をつく声に振り返る。救急車の後部座席で救急隊員に手当てを受けていた凛は、潔の視線に気づくと仏頂面で手招きをした。潔は素直に駆け寄った。

「大丈夫か?」
「これが大丈夫に見えるなら、眼科に行け」

 凛はガーゼの張られた己の額を指さした。相も変わらない毒舌に潔はほっとした。この調子なら大丈夫そうだ。

「何があったんだ?」
「待ち伏せされて殴られた。それだけだ」

忌々しそうに言う凛はかなりの屈辱を感じているようだった。八つ当たり気味にぎろりと潔を睨む。

「あんな野郎に同情しやがって、馬鹿かよ。中途半端に情けをかけんな」

至極最もな言い分だった。潔は苦笑した。

「おまえに捨てられたら、俺もあいつみたいになるのかなって思ったら、ついああ言っちまった」
「……」
「これは確かに同情だな」

 凛はじっと潔を見つめた。澄んだ瞳は驚くほど静謐(せいひつ)だった。潔は凛の手を握った。

「ルーカスのことは許せない。あいつが憎いし、この手で殺してやりたいって気持ちもある。でもあいつがいなければ、時を遡っておまえに会うこともできなかった。そんな気がするんだ」

 握り締めた手に、ぎゅっと力をこめる。

「だから余計にやりきれないんだよ」

 凛はしばらく黙っていた。やがて投げやりに言った。

「またクソややこしいことを考えてるな」
「……性分なんだよ」

 凛はチッと舌打ちをした。気に食わねぇ、と吐き捨てる。

「俺だけ見ろっつっただろ。なんでこんな簡単なことすら出来ねぇんだよ」

 凛は潔を乱暴に引き寄せた。唇にかじりつくようなキスを仕掛ける。潔は凛の身体に腕を回した。この体温があれば他に何もいらないと思った。

「帰って来い」

 唇と唇を触れ合わせたまま、凛は囁いた。

「もう十分自由を満喫しただろ」

 思ってもみない言い草に笑ってしまった。潔は凛の髪を撫でた。

「全然自由なんかじゃなかったよ。むしろ不自由だった。生きにくくて仕方なかった」

 そっと口づける。

「帰るよ。今夜はおまえの腕で眠りたい」
「今夜〝も〟だろ」
「細かいな、凛ちゃん」
「ブッ飛ばすぞ」

 会話の合間に何度もキスを交わす。凛の大きな手が後ろ髪をわし掴んだ。このキスを無しに半月近くも生きられたことが信じられなかった。
 痛みは消えない。恐怖も不安もまだ心に巣食っている。ルーカスがこの世に存在する限り、それが完全に無くなることはないだろう。けれど確かにこの夜、ひとつの区切りがついたと感じた。十年もの間潔を蝕んでいた苦痛が、ゆっくりと溶けだしていく。洗い流されて行く。ずっと心と身体を縛っていた過去から、解放されることができる気がした。
 ふと、腕時計の文字盤が目に入った。時計の針は十二時を過ぎていた。九月九日。かつて絶望の象徴のように思えた日が、今日を持って希望に変わる。

「二十六歳の誕生日おめでとう、凛」

 口にした瞬間、なぜだか涙が溢れた。
 凛は瞬(またた)き、少しだけ困った顔をした。潔の顔を自分の胸に押し付け、深く抱き込む。普段の彼からは想像もできないほど、優しい仕草だった。

「泣きたいだけ泣いてから、もう一度今のセリフを言え」

 潔は声を上げて泣いた。彼だけのために用意された、世界一安心できる腕の中で。


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