後編といいつつ、2章以降を全部詰め込んでいます。改ページが章ごととなってますので相当スクロールしますがお許しください。支部で1章目は公開しており、そこからリンクでここに飛べるようにしてあります。
(パスワードは支部1章の末尾に記載)
02 取引
新一の居室となった部屋のテーブルに、美味そうな料理が並んだ。
夕刻だった。
目覚めたら既に新一はこの書斎にいた。初日に犯された、あの部屋に。
記憶を辿れば、風呂場で記憶がふっつりと途切れている。目覚めた時には既に日が暮れかけていた。まったく体内時計は誰かさんのおかげで完全に狂わされている。
身体に残る気怠さと異様に渇いた喉、そして空腹感は、相当長い時間眠らされたことを示している。また睡眠薬のようなものを嗅がされたのだろうが、責めるべき相手は残念ながら現れなかった。
ベッドサイドに置き手紙があった。黒羽の字だ。夕食は部屋の冷蔵庫の中とその上に置いてあるから勝手に食べてくれ、とあった。
改めて己の身体を調べると、現在、鎖は首枷ではなく、左の足枷についていた。
鎖の長さは絶妙だ。扉までは届かない。だが各書棚や、トイレなどの主要な設備を利用するには不自由ない鎖の長さである。トイレなどは、ご丁寧にも扉の下方が数センチ切り取ってあり、鎖が通るようになっていた。ずるずると引きずって歩くのはなかなか難儀だが、首ではなく足枷なので、なんとかなった。これが首にそのまま長い鎖がついていたのでは、肩こりで力尽きるだろう。
トイレも部屋の中にあり、片隅に冷蔵庫・電子レンジ・オーブントースターまであった。
冷蔵庫の上にはパンがいくつも積み重ねてあった。そして中には作り置かれた白いクリームで何かを和えたものや、ジュース、アイスコーヒー、ミネラルウォーターの類いがあった。
ご丁寧にも、白いクリームの皿は、ラップの上にメモ書きが貼り付けてあった。
『これは温めずにそのまま食べてくれ。パンは自由にオーブントースターで焼いて』
「……律儀だな」
知らず、新一の口元には苦笑が滲んだ。
ラップを丁寧に剥がせば、白い大きな丸皿に、上品な白いクリームと緑の野菜が映えるフォトジェニックな一皿料理が現れた。パンだけ軽くオーブントースターで温めて、席に着く。
夕食というには若干早い時間帯だったが、空腹だからまったく問題なかった。
誰も居ないが、頂きますと静かに呟き手を合わせ、ナイフとフォークを手にした。
(……美味い)
生の白身魚と葉野菜、それをどうやらココナッツクリームで和えたらしい。塩味がベースだが、さっぱりとしているのはライム、チリペッパーがアクセントになっているからか。周囲に黄金色に輝く彩りは、オリーブオイルのようだった。
パンはいくらでもあったので、好きなだけ焼いて食べた。
(……これ、作ったの、黒羽か)
食べながら、感嘆を禁じ得ない。本当に美味かった。
私はここまでで御座います。明日にはもう、この城におりません――確かに老人はそういった。
昨日、新一はこの島に着いて、夕刻に城を訪ねた。丸一日黒羽に拉致され、今は次の日の夕刻だ。
貨客船は、もう今頃島を出て、近くの島に向かっている頃である。
(つまり、あの老人は、もう出国した……ってことか……)
こうなることを、老人はおそらく知っていたのだ。そして警告してくれた。だがそんな良識ある老人ですら、黒羽を完全に止めることは出来なかったのだろう。
それを責める気は、新一にはなかった。結局、会うことを選んだのは新一自身だった。たとえもっと語気を荒らげて必死に押し留められたとしても、ここまで来て黒羽に会わないという選択肢が、新一にはなかった。ましてや分別のある老人がこの犯罪まがいの幽閉に手を貸すに至った経緯は、きっと他人には計り知れない。
食べ終わった皿を眺めて、新一は複雑な気持ちで溜息をついた。
出国した者もいれば、入国した者もいる。
昨日、新一と共に、幾人かのマジシャンがこの島に上陸したはずだ。彼らは、再び貨客船がこの島に寄港するまでの3日間、こぞって黒羽に会いに来るはずだった。
今頃、黒羽は『仕事』中なのだろう。
己のマジックを、他人に売る。
それを黒羽が行っているのだと考える度に、新一の胸には何ともいえぬ雲がかかり、胸苦しさに襲われる。この感覚の理由を明確に言葉にするのは難しいのだが――黒羽のマジックが他人に売り渡されてゆくことを、どうしても歓迎できない自分がいるのは確かだった。
暗闇に沈み始めた窓の外で、波の砕ける音が、ざざん……と深く鳴った。
この書斎 兼 寝室となった新一の部屋は円形だ。塔の比較的低い位置にあるため、部屋はそれなりに広く、部屋の壁は上から下まで世界中の名書が詰まっていた。文献として相当貴重なものも含まれており、読み切るには新一でもかなりの時間を要することだろう――それこそ、年単位で。
それほどに見事な蔵書を誇るこの部屋は、広い。
食べ終わると、新一はまず、鎖を引きずり寝台に歩み寄った。
昨日、さんざん黒羽が自分を抱いた寝台だと思うと、知らず頬に熱が差す。ぐっとそれを堪え、新一はベッドの下を覗き見た。
(……あった)
確かに箱がある。目で見て確認だけ済ませ、新一は次に自分の私服を探した。
驚いたことに、ホテルに置いていた新一のトランクに入れていたはずのものが、一部、部屋の中に運び込まれていた。この分だと、黒羽は既にホテルに連絡をいれ、チェックアウトをしてしまったに違いない。だが置かれている荷物は、服など安全性の高いものばかりで、金属類、携帯、筆記具などは全て没収されていた。勿論、トランクや鞄そのものも没収されてしまっている。
城に来たときに着ていた服は畳まれて、ベッド横の籠におかれてあった。一瞬畳んだのは黒羽だと思うと緊張した。あの男のことだ。バレているかもしれないと警戒したが――
小さなコインポケットを探れば、薄い鍵はちゃんと入っていた。
急いで箱をベッド下から引き出し、開けて中を見れば、電源がOFFにされた携帯がおかれてあった。通常のスマートフォンよりは少しごついフォルムだが、それでも驚くほどコンパクトだ。充電器と説明書なども一式、同封されていた。
(衛星携帯電話……でも俺のモノじゃない)
新一自身が鞄にいれてここまで持ってきた衛星携帯電話は、鞄ごとどうやら黒羽に奪われたようで、いくら室内を探してもなかったし、そもそも機種も違う。新一の携帯は衛星携帯としてはかなりオーソドックスな機種だが、これはスマートフォンとしてAndroid も動く、かなり高性能な最新機種だ。こんなものがこの島にあったことに驚いた。
添えられていた手紙を急いで開封し、中身を改めた。
『工藤様 これを読まれているということは、私の危惧が現実のものとなった証でございましょう。ご迷惑をおかけして、申し訳ございません。
もしも工藤様が本当に外部に助けを呼びたいと思われた時は、室内に快斗様が居ない時を見計らって、お好きなところに助けをお呼び下さい。一応満充電にしておりますので、電源を入れれば即お使い頂けるはずです。また、充電が必要な状況となりました場合は、電源は切ったまま充電してください。電源を切らずに放置しておくと、快斗様にじきに特定されます。なお――』
その後に続く文面には、丁寧に衛星電話の掛け方も解説してあったが、新一には不要だった。もう解っている。
(……ありがたい)
少し重みのあるその端末を握りしめ、新一はしばし逡巡 し――再び小箱の中にしまった。
いずれ使うこともあるかもしれない。だが、少なくとも今、新一には逃げる意志はなかった。
鍵はそっと棚の後ろに隠し、部屋をくまなく見て回った。
窓も完璧に設えられていた。いわゆる尖頭アーチ型の窓上部は、カトルフォイル――四つ葉のモチーフを石に透かし彫りにしたゴシックデザインで彩られている。だが肝心の窓下部は、外側から鉄格子が嵌められているときた。
そのうえ、ここは塔の内部にある部屋だった。高さ的には中二階といったところだろうか。そして部屋の窓は一部を除いてその殆どは直接外部に通じていない。周囲をぐるりと取り巻く螺旋階段の空間が、外界と塔内部の部屋を隔てているのだ。
(いずれにせよ、幽閉は完璧、か)
窓枠のサッシを手で撫で、新一は溜息をついた。内側の窓は両袖片開き窓。城本来の窓の形と沿うように設置されており、外からみてもデザインを損なわない上、機密性もきちんと保たれるようになっている。エアコンも完備されていて、湿度のコントロールがされていた。
家具も引き出しを開けて回った。刃物の類いはひとつもない。新一が自力で首枷を取ることは出来ないようにされていた。
世界のミステリー作品から学術書、マジックの専門書や各種論文など多岐にわたる内容の蔵書。こんな状況でなければ飛び上がって喜んだことだろう。工藤邸の蔵書と引けを取らぬどころかそれ以上かもしれない、智の結晶とも言えるこの書斎を見渡し、新一はそっと瞳を眇めた。
この城に昔からあった本もあるのだろう。だが、機密性の高い内窓や業務用エアコン、鉄格子は明らかに後付けだ。この城の他の窓と明らかに違う。
食事を終えた新一は、書棚を漁る旅に出かけた。様々な本に誘惑されながらも、目新しい背表紙の本を選んでいくつか引き出して、奥付をチェックしてゆく。
初版の日付。明らかに、黒羽がこの城に住み始めた後で出版された本があった。蔵書そのものも、日本語3割、英語4割、残り3割が他の言語で書かれた本だ。この島の元々の住民が集めたのなら、日本語の蔵書など必要なかったろう。
(……やはり、これは黒羽が集めたもの)
奥付を凝視し、新一は書棚の前に立ち尽くした。
膨大な蔵書。黒羽自身のためのコレクションも無論あるだろう。だが、黒羽がミステリー好きだとは聞いていない。
圧倒的なミステリー関係の蔵書量、幽閉を完璧にする窓、計算された鎖の長さと、枷。
ここはまるで鳥籠だ。たった一羽の鳥のため、気の遠くなるような執着をもって設えられた、壮麗でエゴイスティックな――鳥籠 。
黒羽の意志を、そこに感じずにはいられない。
(お前、まさか俺が来る遥か前から、この部屋を……準備していたのか)
重厚なオーク材の書棚にぎっしりと埋まった本を見上げれば、声なき声が津波のように己に押し寄せてくる気がして――思わず新一は己の左腕を、きつく右手で掴んだ。
(黒羽……)
完璧に鳥籠を用意しながら静かなる孤独に身を浸し、世界の涯と呼ばれる絶海の孤島でただひたすらに新一を待っていた黒羽を想うと、言葉もない。
ここに辿り付くかどうかも解らない探偵を、黒羽は本当に待ち続けていたというのか。
――否。黒羽は、確信していたのだ。
新一がいずれはこの島に辿り着くはずだ、と。
(俺は、その鳥籠にまんまと自分から入り込んできた鳥ってわけかよ……)
は、と自嘲の笑みが口元に零れた。
それが解ればもう探索は十分だった。新一は本をベッドに持ち込んで、時を忘れて読書に没頭した。
……やがて、ふと頭に何かを感じた。何度も、優しく髪に触れる温かなもの。
(なんだ……?)
じわりと覚醒し、身じろぎした瞬間、それはさっと霞のように消え去っていった。
重い瞼を引き上げれば、部屋の灯りは落とされ、柔らかなセピアの光を放つ枕元のランプだけが、周囲を淡く照らしていた。どうやら自分は眠ってしまっていたらしい。
光の中、枕元に悠然と足を組んで座る男の姿があった。ランプの炎を瞳に映した隻眼が、ただ静かに新一を見下ろしていた。
何時なのだろう。真夜中頃だろうか。
今日の黒羽の仕事は終わったとみえる。もう、あのオリエンタルな雰囲気の部屋着に彼は着替えていた。今日は、黒だ。黒羽には似合っていた。
「……この部屋、退屈はしなかったろ?」
隻眼を細め、黒羽が囁く。新一は返事の代わりに溜息をついた。
今は足枷ではなく、首枷から鎖が伸びていた。足から付け替えられたらしい。マメなことだ。
3mほどの鎖、その端はベッド上部の黒々とした鉄の輪に接続されている。枕が上質の羽毛枕だからか、首枷があるまま眠っても首は痛くはないことだけが救いだが。
「今更だぜ……逃げるつもりはねぇって言っただろうが」
囁けば、渇いた喉から絞り出す声はひび割れて、掠れた。
「言ったろ。趣味だ」
黒羽が小さく鼻で笑う。悪趣味、と罵られることも平気なのだろう。
「……俺を風呂場で眠らせたのは何故だ」
静かに問いかけたが、黒羽は目を伏せ、本音の見えぬ口元をそっと引き上げるのみだ。
「俺を抱いた夜、オメーは言った。『今日は我慢しろよ』と」
「――」
「あの日、船は港に停泊していた。そして俺が風呂に入り、その後夕方まで眠らされ、起きてすぐ夕食を食べることになった。船はもう、この島を離れたはずだ」
「……」
黒羽は答えない。だがもう、沈黙が示す答えは明白だった。
今日は我慢しろ――その、今日『は』の意味が、今なら解る。
外部に逃れる手段が少しでもある日は、あくまで新一を自由にする気は無い、ということなのだろう。場合によっては睡眠薬を盛ることも辞さない黒羽の、念の入れようときたら。
逃げない、と告げた新一の言葉を、黒羽はおそらく少しも信用してはいない。
「水飲めよ。軽食も用意してる。腹減ったろ」
黒羽は新一の言葉をはぐらかし、ベッドサイドのテーブルに置かれたトレイへと手を伸ばした。
上には、銀食器に美味そうに盛り付けられたサンドイッチとガラスの水差し、グラス、そして何に使うのかわからない香水瓶らしきものが一つ置かれていた。
硝子の栓がしてあるその瓶の中には、無色透明の液体が入っている。みてくれは綺麗だが、ロクでもないモノのような気がして、新一はそっとその硝子瓶から目を逸らした。
上半身を起こした新一に、黒羽が水差しからグラスに水を注ぎ入れてくれる。
硝子の水差しの内部には、南国の花だろうか、白い花弁が数枚浮いている。それに浸された水だからか、差し出されたグラスからは淡くすっと鼻孔に抜ける、清冽な花の香りがした。
「どうぞ」
黒羽が、いっそ優雅に微笑む。
その隻眼を睨み据え、低く告げた。
「もう一度俺を無理やり眠らせてみろ。その時はオメーのご立派なブツをかみ切ってやる」
「おー怖い」
ひゅっと片眉を上げ、黒羽は大して怖がるそぶりも見せずにまた笑う。
新一はグラスを受け取った。ともあれ、今の会話の後でそれでも差し出されたグラスの中には、睡眠薬は入っていないと思って良さそうだった。船は既に出航している。再び寄港するのは4日後だ。もう、新一を無理やり眠らせる必要はない。
逃げたくても、この島から逃げることなど不可能なのだから。
口に含んだ水はひどく美味だった。一口飲むたびに花の香りがすっと抜けて、えもいわれぬ心地になる。こんな状況でなければ感動しただろうが、流石にそれほどおめでたくはなかった。
無言で飲み干しグラスを突き返せば、黒羽も自分の分の水をグラスに注いで一気に飲み干した。
ことん、とグラスをトレイに戻し、黒羽がこちらをちらと見やった。
「食事は?」
「そんなことより、黒羽。俺の携帯は?」
黒羽の左腕を掴んで静かに問えば、紫紺を光彩の奥に孕んだ彼の瞳がゆるりと瞬き――そしてまた心を覆い隠すような笑みを浮かべた。
「何? 食事より先に話? いいぜ、たっぷりカラダで話をしようか、腹が本気で減るぐらいに」
喉奥で黒羽が笑う。その右手が、ふらりと中空に上がった。
華麗なマジシャンの指先が、小気味よい音を鳴らす。
(――あ……っ)
その瞬間、ベッドの周囲からふっと圧を感じるほどに強い芳香が押し寄せてきた。抗う間もなくその香りに寝台は包まれ、逃げ場もなく香りを吸い込むしかなかった。どういう仕掛けなんだと考える間もない。
(うそ、だろ……っ)
両肩を黒羽に掴まれた。有無を言わせずベッドに押し倒される。
「……っ!」
不覚にも、その眼差しに呑まれた。ぞっとするほどに昏い隻眼が真上で燃えていた。夜に沈んだ光彩の奥、タンザナイトの輝きがまるで不穏な炎のように燦めいて――
淫香に脳髄を犯されたせいなのか、それとも既に芯を帯びて熱い黒羽の雄を腹の上に感じたからなのか。新一の下腹が、不意にずくんと重い疼きを覚えた。
即効性のあるこの香の中に、何かしらの催淫成分が含まれていることは間違いなかったが、それが黒羽にも作用しているのかどうかは、よく解らない。黒羽は平気なのだろうか。
「俺が返却するつもりもないと解ってる携帯がどうなろうと、もはや工藤には関係ねぇだろ?」
低く、夜を統べる声が囁く。
関係ない? そんなわけがあるか――ぎりと歯を食いしばり、新一は甘い香気の中で懸命に正気を保とうと努めた。
「一言でいい。日本に連絡を入れさせろ、黒羽! 博士ぐらいは安心させてやりたい」
語気を強めた新一の上に黒羽はのしかかったまま、耳元ではぐらかすように笑った。
「……さて、どうしようかな」
「! 黒羽ッ!」
意地の悪い返答にカッと瞳を怒らせ、蒼紫の双眸を睨み上げた瞬間――薄ら笑いを浮かべた黒羽の顔が、視野いっぱいに迫った。
黒羽の眼帯から垂れ下がるチャームが、新一の左頬に当たる。微かな冷たさを覚えた瞬間、
「な――――っ、んっ、ふ……」
ねっとりと唇を覆い尽くし呼吸を奪うキスに、理屈を越えてぞくりと総毛立った。怠さの残る身体が口づけられた端からどうしようもなく溶け出す気がして、無意識に身体が強張った。
怖かった。もうセックスについては拒否権がないと解っていても、黒羽に抱かれて今まで想像も出来なかった甘い声で鳴き出す自分を再び思い知ることが、ひどく空恐ろしかった。
何より、素肌を合わせれば、何もかもが止められない気がした。この熱い腕の中で鳴けば鳴くほど、己の虚勢全てがはぎ取られ――赤裸々な本音だけが、浮き彫りになる気がして。
それだけは耐えられないと……固く、唇を閉ざした。
不意打ちを喰らった初日とは打って変わって侵入者を固く拒む新一の唇を、何度も宥(なだ)めるように黒羽の唇がたゆたい、舌先がノックする。それでも侵入を許さず、新一は頑なに唇を閉ざし続けた。
黒羽はそんな新一の強い意志を感じ取ったか、それ以上唇に固執することはなかった。
やがて身に纏うものは全てはぎ取られ、全身に汗が滲んだ。忙しない吐息を漏らし、新一が瞳を潤ませるまで、黒羽は無言のまま愛撫を続けた。
いつしか、黒羽も全裸だった。擦れあう素肌の感触にすら感じ入り、新一は震えた。
ふと黒羽が上体を起こす。潤んで霞んだ瞳でその動きを追えば、トレイの上の小綺麗なガラス瓶に黒羽が手を伸ばすのが見えた。
エジプト香水瓶にも似たその栓を取り、黒羽が瓶を傾け、己の手に取る。とろりとした無色透明の液体が彼の手に零れてゆくのを見て、新一はそっと目を逸らした。
今から起きることを察知し、全身がぶわりと熱を孕んでゆく。
(ほら、やっぱロクでもねぇ……)
黒羽がその液体に塗れた手を新一の尻の合間にあてがう。諦めてそれを受け入れれば、濡れた黒羽の指が何度も新一の後孔を愛撫し、ぐぷん、と体内に沈んだ。
全身をくまなく愛され、催淫作用のある香で緩み始めた身体はもはや制御がきかない。やがて仰向けの体勢で黒羽を受け入れ、雄々しい屹立で深々と貫かれたその瞬間――襲いかかるように黒羽が上体を倒してきた。
涎すら飲み下せず、喘ぐことしか出来なかった新一の唇は、獰猛なまでの勢いで塞がれた。
唇に力を入れる暇もなかった。
「んっ……ふ……」
半ば開いた唇から、一気に黒羽の舌が攻め込んでくる。骨の髄まで貪り尽くすような荒々しい口付けと共に――ずん、と胃の辺りまで響くような深さで、身体の奥を太い剛直で穿たれた。
「んっぅ……っ、ぐ、んっふ……」
粘膜の奥で刺激を待っていた性感帯が、ゾクゾクッと震えるような鋭い快感に戦慄(わなな)いた。腹の中から頭の芯までを貫く衝撃に思わず漏れる嬌声も、獣の食事のように口を丸ごと覆い尽くす黒羽のキスで封じられた。熱い舌に忙しない動きで求められ、急激に新一は乱れていった。
(くろ、ば……が……あつ、い……)
身体の奥深くまで黒羽でみっしりと満たされている。そのことに、何故か泣きたいような感情が胸にこみ上げてくるのが解って、どうしようもなく新一は喘いだ。
黒羽が居る。この身体の中に、確かにいま黒羽が居て、熱く滾って、脈打っている。
上からも下からも、求められている――そんな錯覚と薬が増幅する快感に全身が緩みきって、涙腺すらも故障してしまったのか、生理的な涙がほろほろと零れた。
(くそ……っ)
二度、三度と口づけたまま黒羽が腰を振れば、ぐずぐずに緩みきった新一の中が悦んで黒羽を喰い締めていった。これも自分ではどうしようもなかった。口の中を黒羽にいいように乱されながら、腹の奥は黒羽の張り詰めた熱塊で穿たれることがあまりにも気持ちよくて、ぞっとした。
口の中まで犯しぬくことを決して諦めていなかったらしい黒羽の執着が、花の香りが残る唾液と共に喉に流し込まれてゆく。
「…………っ、ン、ぁ……」
限界までため込んだそれを堪らず飲み込み、反射で唇を開けば、その呼吸を待って再び黒羽が丁寧に新一の舌を絡め取っていった。
上も下も一気に蕩かされて――目尻からは押し出されるように涙が伝い落ちてゆく。
結局、キスすら拒みきれないのか――そんな敗北感に打ちのめされながらも、それだけでないことを自分が一番良く知っていた。
身体中が、隠しようもなく、悦んでいる。
「……ん……工藤……くど……くどう……っ」
口付けの合間に、呼気を乱した黒羽が不意に、掠れ声で呼んだ。今日セックスが始まってから、初めて聞いた黒羽の声だった。
想像以上にひどく切迫した甘さを帯びたその声が、耳朶を熱く嬲(なぶ)る。瞬間、大きく突き上げられ、白濁がどっと己を駆け上がる感覚が背筋を灼いた。
(あ……!)
閉じた瞳の奥が真っ白に燃える刹那、びくん、とのたうつ腰が歓喜した。
「ん、ん――っ、ふ……」
深く咥内を舌で犯されながら、己の腹上に白濁をまき散らし――新一は、黒羽の背に鋭く爪を立てた。
* * *
次に目覚めた時、体内時計が狂いっぱなしの新一には、時間の経過がもはや感じ取れなかった。明け方が近いのか、まだ深い夜の底にいるのかも判然としない。
少なくとも窓の外は未だ闇に沈んでいる。ざ……んっ、と波が重苦しく砕ける音だけが、規則正しく響いていた。この島の波は、雄々しく、厳しく、そして重たい。
まだ腰を中心に、身体がじん、と緩く疼く感覚が抜けぬままだ。
身じろぎしようとしたが、出来なかった。黒羽にしっかりと抱かれていたからだ。
右を下にして新一は寝かされていた。毛布と黒羽の体温に包まれているおかげで、夜中でも寒さは全く感じなかった。
黒羽の顔が、眼前にある。深みのある黒羽の香りに溺れる心地がして、一瞬くらりとした。
新一の頭はちゃんと枕に乗せられていたが、その枕の下と新一の右肩の隙間に、黒羽が己の左腕を差し入れるようにして、新一を抱きしめたまま眠っていたのだった。新一の頭部の重みはほとんどが枕で支えられているだろうから、さほど黒羽の腕には負担がかからぬような体勢ではあったが。
(……ったく……腕痺れたらどうすんだ、馬鹿……)
マジシャンだろうが、腕を大事にしやがれ……内心苦く呟く。
あれから数時間貪られ、その後、シャワーを浴びにいく気力すらなく半ば気絶するように眠りに落ちた新一を、どうやら黒羽は簡単に清めてくれたらしい。上半身は裸のままだったが、下半身は下着だけは穿かされている事実に、思わず頬が羞恥で熱くなる。
少なくとも、身体に気持ち悪さはあまり無かった。
もう夜明け前なんだろうか。それとも、まだ実は眠ってさほど時間は経っていないのだろうか。
時間だけでも知りたくて、書斎を見渡そうと少し首を起こした時だった。
「……まだ、夜明けは遠いぜ……?」
掠れ声が、甘みを帯びて夜気を揺らした。
身じろぎした黒羽が、新一を抱き締め直してくる。まるで存在を確かめるように、裸の背を優しく撫で下ろす掌は、あくまで温かい。黒羽もまた下着一枚、裸同然の姿だった。
「工藤……」
やわらかな声が落ちてくる。
「……くど……おやすみ……な……?」
誘うように、懇願するように、黒羽が囁く。
眠りに戻る寸前の、それはあまりに無防備な囁きで、新一の胸を乱した。
(……お前は……狡い)
そんな声を聞いてしまったら、この腕の中で二度寝するしかなくなる。まるで恋人と事後の眠りを共にするような甘い囁きに、新一は眉をきつく寄せ、目を閉じた。
この関係が何か甘いもので出来ているような真似を、無意識に放つ黒羽はやはり……狡い。
こんなひとときに大人しく甘んじるなど、『人生の半分』の契約に入ってはいない。そう言って黒羽を突き放すことも可能なはずだった。そんな言い分が通る通らないは別としても、今、すげなく黒羽を突き放し、離れて眠ることを主張しようと思えば、出来た。
なのに、黒羽の陽に焼けた胸板からは南国の香と汗が静かに香り、渾然と混ざり合ったそれは不思議と離れがたいものだった。
耳を寄せれば、絶え間ない規則的な鼓動が、胸板の奥に息づいている。
(……生きてる)
それは、長い間、探し続けた体温だった。
犯されていた間、泣き続けたせいで瞳が腫れぼったい。重い瞳には涙の名残があって、目を閉じれば、まだ簡単に水分が眼球から滲んでしまいそうだ。
全部、あの甘ったるい香が引き起こした、度を過ぎた快感のせいにしてしまいたいのに。
深く、鼻で息を吸い込む。噎せ返るような黒羽の香りに、くらりと脳髄が痺れるような心地がした。くせに、なりそうだ。
目を閉じ、再び睡魔に意識を手渡しながら――ふと、新一は思いだした。
そう。この部屋には、そもそも『時計』が無いということを。
かつての好敵手から『自由』を奪い、『時』をも奪い。
(お前は、俺をどうしたいんだ、黒羽……)
新一の身柄を全力で拘束し、何の面白みもない男の身体を貪る黒羽。
『――俺は、お前の中に遺 る傷になる』
黒羽の零したその薄ら昏い台詞の意味を、探すことに意味などないと本人から拒絶されてもなお……きっと、探し続けるのだろう、自分は。
黒羽がこの胸に刻んだ傷の中に手を自ら突っ込み、掻き回す痛みに悲鳴をあげても――それでも。
* * *
朝、肩を揺り動かされ、起こされた。もう黒羽自身は朝の支度を調え、麻混のゆったりとした美しいブラウスシャツに黒いズボン姿という装いだった。
ベッドの足元より少し離れた床へ、眩い朝の光が零れていた。
「起きられそうか、工藤……」
「……ん」
問いかける黒羽の隻眼にどこか心配そうな表情をみつけて、新一は目元を軽く手の甲で擦りながら頷いた。こんな顔をするくせに、夜は獰猛な獣のごとくこちらの身体を食らい付くしてくるのだから、始末に負えない男だった。
「よし。着替えて朝食、食べようぜ」
腹減ったろ、と告げる黒羽をしばし見上げ、新一はゆるりと首を横に振った。
「食わねえ」
「――」
「日本に連絡を入れさせろ。それが出来るまで、飯は食わ――」
言い終わらないうちに、ぎゅるるるるる……と凄い音を立てて、腹が鳴ったのは大誤算だった。
堪らず前屈みになってゲラゲラ笑いはじめた黒羽に、新一は思わず真っ赤になって枕を投げつけた。ぼふ、と温い音を立てて枕は黒羽の頭に当たり、跳ね返ってベッド上にまた落ちてきた。
「笑うな!」
「いや無理だろこのタイミングでコレは! 笑うところだろ!」
「うっせ!!」
再び枕をひっつかんで、黒羽にぶつけてやる。今度は両手でそれを抱き留め、なおもヒーヒー笑う黒羽の様子に――ふと胸を衝 かれて新一は黙り込んだ。
久しぶりだと、思ったのだ。
こんなに屈託無く笑う黒羽を、本当に、久しぶりに見た。
気恥ずかしさからくる怒りすら忘れ、黒羽を茫然と見つめていると、やがてすっと表情の抜け落ちたような眼差しで黒羽がこちらを見やり――ひそりと告げた。
「――いいぜ、名探偵」
「……!」
「心配ないと、自分の口で伝えたいんだろう? 俺がお前の代わりに何をしたところで、工藤は納得しねぇだろうからな。自分で伝えるといい」
「……いいのか」
新一の申し出に黒羽がすんなりと頷いてくれたのには、正直なところ驚いた。
長期滞在の手続きをしてこの国に入国した以上、まだ当分、友人たちが不審がることはないだろう。一応、連絡が取りづらい国にいくかもしれないと博士たちには言い含めてある。
だが、この先黒羽は自由に携帯を使わせてはくれぬはずだ。自分の望むタイミングで連絡も出来ず、向こうから何か連絡があったとしてもすぐに返事は出来ないこの状況だからこそ、一言でも大丈夫だから心配するな、と告げておきたかったのだった。
思わず黒羽の真意を探るような目を向けた新一に、黒羽はふと意地悪い笑みを浮かべた。
「二言はない。だが、もう少し後でな」
「……何を考えている?」
「名探偵が考えそうにねぇこと」
実に楽しげに、黒羽は口角を上げる。だがもうその笑顔は先刻の屈託無いものとは程遠い、影の滲むものだった。
「さて、ではハンストは辞めて頂こうか、名探偵」
お手をどうぞ、と黒羽が優雅にベッドサイドから右手を差し伸べる。その手をパンッと払いのけ、新一は己の首枷から連なる鎖を掴んで告げた。
じゃらり、と手の中で重く鳴る、鎖の呪縛。
「その前にこれを外せ」
「……」
「船はもう出航したはずだ。俺は絶対に逃げられないし逃げねえ。解ったら鎖を外せ、黒羽」
「……ダメだって言ったら、またハンストか?」
「そうだな」
「しょうがないねぇ、強情なお姫様だ」
「どっちが強情だ、馬鹿野郎。姫とかふざけんな」
今にも噛みつきそうな勢いで唸りを上げる新一にさらりと笑い、黒羽は首枷から鎖を外す。
やれやれ、と息をついてベッドから新一が降りかけた瞬間――黒羽が片手で新一を押しとどめ、優雅な所作で新一の足元へと跪いた。
昨日、ずっと足枷が装着されていた新一の左足を、黒羽が左手で軽く掬い上げる。その側で黒羽の右手が、まるで魔法をかけるようにぱちん、と指を鳴らした。
「……!?」
シャン、と足首から涼やかな鈴の音が鳴り響き、新一は瞠目した。
みれば、足枷の代わりに、足首には華奢な光が纏わり付いている。小さな鈴がいくつも連なった、金色のそれは――アンクレットか。
「あぁ、やっぱり似合うな。綺麗だぜ、新一」
跪いた黒羽が、こちらを見上げ空疎に笑う。その褒め言葉を文字通り受け取ることが出来るほどおめでたくは出来ていない。顔を強張らせ、新一は足首を揺らした。
……シャラン……
想像以上に美しく、そして玲瓏 と響く鈴の音が、幾重にもなって空間に響き渡る。一つ一つの鈴は小さいくせに、その音は息を呑むほどに鋭く響いた。
「……なんだコレは」
「アクセサリーだよ。アンクレット」
「そんなことは解ってる。何故つけた」
「似合うから」
答えにならぬ返答に、頬がカッと羞恥で燃え上がった。
貴金属を相手に贈ること自体、独占欲の現れだとはよく言うが、アンクレットもまた強烈な意味合いを持っている。左足首に飾るアンクレットは、所有の証でもあるのだ。
誰かの恋人、誰かの伴侶、誰かの『所有物』であるという――証。
それがパートナーから贈られたものであるなら、尚更。
黒羽が、それを知らぬはずもなかった。
しかも鈴だ。歩くたびに鈴の音がしゃらんしゃらんと響く。猫じゃあるまいし、馬鹿にしているのか。投げてやりたい文句は山ほどあれど、あまりに感情が昂 ぶりすぎて、うまく言葉に出来ない。
ベッドサイドに立ち上がった黒羽は目を合わさない。まともに取り合うつもりがない時、眼帯に覆われた右側を敢えてこちらに向け、左の隻眼が高い鼻梁 の向こうへさらりと逸らされるのが、また腹が立つのだった。
冷たい銀の輝きを放ち、眼帯のチャームが揺れていた。
「それ。外すなよ工藤。俺が頂く『工藤の人生の半分』に、それも含まれる」
「勝手なこと、言いやがって……!」
毒づきながらも頬が熱い。くす、と黒羽が小さく笑みを零した。
「まぁ、虫除けのまじないみてぇなもんだよ」
「……? それを言うなら魔除けじゃねえのか?」
アンクレットには、外部から忍び寄る悪いもの――病魔や呪いなど、悪いものが足元から上がってくるのを退ける魔除けの意味合いもあったと言われている。しかし虫除けの効能などはさすがに無いはずなのだが……?
怒りや恥ずかしさを一瞬削がれてしまい、きょとんと首を傾げて新一が問えば、何が面白いのか、黒羽はますます笑みを濃くした。
「工藤のそういう所な……ったく」
「あ? なんだよ?」
「――いや……なんでもねぇよ」
瞬間――見えにくい角度に逸らされていた隻眼が、まっすぐに新一を映した。
朝の光射す鳥籠の中で、それでも頑なに蒼紫の夜を宿す、孤独な隻眼。
それがほんのつかの間、やわらかく緩んで、真正面から新一を包んだ。
(……!)
そんな黒羽の視線ひとつでふわりと体温が舞い上がる気がして、新一は息を呑んだ。
一拍遅れて、頬が訳の分からない熱を帯びてゆく。そんな自分をどうにか誤魔化したくて、新一は慌ててベッドから立ち上がった。不意打ちで黒羽の生の感情に触れたような、そんな気がして――気がつけば心臓が早鐘を打っていた。
「行こうか」
促され、立ち上がった新一は部屋着に着替えた。
黒羽が、新一の手をしっかりと握りしめ歩きだす。その力は相変わらず強いが、新一の手を引く動きはどことなく優しくて、何故だろう、俯いた頬はさらに熱を帯びた。
じわりと恥ずかしさがこみ上げてくるが、あえて平気なフリで手を繋ぎ、歩いた。
鎖で引かれるぐらいなら、手繋ぎのほうが一億倍マシだというのも勿論あるが――
(……黒羽の、手)
嫌いじゃ、なかった。
部屋を出れば、そこは塔をぐるりと巡る螺旋階段の途中だった。ここは2階だが、その下には部屋が無い。10段ほど下ったところにドアがあり、今は開け放たれていて明るい光が満ちている。実質は1階のようなものだった。
そういえば、今日はこの部屋に食事が用意されなかった。行こうかと黒羽は言うが、一体どこに行くのか――そんな新一の疑問に気付いたか、「台所に行くんだよ」と黒羽が告げた。
「台所」
この非日常感の溢れた城で、突如出てきた生活感のある単語。思わず反芻してしまった。
「まぁ台所というよりは調理室だけど。とりあえず簡単に朝飯作るから一緒に来てくれ」
「……おう」
手を繋いで塔内部の階段を下りながら、新一はちらりと黒羽の横顔を見上げた。
しゃらん、しゃらん……
足首の鈴が、階段ホールに高らかに響いた。
「で。寺井さんとやらはどうした」
「何か、寺井から聞いた?」
「今日にはもう、自分は城内にいない、と言っていた」
変に勘ぐられぬよう、あえてはっきりと、寺井に聞いたことを答えた。
黒羽が吐息し、やがて小さく告げた。
「寺井は……帰した」
「――そうか」
それ自体は想定内だった。
だが、続く黒羽の言葉は流石に想定の斜め上だった。
「名探偵のパスポートは、寺井が持って出国した」
「……! なに……っ」
あくまで、新一を逃がす気は無い、ということか。
黒羽の固い決意をそこに感じて、改めて緊張が背を走った。もしもこれが本当だとしたら、黒羽は新一が感じ取っている以上の狂気を孕んでいるのではないか。
これからこの生活がいつまで続くかは定かでは無いが――黒羽と本当に二人きり、ということなのだろうか。バスタブに浮かんだ、2輪の薔薇がふと脳裏を過ぎった。
少しだけ自分より体温の高い黒羽の手にこめられた、必要以上に強い力。それが鎖の代わりなのだと思うと、気が遠くなる。
この関係は一体、何処へ行き着くのだろう。今はまだ、終着点が全く見えなかった。
塔の下へ降り、渡り廊下へ出る。石造りの堅牢な橋を隣の母屋へ向けて歩けば、敷地内に育つ比較的高さのある木々が、清かな音を立てて揺れていた。
梢の向こうに広がる青空の眩しさに、くらりと眩暈が襲う。
幽閉されてからこっち、初めてまともに感じる外界の空気だ。深く息を吸い込めば、力強い土の香りがした。多分、夜の間に雨が降ったのだろう。
外の瑞々しい空気にもっと触れていたくて、自然と歩みがゆっくりになった新一の左手を、黒羽が改めて掴んでくる。その痛みすら感じるほどの力に気付かぬふりをしながらも、むしろ手ではなく胸の奥がしくりと痛んだ。
これっぽっちも、黒羽はこちらを信用してはいないように思える。今この瞬間ですら、新一が逃げはしないかと恐れている手の力に、途方にくれてしまう。
足首で高い音を立てて鳴る鈴ひとつにしても、そうだ。
新一は、気配を消す権利すらない。
それほどの執着の正体が一体何なのかすら、黒羽は語ろうとしない。言葉になど意味が無いと皮肉な眼差しで切り捨て、対話を拒んでは身体をさんざん貪るこの身勝手な男を、それでも新一は憎めなかった。
たとえ、黒羽が憎んで欲しがっているのだとしても、だ。
「黒羽」
「ん?」
黒羽がこちらを振り向く。眼帯に覆われた顔の右半分だけが、新一に向けられる。表情は、やはり伺い知れなかった。
「俺も、料理や雑用を手伝う。この城を維持するのに、お前一人じゃ広すぎる」
足を止め、新一は上背のある黒羽を見上げると、きっぱりと告げた。
「俺は、客人になりたくてここに来たわけじゃない」
「……俺も、家政婦が欲しいわけじゃないんだが」
木漏れ日が舞う朝の渡り廊下で、二人は静かに対峙した。
先刻は優しげだった隻眼が、今は感情を削ぎ落とした、空疎で硬質なガラス玉のようだ。そんな眼差しでも正面から向けられている今、その視線を逃したくなくて、懸命に新一は黒羽を見上げた。
「俺が逃げることを、恐れてるのか、黒羽」
「……」
「逃げねえっつってんだろ」
もう何度目になるのだろう、この台詞。
痛いほどの沈黙が流れ――やがて、目を逸らしたのは黒羽の方だった。
「解った。時折、手伝ってくれ」
それ以上語るつもりはないと言いたげに、再び黒羽が手を引く。新一は仕方なく歩を進めつつ、そっと溜息を漏らした。
(時折、ね……)
信じるとは、決して言わない黒羽との距離。
それは、過去に夜空を自在に舞う白き怪盗と、日本警察の救世主として対峙していた探偵の距離などより、よほど余所余所しく遠いものに思える。
足元でアンクレットがしゃらりと、星の瞬くような音を立てた。
* * *
朝食は普通にパンとオムレツ、コーヒーにバナナといった洋食テイストのものだった。新一も手伝い、ほどなく食欲をそそるバターの香りが漂う食堂の一角で二人は向かい合い、食事を摂った。
壮麗な尖塔アーチの窓がいくつもずらりと並ぶ食堂は、新一の居室に比べると随分と明るい。丸テーブルがいくつもあるが、そのほとんどは使われておらず、食堂の隅に重ねておいやられていた。二人が座るテーブルだけが、ぴかぴかに磨かれている。
おそらく、寺井と二人、このテーブルで毎日食事を摂っていたのだろう。
民族色の強い料理ばかり出てくるのだろうかと覚悟していたが、黒羽に言わせるとそんなことはないらしい。小麦粉やバターなどは定期的に購入しており、それで黒羽はパンを焼いているのだった。麓では鶏も飼育していて、卵も購入しているから、こうして卵料理も食べることもしょっちゅうらしかった。
「とはいえ、普段はやっぱり海鮮と芋が多いかな」
「まぁ周囲は海だもんな……」
「イセエビ採り放題食べ放題だぜ」
「えっマジ……? ロブスターじゃなく?」
「ああ。イセエビ。俺ももう飽きるほど食ったから特にありがたみはねぇけど、魚よりイセエビが簡単に獲れる。釣り糸もいらねぇしな」
今度食わせてやるよ、と黒羽が言う。そんな何気ない会話にどこかほっとする。だが海辺に出てみたいと告げると、ちらと黒羽が一瞬、新一を伺うように見つめた。
(……?)
何か言いたげな表情だ。
「黒羽? ダメなのか?」
ここは何処かの対岸に泳いで渡れるような土地ではない。万に一つも新一が逃げる手段などないというのに、それでも新一の逃亡を恐れているのだろうか。
「……いいけど。綺麗な南国のビーチなんざここにはないぜ? あるのはごつごつした岩礁と珊瑚だけだ。砂浜も一、二箇所、猫の額ほどの砂浜がある程度だ」
「構わない。魚もイセエビも獲りたい。教えてくれ」
「……ま、まぁ……まずはイセエビからだな」
まだ少し複雑そうな表情で、それでも黒羽が渋々と言った体で了承してくれた。
こうして日常を重ねていけば、いずれは黒羽も自分を信頼してくれるのだろうか――新一は黒羽との未来を想像しようとしたが、うまく想像できなかった。
(……それも当たり前、か)
黒羽に、己の人生の半分を差し出すと決めたことに揺るぎはない。だが、まるで黒羽という城主に囲われた愛人のようなこの生活を、一生送るなんてあり得ないと、自分自身が誰より思っているのだ。ここでの未来など、描きようがないのだった。
島は1か月間は文字通り、孤島だ。ゆえに今すぐこの状況、どうにか出来るものではない。
まして新一の望みは逃走ではない。だからといって愛玩動物のように飼われることでもない――対話が、したいのだ。
それでも、いやそれだからこそ、このままで良いわけが無かった。
ぐるぐると思考に沈みながらも、久しぶりに食べた手作りパンはとても美味しくて、瞬く間に全部平らげてしまった。
「ごちそうさま」
手を合わせて告げた新一に頷き、黒羽もまた手を合わせてごちそうさま、と呟いた。
「食べてくれて、ほっとした」
ぽつりと呟く黒羽の声に、新一は小さく苦笑いを浮かべた。
「……飯に罪はねぇだろ」
会話しつつ、二人して立ち上がる。
片手に食器を持って、再び洗い場に持っていこうとした新一の顎を、だが不意に黒羽が手を伸ばして掴んだ。
眼前で、蒼紫の瞳が不意に妖しげに燦めいた。
「そういうところ、背後が甘いんだよ、工藤は」
新一の顎をくいと引き上げ、黒羽はどこか意地悪い笑みを浮かべ、ひそりと囁いた。
「今の俺は、媚薬ぐらいは盛るぜ?」
「……っ!」
皿を持っていた手は動かせなかったから、咄嗟に足が動いた。黒羽の太腿を鋭く蹴りつける。黒羽は苦く笑って、避けもしなかったし、痛いとすら言わなかった。
(……また、だ)
ふと、胸の何処かが軋んだ。
(……オメー、俺が手や足出したとき、避けねぇな……)
昔のキッドなら腹が立つほど華麗に全てを避けてくれた。避けてくれると信じているから、思いっきり攻撃も出来た。だが今は、生温いキック一撃ですら避けない。
黒羽の身体が鈍ったわけでは、断じてない。
失った右目の死角だから察知できない? そんなはずもなかった。常人ならともかく、黒羽は人の気配を読む達人だ。高感度センサーが服を着て歩いているような男である。
(黒羽……オメー……)
その理由に思いを馳せると、何処か重苦しい気持ちになった。
「……昼も、手伝う」
後片付けをし終わり、部屋への帰り道で申し出た新一をちらと見て、黒羽は首を横に振った。
「その必要はない。もう昼飯は工藤の部屋の、冷蔵庫の中だ」
「え?」
「わりぃ。昼は一緒に食べられねえんだ。ちょっと忙しい。一人で食べて」
「……マジック、か」
新一が問いを口にした瞬間、繋いでいた黒羽の手に一瞬、強い力が籠もった。
マジック――その単語を黒羽の前で口に出すには少し、いやかなり、勇気が必要だった。
それは、黒羽が喪ったモノの代名詞、そのものだった。
怪盗キッドは10年前、TV中継を通じて、全世界のギャラリーの前で右目を喪った。
あの瞬間、黒羽は右目だけでなく、日常と、輝かしい表舞台に立つ権利をも喪ったのだ。
この島に黒羽を追いやったのはつまり、工藤新一であり、そして――マジック、そのものだった。
マジックを失い、それでもマジックを捨てられなかった黒羽は、マジックに携わり生きるが故に、こんな場所にまで流れてこなくてはならなかったのだ。
今の黒羽は、厳密に言えば『マジシャン』ではない。『絶海のPhantom』は、全世界から訪れるマジシャンに、マジックのネタと手技をひっそりと売って富を得ている。
表舞台には知られぬ、影の存在だ。
黒羽自身がそのことについて、己の人生をどう捉えているのか。
その真相に、新一が踏み込むには相当な覚悟が必要だった。心臓が、ばくばくと嫌な震え方をして喘ぐ。
この暮らしに、黒羽は満足している?
そうは思えない。
ではこの暮らしを、恨み続けている? 表舞台に立てぬことを恨み、それでもマジックから離れられず、マジックを単なる『商品』として、金に換え続けている?
……そうだとしたら、その恨みは確実に新一本人へもベクトルが向く類いのものだ。
夜空を自在に駆け、観衆と警察を鮮やかに騙し抜くマジックを堂々と披露し、謎めいた微笑みで人々を魅了した怪盗キッド。それなりに重い目的あってのこととはいえ、キッドは確かに夜空を駆けることを楽しみ、人々を楽しませることを喜びとしていたように新一には思える。
あの頃のキッドは、黒羽快斗は、確かにマジックを愛し、謳歌していたのだ。
だが……今は?
黒羽は、答えなかった。新一の手を引いて半歩先を歩きながら、その視線は頑なに前方を見つめ、ただの一度も、振り向くことはなかった。
沈黙は、重くのしかかった。これについて、語る気は無いということか。
(……黒羽……)
空いた右手をきつく握りしめ、新一はこの沈黙に押し潰されそうになるのを堪えた。ここで引き下がり言葉を呑んでしまえば、何のためにこの島にやってきたのか解らない。
喪われた10年。黒羽快斗がその間、何を思い生きてきたのかを、新一は知らなければいけなかった。それが解らない限り、きっと黒羽も、自分も――
(俺たちは、一歩も動けねえままだ……)
左手を引かれて歩きながら、新一は急激に渇き始めた喉から、再び声を絞り出した。
「なぁ」
「……何?」
色の無い声が新一を拒み、突き放している。解っていて、それでも引けなかった。
恨みなら恨みで構わない。だが知らぬままでは居られなかった。
「お前が、仕事しているところを、見たい」
見れば、解る気がした。おそらく言葉よりも、黒羽のマジックは雄弁だ。そこから感じ取れることはきっとある。たとえ商品としてマジックを提供するビジネスの場であろうと。
――そう、踏んでいた。
「……」
黒羽は黙っていた。眼帯に半分を覆われた黒羽の顔。ほとんど顔筋すら動かさぬ右の横顔からは、感情という感情がごっそりと削ぎ落とされていて、とりつく島もない。
塔への入り口手前で、黒羽は立ち止まった。
ざぁぁぁ……と梢をさざめかせる風が吹いた瞬間――朝の清涼な風だけではありえない、肌の切れるような冷気を感じて、新一は腹に力を込めた。
久々にこの肌で感じさせられたそれは、圧倒的なまでに他を威圧し場を支配する、冷涼な気配。息を呑むほど研ぎ澄まされたそれは、頸動脈に押し当てられた剥き出しの刃にも似て――剣呑だ。
「だめ、か?」
ダメと言われても、簡単に引き下がるつもりはなかったけれど。
「ダメじゃねえよ」
低く囁く黒羽が、傲然と顎を上げ、薄ら昏い笑みを浮かべた。
「ただし、俺の仕事場に行きたいのなら、『鎖つき』だ。工藤を、鎖で引いてゆく」
「……っ!」
沸点が低いと言われても仕方が無いが、瞬間、どうしようもなく屈辱と怒りで骨髄が沸騰した。反射的に振り上げた右足で、黒羽の太腿を打った。
だんっ、と重い衝撃が走る。本気でやった。相当痛かったはずだが、黒羽は眉一つ動かさず、逃げもせずにその打撃を受けた。
左手は決して離れぬよう、強く握りしめられたままだった。
やがて二度目の貨客船の寄港が終わり、一か月に一度の貨客船は、完全に島を離れ外界へと旅立った。
島は、青い海に浮かぶ孤独な鳥籠と化したのだ。
* * *
マジシャン達が島を出ると、城はまた静けさを取り戻した。とはいえ、結局新一は城を訪れるマジシャンたちの気配は感じても、実際に顔を見ることはなかった。船が完全に島から離れるまでの三日間、黒羽の張り詰めた緊張は続き、新一の自由も極端に制限されたままだったからだ。
船が出ると、黒羽の挙動は少し変わった。新一の部屋で夜は共に眠るようになった。首枷や足枷に長い鎖がついて回ることも少なくなった。
趣味だと黒羽が言い張る、丈夫な革製の首枷は、入浴時以外取ることは許されなかった。だが、あえて新一もそれを受け入れることにした。アンクレットにいたっては、入浴中でもそのままだ。
歪んだ黒羽の嗜好もまた、この10年が作り上げたものなのだろうと感じたからだ。
それが今の黒羽なら、新一は知りたかった。どんなことも、だ。
(……この、熱の理由も……)
共に眠るようになって3日が経った。不思議なことに、あれから黒羽は新一を抱かなくなった。その代わり、夜は背中からぴったりと抱きしめてくる。
暑くるしい、と文句を言うと、寝間着代わりだった柔らかなシャツとズボンをあっという間に奪われた。黒羽は元々この島ではトランクス一枚で寝るのが習慣らしく、工藤も裸で寝ろよ、と悪い遊びにでも誘うかのごとく囁いてきた。
薄手の毛布一枚のみで背中から黒羽に抱きしめられると、少し肌寒い今の気候ではちょうど心地よかったのは確かだ。それでも素肌を合わせて眠るなんてどうにも気恥ずかしさが勝り、最初は抵抗があったのだが、黒羽に押し切られた。
抱きしめてくる腕は悪戯だ。背後から回った黒羽の手は、新一の身体の至る所をゆっくりと触り続ける。首から鎖骨の窪み、そして胸から腰にかけて、彼の長い指はメロディを奏でるように、あるいは皮膚を通して新一の形を記憶するかのように――滑らかに肌をまさぐるのだった。
黒羽の身体に染みついた南国の香りと熱が夜毎、新一を紗 のように包み込む。
鼻腔からそれは身体の内へと染み渡る。体臭と混ざりあった彼の香りはいつしか安心感に変わり、己の一部のようになってゆくのが不思議だった。
黒羽が与えてくれる凪いだ熱は、心地よい。だが身体を悪戯に触られるのは堪らなかった。ゆるゆると肌の上を乾いた黒羽の手が触れる度、どうしても抱かれた記憶が鮮やかに蘇ってくる。身体の内で呼び覚まされた熱が、下腹の奥にじわじわと溜まるのが、もどかしくて……怖くなった。
黒羽の中指の腹が、やんわりと、新一の胸の尖りを嬲 る。
「……っ、ちょ……なぁっ……やめろって……」
堪らず身を捩って逃れようとしても、そのたびに強く抱き直された。長い足が絡みついてくると同時に、尻の辺りに熱塊が緩やかに押し当てられ、頬が熱を帯びた。
火傷、しそうだ。
「……おい」
肩越しに睨めば、黒羽にくすっと笑われた。
「何?」
「ナニじゃねえよ。当たってんだよ」
「工藤のも、少し硬くなってんな」
ほくそ笑む黒羽が、新一の下肢の合間へと、背後から手を這わせてくる。既に熱く湿ったボクサーパンツの上から、半勃ちのそれをごく柔(やわ)く包み込んだ黒羽の手に、思わず息を詰めた。
ひくん、と反射的に腰が震える。薬が強引に増大させた凶悪なまでの快楽は、今も記憶の中に鮮明に息づいていて、触られた瞬間、下腹がきゅぅっと淡く痺れるような感覚が襲ってきた。
「や、め……」
怖かった。思わず腰を揺らしてその先を強請(ねだ)りそうになる自分が。更なる愛撫を勝手に期待する下半身を、どうすればいいのか解らない。
なのに――
「ん。ごめん」
実に優しげに黒羽が了承し、大人しくそこで手を引くのだ。
「おやすみ、工藤」
それ以後は、新一の手の甲に覆い被せるようにして自らの手を重ね、軽く握るようにして黒羽は眠りにつく。自分だってそこそこ硬くしていたくせに、そこで新一に触れるのをすぐ止めてしまうのだ。そのまま黒羽は新一を抱き枕のようにして眠り、新一だけが夜に取り残される。
(……くそ……なんなんだよ……!)
完全に、セックスに雪崩れ込む流れではなかったのか。
あんなに勃っていたくせに、そのまま平気な風で眠りにつける黒羽にも驚いたし、何より自分が生殺しのまま夜に取り残されている現実が想定の斜め上だった。何故自分が悶々としなければいけないのか。
抱かねえのかよ、などと思わず口走ってしまいそうで、ぐっと唇を噛むしかない。
もういっそトイレで処理してから寝ようかとも思ったが、しっかりとこの身体を抱き、手指を絡めて眠る黒羽を振りほどけば、すぐに覚醒 めてしまうだろう。気配には、人一倍聡 い男だから。
そうすれば用を足すなどただの言い訳だと見抜かれてしまいそうで、つい耐えてしまう。
どう言い訳すればいいというのだ。お前に身体を弄られて切ないから一人で慰めてきますなんて、死んでも言いたくないし認めたくもない。そんなの、まるで。
(俺が、こいつに抱かれたいみてぇじゃねえか……!)
きつく目を閉じて、欲が下半身で中途半端に疼くのを堪えるしかない。おまけに手まで握られているから、自分でこっそりベッドの中で弄ることすら出来なかった。
死ぬまで抱かせろなんて淫蕩な台詞を吐いた割には、やることが理解不能だ。
(あー……もう……)
途方にくれるしかない。
ざんっ……絶え間なく打ち寄せる重い波音は、陰鬱な子守歌のようだ。傍らのサイドテーブルで揺れるランプの灯りを瞼の裏で感じながら、新一は懸命に眠りに逃げ込もうと努めた。
圧倒的な波音が制圧する、島の夜は深い。
理屈抜きで忍び寄る孤独感に、新一は改めて驚いていた。こうして抱きしめてくる黒羽がいるから自分は耐えられるけれど――今まで黒羽は、どうやってこの島の夜を乗り越えてきたのだろう。
独り眠る夜は、黒羽にどれほどの孤独を齎 したのだろう。
それを考えると、最後には胸の奥がしん……と鎮 まりかえり、いつしか不埒な熱も引いてゆくのだった。
まだ自分は、黒羽快斗という人間のことを……こんなにも知らない。
* * *
城内を散歩したい、と申し出ると、日に2~3時間ほど、黒羽は新一を連れて散歩をするようになった。主に散歩は早朝から午前中が多かった。基本、午後は黒羽にとって仕事の時間であり、次にマジシャン達が訪れるまでの間に、新しいマジックを考案する時間に充てているらしかった。
――それも、結局推測でしかないのだが。
黒羽はマジックに関することを、一切新一に語ろうとしないからだ。
「今日は、何処にいくんだ?」
燦めく日差しが、夜の湿気を色濃く残した古城の空気を柔らかく、軽くしてゆく。低木に囲まれた小径を黒羽に手を引かれて歩けば、左足のアンクレットが規則的にしゃらり、しゃらりと清かな音を立てた。
黒羽が当たり前のように手を繋いで移動するから、そろそろ慣れてきた。
「工藤に、見せておきたくて」
城の北へと、黒羽は庭を横切って歩いてゆく。その小径に沿ってパイプのようなものが城から伸びているのに気付いて、もしかしてと思ったが当たりだった。
城壁の小さな勝手口のようなものを、黒羽が鍵で開ける。外へ出てしばらく歩けば、やがて小径はカーヴし、木々が折り重なる緑の向こうに、燦めく青がちらちらと見えはじめた。
「もしかして、あれが水源か」
「そう。この島の唯一の水源。貯水池だ」
パイプに沿って北東へと歩けば、やがて木々が切れ、右手より朝日が射す池が眼前に広がった。
「……綺麗、だな……」
思わず感嘆の溜息が、漏れた。
湖ではなく池なのだが、努力して綺麗に保たれているのだろう。水は澄み、ゴミ一つ無い。
周囲には、様々な原色の花が咲き乱れていた。
ぐるりと池を囲み彩る花の芳香で、池はうっとりするような香りに満ちている。それはもう、楽園の体現にも似て、美しかった。
本当にこの島の花は、驚くほどに鮮烈で豊かな香りを放つ。それは一度嗅ぐと忘れられない程の体験で、すっと鼻腔の奥から脳までも美しく貫く、ふくよかで華やかな香りなのだ。
今は複数の花の香りが混ざって、渾然 と、濃密な香りになっていた。
朝の白い陽に照らされた水源は、風の穏やかな今日、鏡のように凪いで世界を映している。
観光資源など特にない最果ての島だというが――この地元民しか知らぬであろう光景は、まるで天国の宝石箱にも似て、魅惑的ではあった。
(あ……)
新一の前を、ゆったりと羽ばたく蝶が横切ってゆく。黒地に鮮烈な青が上品な箔のごとく輝いている蝶は、見目も麗しい。
鳥たちが、盛んに鳴き交わしている。
「本当は、城主がもともと島のトップだったせいで、ここも一応城の敷地内なんだけどな。今は、城壁そのものを作り直して、島の住民と共同管理しやすいようにここは解放してる」
黒羽の解説に頷き、新一は池を見渡した。なるほど美しい池だが、決して観賞用ではない証拠に、対岸の方にはいくつかのパイプが池につっこまれている。
ヴーン……と低いモーター音が、対岸から突然響き渡った。
「沿岸部に住む住人へ、モーターで水をくみ上げて流してる。みな雨水を自宅で溜めて浄水するシステムを各自持ってるけど、この時期、雨が足りない分は、この貯水池から水を得てる」
「……そっか」
もう少し近くで池を眺めたくて、新一はそっと黒羽を追い越し、黒羽の手を引いて自ら歩を進めた。黒羽も何も言わずついてくる。
池の縁に立てば、木で階段が設えられてあって、水面まで降りていくことが可能になっていた。何かをしようとしたわけではない。ただ、少しぎりぎりまで降りてみたくて、階段へと一歩、踏み出したその瞬間……だった。
ふと、足の力が抜けた。
(へ……?)
ふるっ、と背に甘い痺れめいたものが走った。一呼吸するたびに、甘い花の香りが脳髄をそっと犯してゆく。濃厚な花の香りに少し酔ったのか、思考に霞 がかかった。
慌てて黒羽の手を離し、膝に手をついてその場に踏ん張るしかなかった。
「あ、れ」
ひたひたと押し寄せる波のように肌がざわつき、何かが呼び覚まされてゆく。それが何かもわからぬまま、淡い眩暈に新一は耐えた。一体、どうしてしまったのか。
「……? 工藤っ? どうした?」
黒羽がふらつく新一の脇からとっさに腕を差し入れ、身体を抱き支えるようにしてくれる。その腕に助けられて身を起こし、新一は軽く頭を振った。
「わり……」
「いや。いいけど、どうした? 気分でも悪いのか」
「いや、わかんね……なんか、身体に、力……はいらねぇ……」
「え?」
心配したのか、黒羽が慌てて顔を深く覗き込んでくる。まともに燦めく隻眼を間近で見つめた瞬間、どくん、と心臓が跳ねた。
(……なっ……!?)
こちらを心配する黒羽の瞳に、今はなんの拒絶もなかった。まっすぐにただ新一を案じて注がれる蒼紫の瞳が、息を呑むほど間近で燦めく。
「……工藤?」
「あ、……いや……?」
甘い、甘い、脳髄を蕩かすような花の芳香――そういえば、覚えがある。
(まさか)
下腹が重く疼いて、全身がふんわりと2℃ほど体温を上げていくこの感じ、初めてじゃない。気付いた瞬間、頬にすっと熱が差した。
黒羽も同時に気付いたのだろう。隻眼がつと眇められ、精悍な唇に笑みが滲んだ。
「そうか。工藤は敏感だな……普通、精製されてない生の花に、ここまで反応するヤツはいねぇんだけど。島の住人は皆、耐性があるからな……」
「く、ろば……この、匂いか……」
「うん。そう。大丈夫……俺が支える」
黒羽が静かに囁いた。
穏やかで優しい声音に心の何処かが緩んで、安堵した。
下肢から、なおもぐずぐずと力が抜けてゆく。黒羽がそんな新一の身体を両腕でしっかりと支えなおしながら、微笑みを濃くした。
「この花の中に、催淫作用を持つ香りの花が混じってる。あくまで少し混じって咲いてるだけなんだけどな。あの、赤い花だ」
黒羽の視線が流れる先を追えば、池の傍らで揺れている真っ赤な花がある。どこかハイビスカスにも似た形状だったが、一つ一つは小ぶりで、スズランのように連なって咲いている。あれか、と新一は目を伏せた。
この島の住人は性には奔放で、正式にフランス領となってからも性的なモラルだけはそれほど昔と変わらないのだというが――さもあらん。
これほどに甘美な官能を呼び覚ます花が野生で咲いているのだから、それも宿命だったのかもしれないと、緩い眩暈の中で新一はぼんやりと思う。
右手でしっかりと黒羽に身体を支えられ、左手で尻を撫でられる。それだけでゾクリと背を駆け上がる甘美な痺れに貫かれ、背が浅ましく撓 った。
「工藤……」
低い黒羽の囁きが、耳を擽 る。
「あぁ……可愛いな、工藤」
「……っ、う、るせ……っ」
可愛いだなんて言われてカッと頬が染まった。なのに何故か、脳がその言葉にひどくあっさりと緩んでゆくのが解る。甘い花の芳香に蕩かされて、じわじわと理性が足元から流れだしてゆくような錯覚に陥り、新一は震えた。
無意識に黒羽に取りすがる。その頬に己の頬を押し当てれば、また心の何処かが悦んで――緩んだ。この体温が欲しい。はっきりと、そう望んでしまう自分に、気がついた。
気付かされて、しまった。
呼吸はどんどん浅く早くなっていき、身体中の皮膚が敏感さを増してゆくのが解る。寝室で香を焚かれたときほど強い作用ではないが、緩やかに浸食される感覚はそれゆえに質 が悪い。
半端に残る理性が、気恥ずかしさにじたばたと叫んでいた。
気がつけば、己の前が張り詰めていた。連日黒羽に感じさせられ、なのに抜くことが出来なかった分、どうやら溜まっているらしい。
(嘘だろ……もう、勃って……っ)
動揺が、正気を一時的に引き寄せた。とっさに黒羽に取りすがっていた腕に力をこめて、突き放そうとしたが――軽い抱擁ひとつで封じ込められた。
黒羽の下腹が押しつけられる。己のものを圧迫するもう一つの熱塊をそこに感じて、ぞくりと背を痺れが駆け上がってくる。思わず、ふぁ……と湿った吐息が唇から零れ落ちた。
自分だけじゃない――
(黒羽も、勃ってる)
その事実に、心臓が強く跳ねた。
島の住人には生の花程度では効かないのだと、黒羽は言っていたのに。
(こんなの、まるで)
――愛し合う恋人が醸す、空気そのもじゃないか。
「工藤……」
「……っ」
左の耳朶を食んで濡らし、黒羽が囁く。ただそれだけで、腰がひくりと震えた。
黒羽の唇が、ゆるやかに耳朶から顎の付け根、そして頬へと移動してゆく。
ちゅ、と小さく啄 む口付けを落としながら、黒羽はやがて新一の唇を盗んだ。
脳髄を掻き乱すような淫らな水音を立てて、口をまさぐられた。唇を閉じることも出来ぬまま、新一はその口付けを受けた。
ゆっくりと唇を上から覆うように大きく被せては吸い、深く舌を差し入れてくる。かと思えばふと引いて、歯列をゆったりと撫でる舌が、ふたたび敏感な上顎へと忍び入る。そんな黒羽の片手は、新一の腰の形を確かめるようにねっとりと撫でさすり、切ない性感を呼び覚ましてくるのだった。
ちゅく……と口の中で甘く立つ水音に、きゅぅっと下腹部が痺れ、瞬く間に己の屹立が先端から妖しく濡れ出す。下手したら、下着が先走りでびしょびしょになってしまいそうで、内心焦った。
「は……ぅ、ん……っ」
キスの合間に酸素を必死で取り込めば、まるで愛撫に感じ入るかのような吐息が零れる。
(ここで、ヤるつもりかよ……っ)
まさか、という思いと、いやこいつならやりかねない、という思いが交互に胸を乱す。下腹がもう期待で硬く張り詰めていて、正直なところ辛かった。そういえば何日もおあずけを喰らっていたのだと思い出す。
(……おあずけ? 何、考えてんだ、俺……)
おあずけにされた、なんて、まるで自分が黒羽とのセックスを望んでいたかのようじゃないか――そんな思考を認めたくなくて密かに心の奥で足掻 いたものの、所詮自分のことは騙せなかった。黒羽相手に身体の奥で溜まり続ける熱をもうどうにかして解放したいと、はっきり望む自分がいる。悔しいことにそれが現実だった。
甘い香りのせいにして、乱れたくなる。
黒羽の右手は新一の脇の下から背に回り、力強くこの身体を支えている。もはや新一はその場に崩れ落ちることも出来ぬまま、上から圧をかけて唇を貪られるしかなかった。
たまらず、再び黒羽にすがりついた。その首へ腕を回し、抱きついて身体を支えるしかない。
「んぅ……」
始まりは優しかったのに、今はもう、苦しいほどの口付けだった。喉の奥に近い部分を舌先でまさぐられながら感じ入れば、黒羽のものとも己のものともつかぬ唾液で溺れてしまいそうだ。
苦しさに負けてこくんと飲み干せば、ひどくいけないことをしている気持ちになって、ゾクゾクと背が甘く震える。辺りを絶え間なく満たす花の香りが、喉奥に生の花を食んだときのような微かな青臭さを伴って残るのが不思議だった。
うっすらと水膜の張った瞳を開けば、同じく薄く瞼を開いてこちらを見つめる黒羽の瞳が、ひどく熱を帯びていた。
たった一つ遺された黒羽の瞳が、まるで苛烈な南国の陽だ。
何か錯覚しそうになるほど情熱的なその眼差しに、心の片隅が一瞬で火傷した。
(く、そ)
こんなの、欲の発散に付き合わされているだけなんだろう。
期待など、したくない。いくら自分だって、そう何度も傷つきたくなどないのだ。
そっと、瞼を閉ざした。
心もこうやって、閉ざせればいいのにと、思う。
「……俺のつば飲んじゃったの? やらしいね、工藤……」
密やかな囁きが、羞恥を煽るように耳朶を湿らせる。
飲ませたくせにという抗議は、呼吸すら盗み取る深い口付けに紛れて消えた。腰をひたすら撫で上げる黒羽の手の方が、よっぽどいやらしい。なのにその手が不意に上がってきて、まるで褒めるように新一の髪を撫でてきたから、優しげな仕草に胸の奥が軋んだ。
――悔しい。
「ん……っぐ、……あ、ふ……」
深く咥内をまさぐる舌が少し引いて、また穏やかなキスが何度となく繰り返される。
口端から飲みきれぬ蜜をとろりと零しながら、脳がぼんやりと心地よさに酔う。こうしている間にも、黒羽の腰は股間の猛りを新一に押しつけては離れ、離れてはまた卑猥な動きで押しつけて、まざまざとその熱さを思い知らせてくるのだった。
ただそれだけでもう、おかしくなった身体が勝手に跳ねては歓 んでしまうのに。
やがて黒羽は、新一の口端から滴り落ちた雫を野獣のごとく舌でねっとりと拭うと、昏い声音でやさしく囁いたのだった。
「可愛かったぜ、工藤。……さ、帰ろうか」
……その夜も、黒羽はぴったりと新一を抱きしめて――そして、抱かずに眠った。
* * *
どういうつもりなのかと、喉元まで出かかっていた。黒羽が自分を抱かなくなってもう数日が経過している。じりじりと溜まる欲は、ふとした瞬間に膨れあがり爆発しそうになるのだった。
抜きたい――少しずつ、そんなあけすけな欲に頭が支配されてゆくのが解る。それでもなかなか踏ん切りがつかないのは、この書斎兼寝室となっている新一の部屋が、果たして完全にプライベートが守られた空間なのかどうか、確信が持てなかったからだ。
(……お前だって、硬くしていたくせに)
悔しいし、黒羽の意図が掴めずひどくイライラする。だがよく考えれば黒羽は日中、新一を放り出して仕事をしているのだし、来客がいないならその時間何をしていたって解りはしない。一人で抜いている可能性だってあるのだと、不意に気付いた。
鍵で閉ざされた部屋の中、じりじりと身体の奥で熱だけが育ってゆく。
内心舌打ちしつつ、格子越しに窓の外を眺めていた次の日――とある来客があった。
城の呼び鈴が、エントランス付近で鳴った気がした。新一も初日にこの呼び鈴を鳴らしたから、覚えはある。城の何処にいても響くよう、かなりの音量で増幅され鳴り響くそれにつられて、新一は西向きの窓に歩み寄った。
ちょうど西向きの窓は螺旋階段越しではなく、直接外が見える唯一の窓だ。格子越しに眺めていると、やがて黒羽が来客を出迎えにいくのが見えた。
城の大門の横にある勝手口から、一人の女性が背負い籠をしょって、入ってくるのが見えた。遠目では判然としないが、おそらく籠から覗くのは果物の類いだろう。
深紅の花がプリントされた鮮やかなワンピースはショート丈。健康な色気を備えた女性だった。日焼けした肌が滑らかに陽を弾く。黒羽と笑い合いながら、その女性は踊り子のように軽やかな歩みで城門から城へと入り、やがて新一の視界から消えた。
それは、当たり前といえば当たり前の光景だった。本来、コミュニケーション能力の極めて高い黒羽だから、住民たちともきっと上手くやっているのだろう。
それは、解る。解っていたつもりだった。
一人で生きているわけではない。こんな狭い島だ。住民同士、日本の山奥などよりもっと濃密で隠し事の一つも不可能な程のコミュニティーがあったとておかしくはない。
「……っ」
なのに、何だろう。
じり、と胸の奥から湧き上がる黒い焦燥感に突如苛 まれ、新一は思わず息を呑んだ。
自生する花までもが男女のまぐわいを祝福し誘惑するほどのこの島で、黒羽ほどの魅力溢れる男が今まで誰一人抱いてこなかったなんてこと、あるだろうか。
雄の精悍さと優美さを兼ね備えた黒羽だ。きっと想いを寄せる女の一人や二人いるだろう。彼の潤沢な精力だって、身を以て知っている。
そうだ――きっと黒羽はこの島で誰かを抱いてきたんだろう。だからといって、どうしてこんな気分に自分が陥らねばならない? どうしてそれが理不尽だなんて、一瞬でも思わなければならないのか。
(…………っ)
ぎゅぅ、と何故か己の下腹が切なく痺れて、重苦しくなってゆく。もしかしたら今、城の何処かで黒羽は彼女と……なんて、下世話な想像がどうしても頭から離れなくなってきた。
読みかけの本も手につかなくなった。火照る身体を鎮めたくてベッドに身を投げ出したものの、それで眠れるわけもなかった。
ワンピースの裾を悪戯に乱す南国の風。褐色の女の肌に手を這わせる、黒羽の逞しい背――
(……っ! くそ、もう、どうでもいい……)
妄想を巡らせた自分にカッとなった。新一は白々とした光の中でベッドに起き上がり、もどかしい手つきで己のズボンを尻の半ばまでずらした。ボクサーパンツの中で、窮屈に張り詰めたものが既に湿って半勃ちだ。こんな白昼堂々、自慰するなんて初めてだが、確かめたいことがあったから、隠れようとは思わなかった。
別におかしくなんかない。溜まってるのだから抜かなければ辛いのは男の性だ。黒羽が黒羽でよろしくやっているなら、自分が我慢する理由など何処にもない……己に言い聞かせる。
下着の上からそっとふくらみを撫で、微細な電流に似た快感に、こくりと息を呑む。自慰など、本当に久しぶりだと思ったのだ。
けれどふと戸惑いが生まれた。何を思って自分を慰めればいいのだろう。
(う、ぁ……)
下着に添えた手が、止まった。
(俺、今、何を考えながらヤろうとしてた……?)
自分に問うまでもなかった。先刻から自分が考えていることなど、唯ひとつだけではないか。
(……嘘、だろ……)
頬がひとりでに恥ずかしさで燃えてゆく。こんな、ふとした瞬間に己の本音を思い知らされるなんて、情けなさの極みだ。
不思議だった。確かにこの10年間、黒羽のことを考え、黒羽を追い続け、人生をかけて執着してきた自覚はある。けれど、だからといって自慰のとき黒羽に抱かれることを考えたりはしなかった。そこは当たり前に異性愛者だった、はずだ。多分きっと。
なのに黒羽に抱かれ、身体の奥に熱を刻まれその快楽を知った今、不思議なほどにもう黒羽のこと以外考えられない自分がいる。まるでそれが、遙か昔から自分にとって自然なことであるかのようにしっくりとくるのだ。
呼吸するように当たり前に、黒羽の肌の熱さ、己の肌を滑るあの感覚だけを思い描こうとしていた自分にこそ腹が立ったし、ショックだった。
それも当然かもしれない。人並みとは言えないまでも、AVや女性の卑猥なコンテンツをネットで見たりというようなことは、今まで少しはやった。しかしこの身体は、付き合っていた蘭さえ手つかずで手放してしまったまっさらな身体なのだ。様々な女性に誘われても、新一自身が全くその気にならず、キッドと謎ばかり日々追い求めてここまで来てしまった。
その意味では、黒羽が正真正銘、新一の初体験の相手だった。
「~~~~っ! 知るか……っ」
激しい敗北感と訳の分からぬ罪悪感に塗れながら、それでも熱く疼くものを慰めたくて、どうしようもなかった。ボクサーパンツの腰ゴムの合間から手を滑り込ませようとした、その瞬間だった。
だんっ、と激しい音が響き渡った。
猛然と、書斎の扉が音を立てて開かれたのだ。
* * *
城門のベルが鳴ったことに気づき、快斗は仕事の手を止め、マジックのために手に持っていたステッキを机上において窓へ歩み寄った。
見れば、いつも定期的に麓から果物を売りに来てくれる女性だ。
迎えに出れば、彼女は軽やかに笑って、背負い籠いっぱいの果物を差し出してきた。
「ご苦労様、ヒナ」
同じく笑顔でそれを迎え、しかし快斗は少し困って眉尻を下げた。
「でも、さすがにこんなには買えないな。食べきれなくて、悪くしてしまうかもしれない」
今日のヒナが持ってきた果物は、いつにも増して多かったのだ。寺井より食欲のさかんな工藤が城にきたとはいえ、一気に果物の消費量が増えるわけでもない。食べきれないことはおそらく無いだろうが、これはなかなか大変な量だ。
「違うわよ」
ふふ、と何処か謎めいた笑みを浮かべたヒナが、機嫌良く首を振った。
「この籠の、上半分の果物をファントム、貴方に」
「上半分。なるほど、下半分は別のところに?」
「そう。あとね、今日の分はタダよ。貴方に差し入れを預かってきたの」
「差し入れ? 誰からだい?」
何気なく快斗は尋ねた。
たまにそういうことはあった。そつなく島の人間とも交流している快斗は、こんな城にわざわざ不便を押して住み着く変わり者だがいいヤツだ、とおおむね好意的に受け入れられていて、たまに島の人間が差し入れと称し、タダで食物を分けてくれることがあるのだ。
とはいえ、タダで貰ったものには恩返しは必須である。快斗も折りをみて返礼をするのが習わしだった。名は、聞いておくのが礼儀だ。
だが、いつも通り勝手口からさっと城の中に入ってきたヒナは、快斗と並んで歩きつつ笑った。
「今日は内緒」
「内緒?」
「そう。内緒よ」
「困ったな、お礼が出来ない」
「する必要はないわ。その人も望まないでしょう。その人はただ、貴方に健やかでいてほしいだけよ。返礼など、求めていない」
あっさりとそう言われ、快斗はふと口をつぐんだ。
……ほんの微かな予感が、胸に兆 したのだ。
ヒナはご機嫌のまま、城の調理室まで果物を運んでくれた。床に置かれた空の籠に、果物を入れてゆく。ここまで届けるのが私の仕事なのよ、といつも言い、ヒナはきちんと城の中まで果物や野菜を届けてくれるのだった。
「誰がこの果物を差し入れたのか、聞きたそうな顔ね、ファントム」
立ち上がり、軽くなった己の籠を手にもって、ヒナは目を細めた。
「……そうだね。知りたいけれど、教えてくれる気はなさそうだ」
「秘密があるから、人生は美しいのよ、ファントム」
ヒナは軽やかなターンをその場で決め、調理室の勝手口から飛び出すと、また花のようにくるりと回って、じゃあねファントムと笑った。
残されたトロピカルフルーツを眺め、快斗はそっと吐息した。
ぴぴ、と腰に下げていたホルダーの内側で、常時携帯している衛星携帯電話が短いアラーム音を鳴らす。書斎の中で大きく工藤が動いたことを示すアプリのアラームだ。普通にただ本棚を漁って移動中の時も鳴るので、正直どうでもいい情報であることも多いが――丁度手が空いたところだ。何気なく携帯を操作し、カメラ映像に切り替えた快斗は、やがて隻眼をじわりと見開いた。
「……は……っ」
口元に、抑えきれぬ笑みが浮かんだ。
蒔いた種は、きちんと芽を出した、ということらしい。
* * *
下半身に意識が集中していたせいで、新一の反応は若干遅れた。はっと息を呑んだ時にはもう遅く、黒羽が長いズボンの裾を捌くようにしてつかつかと歩み寄ってくるところだった。
ざぁっと血の気が引いた。頭の片隅でこんな事態も覚悟してはいたものの、いざ本当に黒羽が現れると、激しい動揺と羞恥で、全身にぶわりと嫌な汗が滲む。
「くろ――」
「ったく、ダメだろ。独りでお楽しみなんてつれないぜ、工藤」
薄笑いを浮かべた黒羽の隻眼が、やんわりと細められる。
「なぁ、工藤?」
ベッドに勢いよく片膝をついた黒羽が、身を乗り出す。片手で勢いよく肩を押された。
情けない姿のままベッドに押し倒された新一の腰に馬乗りになり、黒羽が獲物を捉えた野獣のごとく上体を倒してくる。耳元に、少し荒い吐息が触れた。
「欲しくなった……?」
「なっ」
「セックス。したい?」
「うるせ……っ! オメー、やっぱり見てたな」
この書斎に潜む、おそらくは複数の『眼』。
元怪盗が抜け目なく仕込んでいたのであろう監視カメラの有無を鋭く尋ねれば、眼前で黒羽がまた、底の見えぬ薄笑いを浮かべた。
「だったら何? 見られてるって半ば解っててやったんだ? 誘ってる?」
「はっ、誰が誘うか。あっさり盗撮を肯定しやがって。俺にオナニーもさせねぇってか」
羞恥を堪えて、あえて堂々とあけすけな表現で問いかけたが、
「そう。工藤は、俺とのセックスでしかもう射精 させねぇよ」
返ってきた答えはあまりにも想定の斜め上で、新一はぽかんと口を開けた。
「は……?」
「悪いが、射精管理も『人生の半分』に入ってる」
「おま……っ!」
さすがに初耳だし、あまりにあけすけな単語が今度は黒羽から発されて、返り討ちにあったような気分だ。頬が燃えて仕方が無い。一体俺を何だと思ってるんだと言いかけて、ぐっと喉奥で声が詰まり、新一は目を剥いて黙り込むしかなかった。
何だと思ってるかって?
(欲を吐き捨てるための、玩具か……っ)
だが本当にそう答えられたら、怒りで何をしでかすか自分でも解らなかった。
否……怒りならまだマシだ。
黒羽快斗という存在に見事に火傷したこの心が、その瞬間何を思うかは正直、もう考えたくなかったから思考を止めた。
ぐっと掴まれた両手を深くシーツに縫い止められたまま、為す術もなく黒羽の声を聞いた。
「そろそろ取引だ、工藤。日本に連絡、したいだろ?」
「……取引、だと?」
「そ」
黒羽がゆるりと頷く。愉しげな瞳の奥はだが、興奮はしていても笑ってはいない。
あらゆる大陸から最も遠いこの島に訪れる宵にも似た、冴え渡る藍の色がそこにはあった。闇に沈む直前の紫と混ざり合う、深い、底なしに深い藍鉄 が彼の隻眼には潜んでいる。
星ひとつ灯らぬ眼差しの昏さに、腹の奥が震えた。
* * *
そこは城の敷地内にある、花園だった。
日中に蓄えた熱を、窓を閉じることで保温しているガラスの温室。日中、午後3時ごろから夜の準備で窓を閉じていけば、気温が下がりにくいのだという。現在、この島は冬期にあたるが、それでも日本の冬に比べると遥かに温かく、夜間でも窓さえ閉めれば温室の中が16℃を下回ることはほぼ無い。基本、暖房はかけないのだと黒羽は説明してくれた。
「その代わり、この島が夏期に突入したら、遮光したり冷房したりするぜ」
「遮光?」
「そ。天井付近にカーテンがあるだろ。南国の真夏の光線は強すぎると薔薇には負担なんだよ。だから、夏になると遮光カーテンである程度光をコントロールすんの」
黒羽の指さす上空の一角には、確かに遮光用らしいビニールのカーテンが、今は折りたたまれた状態で固定されてあった。
南国の熱を夜になっても保温している温室は、入るとほっとする暖かさがあった。
身を包み込んだ暖気に、全身の筋肉がふわりと緩む。
城は山上にある。外を歩いているときは身体を動かしているから肌寒さは感じないのだが、動きを止めると、いつもの部屋着では肌寒さを感じてしまう夕刻だ。
温室の暖かさは、だからちょうど心地よかった。
黒羽に手を引かれて入った温室を、新一は物珍しさも相まって、しばし感嘆しつつ見回した。
円形のドーム状になった温室は、天井部分に向けて、金属の骨組みが綺麗に集束している。窓はかなりの部分が開閉可能になっているが、今は一部を除いて大体閉じていた。
何かに似ているような気がしていたが――
(ああ、そうか)
不意に、すとんと胸に落ちてきた――そうだ、この構造。
――まるで巨大な、鳥籠じゃないか。
遮るもののない島の空は広大だ。温室のガラス越しにいま、空が冴えたマドンネンブラウの紫に染まってゆく。西の空はまだ濃いコーラルピンクに輝いていて、陽はようやく果てしない水平線へゆるやかに沈みゆくところだった。
薔薇は幾種類かあったが、マジックに使用することも考えて育てているからだろうか、やはり赤い薔薇が多い。たまにピンクや白、黄色もあり、花に疎い新一にはその品種までは到底解らなかったが、小さな薔薇園の美しさは胸を打った。
「オメーが、育てたのか」
「あぁ。寺井も手伝ってくれたけどな」
黒羽がアーチに巡らせたつるバラの白い一輪に手を添え、ふと優しく微笑む。
(あ……)
棘も圧もない、ただ素直に薔薇を慈しんでいる横顔に、新一の胸がしくりと痛んだ。
そんな笑みも浮かべられるんじゃないか――お前。
(……俺には、滅多に見せない顔……)
島の女性どころか薔薇にすら彼が惜しみなく見せるその笑顔は、新一にだけは縁遠いものだ。
誰よりもいま近くに在りながら、誰よりも遠い男だった。
温室は鮮やかな原色に彩られ、うっとりする薔薇の香りが漂う。南国に自生する花々の香りとは違い、新一でも馴染みのあるものだ。だが閉じられた薔薇園に満ちる香りは、もはや香水級に濃厚なもので、吸い込むと否応なしに思い出すのだ――ベッドに満ちる、官能の香を。
この城は、何処も花の香に満ちて……人を、惑わせる。
前方に立つ黒羽の背後には、東屋 が設えてあった。周囲より2段ほど床を高くしている。白い六角形の屋根とそれを支える骨組みに囲まれたそのガゼボの床には、丸く毛足の長い真っ白なラグが敷かれてあり、大ぶりのクッションも人を待つようにそこへ二つほど置かれてあった。
隅には、心地良さそうなカウチソファーが一脚あった。片側にのみ流線型のヘッドレストが存在し、向かって左側に適度に角度のついた背もたれが優雅についた、チェスターフィールドのデザインを取り入れたソファー。革ではなくブルーベルベットのファブリックが張られた上品なそれは、昼寝でもすればさぞかし気持ちがいいのだろう。
けれど、今の新一は、それすらまともに直視できないでいた。今からここですることを思うと、緊張がぐっと腹の奥を重くしてゆく。
淡い照明が、ガゼボの下部から間接照明のように上方へ向けて照射されていて、闇に沈みかけた花園の中で鮮やかにガゼボ全体が浮かび上がっている。
美しく小さな、鳥籠の中の箱庭がそこに在った。
「工藤、おいで」
その声に振り向けば、黒羽がこちらを肩越しに振り向き、右手を差し伸べている。
出会った時と似た、ゆったりと袖が揺れる生成りのブラウスを着た黒羽の手首で、優雅に垂れ下がる袖がふわりと揺れた。
黒羽の側まで歩み寄る。差し伸べられた右手を無視し、わざと彼の左側へ歩み寄ったが、それに気付いた黒羽は薄く笑った。
気障ったらしく新一の眼前でくるりと華麗にターンして、新一の左側へと位置取る。そうして己の右手で新一の左手をふわりと取り、手の甲へと軽く口づけた。
こちらを見つめる隻眼に、油断はない。
手を繋いで歩き出せば、いつもと同じポジションだった。新一は、黒羽から見て右に立たされる。
いつも、いつもだ。
「……お前、いつも、そっちだよな」
静かに囁けば、そう? と黒羽がとぼける。
追求しようとして、だが言葉を呑んだ。きっと黒羽は理由を答えない。
顔の半分を大きく覆ったデザインの眼帯は、右から見れば、彼の表情をほとんど覆い隠してしまうのだった。
サンダルを脱いでガゼボに上がれば、足首まで埋まるほど毛足の長いラグが、ふんわりと新一の素足を包み込む。なんともいえぬ心地よさに眼を細めた瞬間――不意に、黒羽の右手が伸びてきた。
今から起こることを、想定していないわけではなかった。だが、やはり不意打ちには驚いた。
黒羽の右手は、新一の首枷にさらりと触れた。
瞬間、じゃらりと重い金属音が鳴った。
(……っ!)
あっと言う間に新一の首枷には鎖が繋がれていた。もう一方の先端は、ガゼボの柱の一つにある鉄製リングにあらかじめ繋がっていたらしい。
黒羽が鎖を手放す。床に垂れ下がった分の重みが、新一の首に新たに掛かった。
「お前……っ!」
「取引の中に、これも込み、だ。工藤に拒否権はねぇよ」
カッと頬を紅潮させた新一をみやり、底知れぬ笑みを浮かべ黒羽が囁く。癖のある長めの前髪越し、隻眼が夜の海のごとく沈んだ光を放つ。
低いその声に、新一の肌が音も無く粟立った。
「飲んで貰おうか」
ガゼボの床に置かれていた小さな瓶を拾い上げ、黒羽が差し出してくる。以前ローションが入っていた香水瓶のようなものではなく、直線的なデザインのガラス瓶だったが、やはりそれも中に液体が入っていた。
顔を強張らせ、新一はかぶりを振った。
「嫌だ」
「人体に害のある成分は入ってねぇよ。少し気持ち良くなるだけだ」
「そういうこと言ってんじゃねえ。断る!」
瞬発力ならこちらも負けない。
咄嗟に右手で、その瓶を力一杯叩き払った。ガゼボの外へと吹き飛んだ瓶が、温室の床で儚い音と共に、粉々に砕けた。
中の液体が、じんわりと温室の遊歩道の石畳を濡らして広がってゆく。しばしそれを眺め、やがて昏い眼差しで黒羽が新一を再び見やった。
「良いのか? 素面 で抱かれることになるぜ?」
「うるせーな。お前こそ素面の相手を気持ちよくさせる自信がねぇのかよ黒羽。絶海のファントムは、相手をいちいちヤク漬けしなきゃセックスもまともに出来ねえってか」
「……」
その刹那、遺された黒羽の片眼が、ひどく剣呑な輝きを宿した。ぐい、と鎖を強く引かれる。思わず前方へつんのめった新一の身体を抱き留め、黒羽がニヤリと口角をつり上げ嗤った。
「上等だ。しようぜ……まともなセックス」
新一の身体に数日かけて燻っていた官能にそっと灯を点す、低い囁き。
全身が、否応無しにふるりと震えた。
* * *
開始3分で、後悔していた。
正気を取り払ってくれる有り難い薬なら、飲んでおけば良かったのだ。なんだかんだで黒羽が身体に悪影響を及ぼすような薬物は使わないことぐらい、言われずとも信じていた。飲むタイプは初めてだったけれど、きっとあれも一時的な作用でしかないのだろう。
(馬鹿だな、俺……)
完全な正気を保ったままで、この男に抱かれるなんて――それこそ正気の沙汰ではなかったと思い知った。素面で黒羽に抱かれるのはこれが本当に初めてだ。まだ失えない理性が、全身に与えられる黒羽の愛撫にただただ打ち震えるしかない。
内心おたおたしているうちに、シャツの上から上半身を荒々しく、だが濃厚な手つきで撫でられ、すっかり息があがってしまった。
ラグの上に少し乱暴に押し倒された。しゃん、と左足首で鈴の音が鳴る。全身に体重をかけて覆い被さってくる黒羽の屹立が、じわりと新一の前を圧迫して密着してゆく。
「あ」
思わず、戦 いて声が漏れた。自分も大概昂ぶっているが、黒羽もぞくりとするほど――硬い。
強く漂う薔薇の芳香に混ざって、黒羽の身体に染みついた南国の香りが、呼吸するたびに肺の奥まで満ちてゆく。薄目を開ければ、己の身体の上で動く黒羽の鎖骨から首にかけてのラインが美しく揺れて、どきりと心臓が跳ねた。
薄々解っていたが、この10年は黒羽を随分と逞しく鮮やかな『雄』に変貌させたらしい。服の下に隠れた身体は想像以上に引き締まっていて、無駄なモノが一切ない。スレンダーなのに研ぎ澄まされた、武器のような筋肉を纏っていた。
整った唇に、綺麗な陰影を刻む鼻筋、そしてその上で輝く宵闇の隻眼まで視線で辿りかけて――やめた。こんなの、心臓が保たない。
黒羽をまともに見てしまえば最後、上気した自分の顔も黒羽に見られていることを思い知らされてしまいそうだったからだ。有り体に言えば――気恥ずかしさが限界突破していた。
ズボンの内側で熱く湿った昂ぶりを、体重をかけて押しつけられる度に、腰がびくびくと恥ずかしいほど震えて止まらない。ずっと目が合わぬように避けていたのに、ふとした瞬間、黒羽と目が合ってしまった。
(嗚呼……)
隻眼の奥、熱い情欲が揺れている。
たった一つの瞳だというのに、黒曜石のように燦 めく視線に射貫かれ、もう声すら出ない。どくん、と破れんばかりに胸が鳴った瞬間、黒羽が顔を傾け、躊躇いなく唇を落としてきた。
唇のリアルな感触に、ぶるっと身体が震えた。熱く濡れた黒羽の唇が、新一の下唇をくちゅ、と柔らかく食む。
「……っ!」
煽ったのは自分なのだから、ここで拒む道理はなかった。だから本当にただの反射だった。急に押し倒されていよいよだと思ったら、理性の強く残る身体中の筋肉が、ギュッと反射的に強張ったのだ。もう2度も黒羽を受け入れているのに、今更こんな感情が湧くなんて思わなかった。
怖かった。
正気のくせに黒羽のテクニックに溺れてドロドロに乱れそうな己を曝 すのが、少し、怖い。
偉そうに煽っておいて、棒人形のようにガチガチになって震えているだけなんて情けねえなおい、ともう一人の自分が囁くけれど、処女のようにきつく眼を閉じるしかできなかった。
(やべ……俺、すげぇ緊張してる……)
キスの合間に鼻から漏らした吐息が、隠しようもなく震えた瞬間、だった。
「……」
何を思ったか、ゆっくりと黒羽がキスを解 いた。唇を離した黒羽の気配に数秒戸惑ったが、結局どうしたのかと不安になった新一は、そっと薄眼を開いた。
真上から、黒羽に見下ろされていた。
「……? くろば……?」
小さく呼びかけたら、宵の空にも似たその隻眼が、優しくも苦い笑みを浮かべた。
「……ったくほんと、名探偵は度胸が良くて、向こう見ずで、馬鹿みたいに危なっかしい」
「なっ」
一瞬カッとなりかけた新一だったが、黒羽が宥めるように額に落としたキスが、思いのほか甘かったから――言葉が掻き消えた。
「そして、腹がたつほど、綺麗だ……」
最後の言葉を呟いた黒羽の表情は、解らない。ぎゅっと頭を包むように抱きしめられたからだ。
「力を抜いて……酷くはしない」
「……っ」
黒羽の身体が伝えるぬくもりから、棘がすっと消えたようだった。まるでガチガチに着込んだ鎧をそっと脱いだかのように、素直な黒羽の体温を感じ、新一の緊張がふと緩んでいった。
ラグの上で座る彼の右腕に背を預けるようにして、半身を起こした状態で横向きに抱きしめられた。唇を重ねれば、寛げられたシャツの胸元から忍び入る手がゆったりと肩を撫で、首筋まで這い上がる。
一転して、それは優しい動きだった。
唇はあくまで甘く啄まれて、新一の脳内は早々に混乱した。もっと激しく、怒りに任せて獰猛に貪られるとばかり思っていたのに、これでは、まるで。
まるで、普通に、愛されているみたいじゃないか。
「……ん、ふ……」
小さな水音を立てて、黒羽の唇が己の唇を軽く吸い上げ、甘く遊ぶ。
瞬間、胴までふるっと震えて、新一は黒羽の首にすがりついた。
触れてくる黒羽の手は、何故か撫でられた箇所から肌ごと蕩けてしまいそうなほど優しく思えて、ともすれば鼻頭がつんと痛んだ。綺麗に手入れされた黒羽の指腹は、とても滑らかだ。するりと左手が新一の胸に這う。羽のように淡い力で、その中指が乳輪をくるりと撫でた。
「……っ」
小さく身体が跳ねた。
そんなところを素面で弄られて、腰が踊るなんて考えもしなかった。この間のようにもっと強く触れてくれたらいいのにと理性の狭間で理不尽なことを思う。この数日間でゆるやかに昂ぶっていた欲が、たったこれだけの接触でもう膨らんで、下肢の合間で硬く熟れ始めているのも居たたまれなくて、頬がどうしても熱く燃えてしまう。
「工藤……口、開けて」
黒羽が唇を離し、掠れ声で囁く。ただそれだけのことに、また臍の奥がきゅうっと深く軋んで、背骨が震える。
別に今は唇を噛みしめてもいない。半開きになっている口をいくらでも好きに蹂躙すればいいのに、わざわざ呼びかける黒羽が不思議で、思わずうっすらと瞼を持ち上げ、遂に見てしまった。
吐息もかかる間近でみつめた、黒羽の隻眼。
注がれている視線の優しさに、思わず息を呑んだ。蒼紫の瞳にいつも滲む皮肉げな薄笑いは、今はなりを潜め、ただただ、新一を希求する切ない情熱だけが揺れている。
(なんで、そんな目で、俺を見る)
とくん、とくん……心臓が本格的に駆け足で鼓動を刻み始めて、全身が緩やかに上気した。
「ほら。舌……出して?」
拒否しようと思えば出来るのに――そんな眼差しを知ってしまったら、出来ない。
黒羽の言葉で魔法にでも掛けられたかのようだった。おずおずと舌を差し出せば、黒羽が同じように舌を差しだしてくる。瞳を糸のように細め、お互いたっぷりと濡れた舌先を絡め合えば、あまりにも淫らで――眩暈が、した。
堪らなかった。心臓なのか胸骨なのか解らないけれど、胸の中心がきゅぅっと痺れるように痛んで、骨を通じて全身に甘い痛みが広がってゆく。
感情の激しい昂ぶりに、身体が悲鳴をあげているかのようだった。
こんな想い、なるべく言葉にしたくなかった。言葉にしてしまったら、己の魂にそれがはっきりと刻印されてしまいそうで、ひどく怖かった。けれどこんなにも卑猥かつ甘いキスを自分から差し出すように促され、それに応える理由なんて――もう、たった一つしかなかった。
ぬるぬると舌先を絡めて黒羽と戯れていると、急に咥内に溢れてきた唾液が口端からたらりと零れそうになる。その瞬間を待っていたように、黒羽が急に距離を詰めた。深く接吻 けて、滴りを全て吸い上げられる。
隠しきれずに甘く溢れ出したこころまで、啜り上げられているような心地になった。
(くろ、ば)
少しだけ。ほんの少しだけ。
己に言い訳でもするように、黒羽の唇に自分からも吸い付いてみた。ほんの少しでいい、こうして身体を重ねている間だけでも、その心の奥に触れられたらいいのにと思ったのだ。
「……っ、ふ……」
瞬間、黒羽の吐息が強く震えた。胸をたゆたっていた左手が、再び背に回る。両腕で強く抱きしめられ、首が反るほどに唇をぴったりと覆われた。
どこか、切迫したキスだった。
蕩けた意識が淫らに染まる。いつしかキスと愛撫の合間にどんどん服をはぎ取られていき、気がつけば二人とも生まれたままの姿だった。覆い被さる黒羽に押し倒され、昂ぶるものを己の屹立にゆったりとした動きで擦りつけられれば――もう震えるしかない。新一の先走りは既にたっぷりと溢れていて、黒羽と擦れあいながら二人の劣情をとろりと濡らしていった。
キスの雨が、絶えず新一をあやすように降り続けていた。
ふやけた唇から、存在ごと溶けてしまいそうだ。
「く、ろば……」
「……濡れてる」
軽く息を乱して、黒羽が囁く。その声の甘さにまた、ひくんと腰が悶えた。
「言う、なぁ……っ」
「トロトロ涎垂らして震えてるぜ……工藤、すげぇ先走りの出る、えっちなちんぽだな……俺のまでヌルヌルになってる……」
「や……」
黒羽の屹立と新一の屹立、二つを大きな掌で包み込むようにして、黒羽が一緒くたにしてしごき始める。新一の潤沢なカウパーでぬるつく感触がぞっとするほど気持ちよく、頬が燃えあがった。
「あっ、ぁ」
爛れた声が、漏れる。腰が揺れてガクガクと止まらない。微かな水音がくちゅ……と立って、自分が感じすぎている事実を思い知らされる。確かに、己の先端は濡れやすいという自覚はあったけれど――薬無しでもこんなに濡れるなんて。
「あ、やぁ、い、くぅ……」
性感の昂ぶりに首を打ち振ったその瞬間――ふっと手は離された。
「まだだぜ? 夜は長い」
ほくそ笑む黒羽が、新一の尻の合間に体温と同じ温度の液体をぬるりと垂らす。いつのまにローションを手にしていたのか――もう黒羽の手に注意を払うだけの余裕すらなかった。
「あ」
ローションを塗りこまれる感覚にはどうしても慣れない。くぷん、と侵入してくる指の感触に、頭が真っ白になる。いつもは薬で訳の分からない内に後孔を犯されるのだが、今は理性がいちいち恥ずかしさに悲鳴をあげていた。
黒羽は丁寧だった。時間をかけてほぐしてくれる。そのことがまた辛かった。身体が甘く疼けば疼くほどに、羞恥は増した。もういっそ勢いで犯してくれとまで思う。足を閉じたくても、左腕で右足をしっかりと深く折り広げられていて、どうしようもなかった。
「ここ。工藤の好 い所の一つ目……覚えて」
二本に増やされた指が、くい、と中で腹側へと曲がる。
「ひっ、ぅ」
体内で少し弾力のある箇所を、押されているのが解る。おそらく前立腺といわれるところなのだろう。撫でられただけでもビクビクッと反射的に身体がのたうつほど強い快感が走るのに、黒羽の長い指先は、やんわりとそこを人差し指と中指で挟み込んだ。
「ひぁっ、あっあ! んあぁっ!」
嬌声を止められない反応に自分が一番ショックを受けた。何か排尿にも近い感覚で、漏れそうな気がしてくるけれど、それよりもっとくっきりとした快感だった。
「あぁ、やらしいな工藤……可愛いぜ?」
「うるせ……っ、ひぅっ」
「ほら、指で掴める。エロいなぁ……さしずめカラダの奥の……メスちんぽ、かな?」
「ひぁ、アっぁ、やぁ、やぁぁぁあンッあぁっう、ひっ、ぅ……」
「扱いてみようか……ほら」
「ひっ、ぁ!」
黒羽の唇から溢れる、卑猥なほどの単語に脳髄をぐずぐずに灼かれてゆく気がする。恥ずかしくて、逃げたくてたまらない。なのに身体の一点を指二本で掴むように擦られただけで、脳天まで貫く快感に滅ぼされてゆくばかりだ。追い打ちをかけるように、ぐちゅぐちゅと淫らにたつ水音が、温室を淫靡に満たしていった。
断続的に声をあげて打ち震えた瞬間、驚くほどあっという間に瞳から涙が溢れた。生理的な反応が全身に起こり続けて、受け止めきれない。波打つ身体は、まるで殺されかけた魚のようだ。
「工藤……」
やんわり笑みを浮かべた黒羽に、宥めるような口付けをされる。それにすら縋るように応えてしまう自分が情けないのに――何処かで、悦んでいる自分もいた。
(こんな、恥ずかしいのか、セックスって)
そしてこわくなるほどキモチが良いものだなんて――こんな状況で、知りたくなかった。
羞恥に灼かれる頭の片隅が、救いを与えるような黒羽の口付けに酔った。同じ男として悔しいほどに、キスが上手い。
陶然と酔いしれていると、ふと後孔に違和感を覚えた。
(……っ)
キスしたままそこを熱いものが押し広げ、ぐぷん……とカリ高のある逞しい亀頭が侵攻してくる。
やだ、も、待て、も言えなかった。全ての言葉を吐息ごと奪われたまま、圧倒的な支配力で熱く燃える肉棒が、新一の肉をも灼いて入ってくる。
ぴったりと一分の隙もないままに押し入るその熱塊に、
「ん――――――っ、ふ、ぁぁあッぁ……」
ゆっくりと、貫かれた。
それが黒羽の半分なのか、全てなのかも蕩けた頭では判断できなかった。いったん動きを止めた黒羽が、唇を離してそっと闇の中、笑った。
「美味そうに咥えてるな、工藤……うん、上手」
「ひ、ぁぁぁぁ……」
悔しいが蕩けた声しか出なかった。この数日、じっくりと焦らされ続けた新一の内側が、うねるように黒羽を包み込んで歓喜している。自分でも怖いほどだった。欲しかったものがようやく与えられた感覚に打ちのめされてしまう。
(こんなに、おれ……欲しかった……のか)
もっと欲しい。黒羽に掻き回されたい。薬も飲まない状態で、こんなにも痛切な飢餓感に苛まれるなんて……知らなかった。
「気付いてる? 工藤」
愉しそうに、黒羽がカラダの上で笑った。
「もう陽が落ちた。この辺りは暗闇だ。外から温室をみたら、工藤が俺に抱かれてトロトロなの、丸見えだね……?」
「あ……っ」
一瞬、蕩けきった悦楽に水をかけられたようなショックに、はっと息を呑む。見回せば、温室のガラスの向こうにもうはっきりと闇が沈んでいた。
ガゼボを照らす間接照明の中で睦む自分たちは、さぞかし外からはよく見えることだろう。
「ギャラリー。居たりしてな?」
低い囁きに、そわりと背筋が浮く。居るわけがないと分かっているのに、それでも何故だろう、黒羽の楔を咥え込んだ腹の奥から、背筋を這い登ってくる興奮があった。
「あぁ……興奮した? 締め付けきつくなった……淫乱で、最高にいい身体だぜ……?」
「やめ、ろぉ……ばか……っ」
意地悪く嬲る声が、それでもとても心地良い黒羽の声だから、本気で嫌えない。腹立ち紛れに抱きしめたその背に、爪を立てた。
強く食い込ませる。けれど肌を破りそうになると、つい力を緩めてしまう自分が悔しい。
「……いいぜ。俺の背、できるだけ酷く傷つけて……工藤」
甘く、うっとりと美酒に酔うように優しく、黒羽が囁く。
――何故。
何故そんな甘い声で、焦がれるように囁く?
ふと理屈を越えて泣きたくなった瞬間――ずるりと黒羽の屹立が退く。
「あ、やっ」
ぞくぞくっと背を駆けた悪寒のような快感に眼を剥いた瞬間、黒羽がふたたび楔を押し込んでくる。息をつく間もない。浅いところを丁寧に擦りあげるその動きに、先刻教え込まれた『好い所』を散々あまく穿たれて、一気に快感が腰を灼いた。
「工藤は……っ、浅いとこだけじゃなく、奥でももう感じられるかな……前回、結構奥でも気持ちよかったもんな?」
荒い息の合間に、黒羽が囁く。揺れる前髪の奥、隻眼が新一を熱く射止めた。
「試してみようか、工藤」
「えっ、……っ、何、を……?」
朦朧と快感に溺れた脳は、なかなか言われたことをそのままに理解できない馬鹿になっていた。ゆるゆると思い出すけれど、前回のセックスは薬漬けだったから、正直、突っ込まれている間はただただ狂うほどの快感に噎 び泣いていた記憶しかない。どこをどうされても、ひたすら気持ちよかっただけだった。
「覚えてない? いいよ……教えてやるよ、工藤。お前の、これから好くなるトコロ……っ」
刹那、黒羽が両手で深く、新一の足を抱え上げた。
「……っ! ぐ、っぁ……やっ…………!」
深く、大きく、己の身体が拓 かれる。普通に奥まで入っていると思っていた黒羽の楔が、その瞬間、ぐっと息もできぬ圧迫感でさらに奥を抉った。
(うそ、だろ……っ!)
下半身が燃えるようだ。腹の奥、そのさらに奥にぐぷりと黒羽の灼熱が突き当たり、充血しきった粘膜をこれでもかと擦り立ててくる。
「やぁぁぁぁ……っ」
「まだもう少し奥まで入るけどな……今はこれぐらいで。ほら……工藤。口あけて……?」
「ん……っ、はぁ……んっ」
宥めるように覆い被さってきた黒羽に口づけられる。少し誘っては離れてゆく舌を追い掛けて唇を開けば、引き攣れていた呼吸が自然と、楽に再開した。
馴染むまで動きを止めてくれた黒羽が、片手で新一の額に触れた。汗で貼り付いた前髪をそっと退けてくれる。露わになった額に、慰めるキスが降りた。
「く、ろば」
「大丈夫。呼吸して、工藤。痛いか?」
「い……や、痛くは、ない……けど」
内側に感覚を集中して、新一は生理的に濡れた瞳をおろおろと揺らした。この感覚、言葉にするのが難しい。
「熱く、て……呼吸するたびに、じん、ってして……」
「うん」
「からだの、なか……」
「ん……?」
眼を閉じれば、たっぷりと湛えられていた涙が押し出され、こめかみを伝って落ちた。
「ナカ……一番、おく……おっきぃの、当たって……あっつぃ……」
「……っ」
瞬間、黒羽が頭上で息を呑んだ気配がした。同時に、身体の奥で黒羽のモノが大きく膨れあがって内側から爆発するような気配があって、ぎょっとする。
「うわっ……!」
「あぁぁぁぁ……くそ」
何かを堪えるように、黒羽がぐっと首を深く折る。汗に濡れた彼の前髪がばさりと垂れ、その表情を暗く覆い隠した。
「今のは……工藤が悪いぜ……」
「な、んだよ、俺が、何したってんだ……っ、あ!」
新一が最後まで言い終わるのを待たずに、黒羽が動いた。緩く揺さぶられる。大きな抜き差しもない穏やかな動きなのに、それでも灼熱感が奥を穿った。
「いっ……た……あつ、あつい、くろば……っ、灼ける……っ」
思わず背にすがりつけば、黒羽が耳元で微かに笑った。嫌な笑い方ではなかった。宥めるような、優しい吐息が降った。
「可愛いな、工藤……少しだけ……我慢な」
「ひっ、あ! やあ……やっ、ぐ……っぁ!」
熱い。痛みで熱いのか黒羽が燃えているのか、もう判然としない疼痛が己を内側から灼いてゆくのが解る。
だが、奥に留まる黒羽の先端に、ゆっくりと奥だけを丁寧に揺さぶられ続けていると、突然、熱さだけではない甘い快感が、熱と一緒に身体の奥からじわりと広がってきた。
痺れるように広がり続ける快感に、戸惑いながら首を振るしかない。
「あ、あっぁ……! や……な、に……黒羽、くろば……っ、なんか、へん……っ」
「うん? 好 くなってきた?」
「わ、かん、ね……ひぁ、ああああ、あぅ……」
身体の奥から電流が淡く流れ続けるような感覚だ。本当に急に楽になって、一旦気持ちいいと感じ始めると止まらなくなったのが不思議だった。確かにそこが行き止まりだと感じられる『奥』に、黒羽の滑らかな亀頭が弾力を伴って押し当てられては、抉るように愛される。そのたび、身体の奥の音など解るはずもないのに、くちゅ、ぐちゅっ……と淫らに濡れた水音が聞こえるような気がして、たまらなく恥ずかしい。
(きもち、い……、わけ、わかんな……っ)
びくびくと打ち震えて喘ぐ新一の上で、黒羽が身体を起こし、実に満足げに笑った。
「あぁ、もう感じてきた? やらしい身体だね……3回目でちゃんと奥で感じられるようになるなんて……工藤はもう……」
ねっとりと、隻眼が細まる。淫蕩な眼差しで舐めるように新一の身体を眺め、大きく膝を割り広げながら、黒羽は口角を引き上げた。
「――もう、戻れねえな?」
「……っ!」
がくん、と激しく身体が揺れた。黒羽が腰を引き、そして一転して遠慮無く突き入れてくる。
悲鳴すら喉の奥で霧散した。息をつく暇もなく、大きな快感に一撃ごとに背を震わされる。
「あっ、ぁ、ぐ、うんっ、は、やっ、あっ、くろ、ばぁ……っ」
「工藤……っ」
掠れ声が、呼んだ。
ふるっ、と背が再び強く痺れた。駆け上がってくる射精感がもう止められない。
「ひゃ、ぁぁあっあっやっ、出る、イく……っ!」
「俺も……っ、そろそろ……出すぜ……っ」
しっかりと好い所を抉られ、疼痛を越えた快感に、何か泣きたいような幸福感がこみ上げてきた。もう身体の感覚に精神が引きずられてどうにもならない。何故か強く、強く、黒羽を締め付けてしまう。己の中で果ててほしくて、全身が歓喜に震えた。
「工藤……っ!」
「うぁッ――………………」
黒羽が、腹の奥深くでどくりと熱を放つ。
真っ白な快感に灼かれながら――新一自身もたっぷりと白濁を吐いた。
「ひぁ……あぁぁぁ……んぅ……」
小さな声が、間断なく口から漏れる。奥を叩き、満たしてゆく黒羽の白濁を体内に感じながら、己もまた溜まった白濁を噴いて――ぐったりと力を抜いていた新一はその瞬間、確かに無防備だった。
「……工藤。工藤、水飲んで」
声がする。
朦朧とした視界の中、黒羽が顔を寄せてきた。ぴったりと口を塞がれる。喉の渇きは確かに強くて、疑わずに唇を開いたものの、飛び込んできた液体にふと全身の産毛が逆立った。
甘い。この甘さ、知っている。
喉の奥から鼻腔までふくよかに満たす、不穏な南国の……淫香。
「……っ!」
顔を打ち振ろうとしたが、黒羽に無理やり押さえつけられた。溢れて窒息しそうになる。負けて飲み込めば、食道から胃までもがふわりと熱く燃えて、急激に体温が2℃ほど上がるおなじみの感覚が襲ってきた。
「お前……っ! なに、のませた……っ」
「媚薬(クスリ)が一本だけとは言わなかったはずだが?」
冷然とした眼光に、背が凍った。
「まともなセックス。お楽しみ頂けたようでなにより。第2ラウンドの始まりだ、工藤」
顔を横に向ければ、いま黒羽が口に含んで空になったばかりの瓶がすぐ側に転がっているのが眼に入り、新一は思わず呻いた。そういうことか。
「何なんだ……何なんだよオメーは……っ!」
やりきれぬ怒りが湧いた。もうこんな薬など無くても黒羽が望むなら抱かれてやる覚悟もあった。そんなこちらの覚悟も心も、全て踏みにじるような行為に思えて、ひどく悔しかった。
達したはずなのに、それでもなお硬く漲 る屹立で新一の身体を貫いたまま、黒羽は剣呑な笑みを浮かべた。
「言ったろ? 俺は、お前の『傷』になるんだよ……工藤」
「き、ず」
鮮やかに蘇る、最初の情事。思い出した。確かに黒羽は言ったのだ。
お前の、傷になるのだと。
「俺を一生忘れられねえように、深く刻むのさ……工藤の中にね」
汗に濡れた前髪の向こう、輝く黒羽の隻眼が、ぞくりとする冷気を纏った。
「どうせ一生ここで過ごす気なんかないんだろ?」
「……っ!」
黒羽の言葉に、一瞬、胸を斬られた気がした。
「ここで歳取って死んでいく気はほんの少しもねぇんだろ? どんな時でも諦めねえ名探偵だもんなぁ。お前のしぶとさ、不屈の精神。全部知ってるさ。一緒に空を飛んだ仲だぜ?」
「で、も、俺は!」
「なのに逃げないから信じてくれと言われても、ね」
「嘘、じゃ……ねぇ……っ!」
それは痛いほど図星であり、だが心外でもあった。
確かに黒羽に対してその一点を偽るのは不可能に近かった。ここで歳を取って死んでいくつもりは、新一には毛頭無かったからだ。ここで暮らす中で何か光明を見つけ、この状況を変えることが出来ればと考えていたのは確かだ。
だからといって黒羽を捨てるとか、黒羽と袂を分かつつもりは無かった。
黒羽と共に生きる覚悟は、もう既に、新一の中にあった。それはもう不思議なほど、固く。
なのに、何一つ、黒羽には響いていないのか。
「逃げるつもりはねぇよ!」
叫ぶ新一を組み敷いたまま、黒羽が冷ややかに瞳を眇めた。
「……いいさ。お前がどうあれ、逃がすつもりもねぇしな」
黒羽が、新一の背をいきなり腕を回して抱き起こした。
「うわっ」
上半身を黒羽の腕で起こされ、下半身は黒羽の太腿に座るように上手く持ち上げられてしまい、新一は狼狽した。勿論、黒羽の屹立が深々と新一を貫いたままだ。
思わず床に膝をついて自分の身体を支えてしまった新一が混乱している間に、黒羽はもう新一の下に潜り込むようにしてラグに横たわっている。新一の腰は両手で掴まれ、固定された。
無理やり騎乗位のような状態にさせられ、新一の頬が羞恥でカッと燃えた。
「もっと食えよ工藤。軽すぎるぜ?」
「うるせぇ……っ、もう抜け……っ」
「何言ってんの。これからだろ? これも取引のうちだ」
「……!」
はっと息を呑んで、新一は眼を剥いた。
取引。
ここに来る前に、黒羽と約束をした。
温室でのセックスに応える代わりに、日本に電話をする機会を与えると。
「ほら。ちゃんと体重かけて俺に跨がれよ……工藤」
(くそ……っ)
新一は噛みつくような表情で歯ぎしりしながら、改めて恐る恐る体重をかけて腰を下ろした。
息が詰まるほどの圧迫感で、楔が己の奥に突き刺さってくる。新一の中でたっぷり吐き出された白濁が、水音を立てて主を迎えた。
騎乗位の姿勢――恥ずかしすぎる状況ですら、薬を服用した身体はむず痒く疼きはじめていた。じん、と痺れる腰が切なくて、堪らない。
精液で濡れた股の間で、くちゅ……といやらしい水音が立った。内股が、物欲しげにびくびくと痙攣する。
腰に跨がったまま、動くこともままならない新一の腰を黒羽が掴んだ。ぐいと上下に揺らすようにして抉りだす。
「あっ、ぁ!」
喉が仰け反れば、顎の先から汗が飛んだ。
黒羽のモノは一度白濁を吐いたにもかかわらず、身体の中で既に力を漲らせていて、反則級に硬い。
「……俺が本当に欲しいモノがなんだったのかも知らなかったくせに、自分に何かが出来るかもしれないって盲目の自信を抱いてきちゃうんだから、困ったおてんばだな?」
「あぁぁぁぁぁ……っ、やめ、やめ……っぁ!」
「でも、さすが名探偵サマだ。その自信は正しかったぜ。新一は時々、推理の経緯はすっとばしてでも正しい結論だけは見えてる時があったよな。そう、今回だってお前は正しかった……俺が欲しかったモノを、ちゃんと届けにきて、くれたんだからな……っ!」
ずくん、と体内を犯す灼熱に奥を何度も抉られ、チカチカと眼球の奥で白い星が散った。
「く、ろば……や、ぁっ、ンッ、ぁあああぁぐ、ぁッ……んっふ! や、やぁ、も、やぁっ」
「せっかく遠路はるばるやってきたんだ。セックスぐらい正気を捨てて愉しもうぜ?」
自重で余計に深くはまり込む黒羽の楔がナカを擦り立てる度に、覚えたばかりの快感が倍になって襲いかかってきた。
甘ったるい声が断続的に漏れて、気がつけば己も完全に勃っている。
(なん、で……っ)
悔しい。
度を越した悦楽に、嬌声を勝手にまき散らす唇がだらしなく緩んだ。自然と涎が口端から零れ、喉へと伝い落ちてゆく。喉を反らして喘ぐ新一の腰を掴んだまま、黒羽は自在に揺さぶった。
「やぁぁ……へぁぁ……っんっふ、ぐ、ぁ! やぁ、やぁぁぁ……くろば、も、むり……っ」
奥を突かれ、媚薬で上乗せされた快感が電流のごとく背を駆け上る。突きあげる逞しい肉棒に押し出されるように、新一の充血しきった亀頭から薄い精液がぴゅる、と漏れた。
「無理? まさか。こんなはしたなくグショグショにしてイキっぱなしのくせに何言ってんの。ドロドロになって一滴も出なくなるまでイキ狂うセックス、早くそのやらしいカラダで覚えてよ……工藤」
「やっ、あ、ひんっ、ふ……ぅん……っ」
ぐらつく身体を黒羽の腹に手をつくことで支えていたものの、強すぎる快感に耐えきれず、どうしても上半身が傾ぐ。突き上げられて姿勢を大きく崩した新一は、黒羽の胸板に頬を擦りつけるようにして震えた。
「……ったく……」
新一の頭を抱きしめて、黒羽が吐息した。
「こんな世界の涯まで俺を追っかけて、罪滅ぼしをしようだなんて、人が良すぎるぜ、工藤……」
苦い黒羽の囁きがガゼボに響いた瞬間、喉が、ひゅっと細く締まった気がした。
一拍置いて、髪の毛が逆立つような激情が、新一を襲った。
罪滅ぼし。
(――罪悪感は……確かにあった)
それは今もあるしきっと一生ぬぐい去れない。黒羽が喪ったものはもう取り返しがつかないからだ。この島まで流れ流れた黒羽の人生を思うとき、それはあまりにも新一にとって重かった。
そう、己の人生も差し出さねば気が済まないぐらいには、重かったのだ。だってあの輝けるマジシャンの栄光ある未来全てを、奪ったのだから。
黒羽に、逢いたかった。10年追い求めた。黒羽に救われた己の人生を、半分捧げようと思ったことに偽りはない。そこには確かに贖罪の意志があって、新一は黒羽と契約したのだ。
なのに――黒羽に、贖罪で身体を抱かせているのだと思われていることが、あまりにも衝撃だった。反射的に違う、と叫びたくなって、だが声が喉奥で掻き消えてゆく。
何が違う? 何も違わない。黒羽は正しい。贖罪の意志があったからこそ、新一は黒羽の無理な要求をも呑んだのだ。
けれど、何故こんなに今更、胸が苦しい?
「くろ、ばっ……俺、は……っ」
「あぁ……また俺に同情? まさか俺を傷つけたとでも思った? 甘いなぁ。犯罪者にそんな簡単につけ込まれちゃっていいの? ストックホルム症候群とリマ症候群。お前なら嫌と言うほど知っているはずだぜ、工藤」
「……っ!」
熱い楔をこれでもかと突き立てられながら、その言葉で突き放され、またも新一は絶句した。
ストックホルム症候群とリマ症候群――両方とも誘拐犯と被害者の間で生じる、生存戦略としての精神の変化や共感などの症状を指す。共に暮らすうちに、被害者が誘拐犯に心を寄せ、誘拐犯もまた被害者に共感し情愛の感じられる行動を示すといったことが起こりうるのだ。
時に愛情と勘違いするほどの強固な絆が生じてしまうこともあるというその用語を、だがここで引き合いに出されたことが、自分でも驚くほどにショックだった。
「そんなことで、探偵名乗って大丈夫? 工藤新一さん」
胸に抱きしめた新一の頭をいっそ優しく撫で、黒羽がぐいと腰を突き上げる。浅い位置で突っ込まれたまま止まっていた黒羽の屹立が、緩く動いてイイところを抉ってゆく。
「……ぐ、っあ……ひぁ、あ、あ、あ……っ!」
「ま、いっか。もう探偵じゃないもんな。お得意の事件もここじゃ起こらねえ。なんせ人口50人程度の島なんだから」
ぐっと新一の身体を再び突き放すようにして騎乗位の姿勢に戻すなり、腰を掴んで、黒羽がガクガクと揺さぶりをかけてきた。
「んっ、ぐ……!」
絶望の中、いきなり深い場所まで黒羽の猛りを迎え入れることになった。脳天まで貫く甘い痺れに悶絶した新一の奥を、さらに深く抉り――
「さぁ、共に踊ろうぜ、工藤……取引の時間だ」
笑い混じりに囁いた黒羽の額から、汗が滴り落ちていった。
03 クロウ 03. 乌鸦
――10年前――
「……え? 快斗が、転校?」 「......什么? 魁渡,转学学校?」
中森青子は、愕然と朝の教室で立ち尽くした。 中森青子站在早上的教室里,目瞪口呆。
教壇では女性教師がそんな青子を咎めもせずに、少し寂しげな表情で皆を見渡して頷いた。
讲台上,女教师带着略显孤独的表情看着大家,点了点头,没有责备青子。
「本当に急なことで、私も今朝連絡をうけたの……。突然なんだけど、お母様のお仕事の関係で、黒羽くんもアメリカに行くらしくて……」
“真是突然,今天早上我接到了一个电话,......突然间,由于妈的工作,黑羽君好像要去美国了......
「……嘘よ」 「......这是个谎言。
青子はざっと血の気の引いた顔で呟いた。 青子满脸血丝地喃喃自语。
「そんなの嘘。青子信じない。だって何も聞いてない!」
“那是谎言,我不相信青子。 我什么都没听说!
「……そうね、信じられない気持ちは分かるわ……私も何も聞いていなくて。でも――」
「…… 是的,我知道怀疑是什么感觉...... 我什至什么都没听到。 但是——”
困ったような顔で半端な理解を示す教師の言葉など、もう聞いていなかった。随分前に止めたはずの、親指を噛む癖がこんなところで蘇った。動揺のあまり左の親指を噛みながら、青子は小さく震えていた。
我不再听老师的话,露出半理解的神情和一脸烦恼。 我早就应该停止咬拇指的习惯,在这个地方又回来了。 青子激动地咬着左手拇指,微微颤抖。
だって嘘でしょう? ねぇ、エイプリルフールと間違えたの? 何一つ、幼馴染みの青子に言わないで行くなんて、そんなこと、する? 一昨日だってうちでハンバーグ普通に食べてたじゃない。
这是个谎言,不是吗? 嘿,你是不是把这天误认为是愚人节呢? 你怎么敢不告诉你儿时的朋友青子呢? 甚至前天,我还在家里吃汉堡牛排。
……そういえば、怪盗キッドが生中継の最中に、右目を撃ち抜かれるというショッキングな事件が起こったのは昨日のことだ。青子の父は、昨夜警察から帰ってこなかった。徹夜で仕事をし続け、多分今もキッドを懸命に追っている。けれど、未だ逮捕されていない。
......说起来,就在昨天,还发生了一起令人震惊的事件,卑鄙的小子在直播中被射穿了右眼。 青子的爸爸昨晚没有从警察那里回家。 他整夜工作,可能还在努力跟着孩子。 然而,他尚未被捕。
(……ねえ、快斗、どういうこと)
(......嘿,魁渡,你什么意思?
ざわざわと胸に広がるこの不安は何なのだろう。今まで大丈夫だと己に言い聞かせ、一度はその真偽を自ら確かめて安堵し、捨て去ったはずの不穏な可能性。それが急に吐き気と共に喉元までせり上がってきた。
这种在我胸口蔓延的焦虑是什么? 一个令人不安的可能性,我应该告诉自己直到现在都没关系,一旦我自己查清了真相,我就松了一口气并被抛弃了。 它突然因恶心而上升到我的喉咙。
思わず鞄から携帯を取りだした。教師が何か言っている。構わず教室を飛び出し、青子は屋上まで走った。その間、ずっと携帯で快斗の番号を呼び出しながら。
我不由自主地从包里掏出手机。 老师在说些什么。 青子没有气馁,跑出教室,跑到屋顶上。 一直以来,一边用他的手机拨打魁渡的号码。
繋がらない。電波の届かないところに……定型句のアナウンスだけが無機質に流れる。嘘。嘘。誰か嘘だと言って。ねえ!
它没有连接。 无线电波无法触及......只有样板公告会无机流动。 躺。 躺。 有人告诉我这是个谎言。 嘿!
こんなの、醒めない悪夢じゃないの。 这不是一场你无法从中醒来的噩梦。
だんっ、と弾けるような激しい音をたてて屋上のドアを開く。溢れる陽光があまりにも眩しくて、初めて気付いた。
屋顶的门打开了,发出一声响亮的爆裂声。 阳光如此耀眼,我第一次注意到了它。
自分が、泣いているのだということに。 我意识到我在哭。
* * *
どうするかね、と医者が尋ねた。モグリだ。寺井の人脈は広かった。
医生问你该怎么办。 是莫克利。 Terai 的人脉网络很广。
「黒羽快斗なぞ居ないと言ったんだが、お前を出せの一点張りじゃよ……『私』と話をしたほうが黒羽快斗の利益になる、と言い張って、きかん」
教えてもいない雑居ビルの非正規診療所にピンポイントで電話、しかも人がようやく意識を取り戻した頃合いを見計らっているあたり、恐ろしい。だが何より、この百戦錬磨なモグリの医者が、困った顔をしながら患者である快斗に電話を取り次ごうとしていることが驚きだった。
ここはまともな病院ではない。医者もモグリ、患者は一筋縄ではいかぬ者ばかりだ。普通はここが病院であることすら相手に悟らせず、がしゃんと電話を切るべきなのに。
这不是一家像样的医院。 医生也是个大亨,病人个个狡猾。 通常,我什至不应该让对方知道这是一家医院并挂断电话。
どうやら本人も気付かぬうちに、電話の向こうの魔女に操られているらしい。
显然,他甚至没有意识到,他正在被电话另一端的女巫操纵。
やれやれと溜息をつき、快斗は診療所備え付け電話の子機を受け取った。
重重地叹了口气,魁渡接起了诊所提供的电话。
『しくじったわね、黒羽快斗』 「你搞砸了,黑音魁渡。」
前置きもなく、小泉紅子が言い放つ。 没有序言,Beniko Koizumi 说。
「……何のことだようるせーな」 「......你在说什么?
『偉そう。せっかく貴方が意識不明である間ぐらいは守っておいてあげたのに』
“哦,我的上帝,我在你昏迷的时候留住了你。”
「……?」 「......?」
『目覚めたばかりで状況がまだ飲み込めないようだから教えて差し上げるわ、黒羽快斗。貴方、放っておけば遠からず、指名手配されてよ。いくらなんでもキッドが右目を負傷した翌日に、貴方が突然の転校となれば、中森警部と中森青子の二人だけは、騙しきれない』
「我才刚醒来并且似乎还无法接受这个情况,所以我就告诉你吧,黑羽魁渡。 不管你怎么做,如果你在基德右眼受伤的第二天突然转学,只有中森探长和中森青子是骗不了你的。
「……」 「......」
『中森さんは、翌日、転校の知らせを受けて号泣していたわ。だから私の方で勝手に少しだけ、中森青子に意識を逸らす魔術をかけておいた。これで数日間は、彼女は自宅で中森警部にあなたの急な転校のことを話題にすることはない。故に警部の中ではまだ、キッドと貴方は直接結びつかないでいるわ。白馬探は今のところ、静観を決めているようだから問題なさそうだけど』
“第二天,当中森先生收到新学校的消息时,他哭了,所以我给中森青子施了一点魔法来分散她的注意力。 现在几天,她不会在家和中森探长谈论你的突然调动。 所以,在督察的心目中,Kid 和你还没有直接的联系。 白马目前似乎正在悄悄地审视它,所以这似乎不是问题。
「……」 「......」
快斗は紅子の声を聞きながら、深い気怠さの中で溜息をついた。染みの浮いた、小汚い診療所の天井を見あげる。遺された左眼の視野を改めて確認し――目を閉じた。
魁渡听着贝尼科的声音,深深地昏昏欲睡地叹了一口气。 我抬头看了看医生办公室脏兮兮的天花板。 他又看了看左眼的视线——然后闭上了眼睛。
青子のことは、恋愛感情ではなかったが愛していた。だからこそ騙して、騙して、騙し抜かねばならなかった。幸せでいてほしい妹のような存在。キッドが黒羽快斗だという真実は、あの親子を激しく傷つけるだけだった。
我爱青子,尽管我没有浪漫的感觉。 这就是为什么我必须欺骗、欺骗、欺骗。 她就像一个想要快乐的姐姐。 Kid 是黑羽魁渡的真相只会严重伤害那对父子俩。
だがもう、偽りきれない。状況は逼迫し、限界が近かった。即座に海外に飛びたくとも、快斗の銃創は腹部にもあり、高飛びもすぐにはできない。
但我不能再撒谎了。 局势紧张,接近极限。 就算他想立刻飞到海外,魁渡的枪伤也在腹部,他无法马上跳得高。
紅子が手を回してくれなければ、確かに黒羽快斗に捜査の手が伸びていただろう。中森は情に厚い男だが、誇り高い警察官でもある。キッド=黒羽快斗という可能性が無視できないほど高まれば、苦しみながらも捜査に乗り出すだけの意志の強さがある。
如果 Beniko 没有伸出手来,调查肯定会扩展到 Kaito Kurobane。 中森是一个富有同情心的人,但他也是一名自豪的警察。 如果 Kid = Kaito Kurobane 的可能性增加到无法忽视的程度,那么就有足够的意志力在痛苦中开始调查。
『今回は、光の魔人を庇った故の失態。叙情酌量の余地ありとみなして、貴方が目覚めるまでは見返り無しで協力して差し上げたわ。でも、貴方はもう目覚めた。ここから先は取引ね、黒羽快斗』
“这一次,是个失误,因为我包庇了光之恶魔,我认为这是情有可原的情况,并提出与你合作,直到你醒来。 但你已经醒悟了。 从现在开始,这是一笔交易,黑音魁渡。
「……何?」
『貴方が望むなら、この先も力を貸して差し上げてよ。代償は必要だけど』
“如果你愿意,我会继续帮助你,哪怕是有代价的。”
「……」 「......」
『私の僕 に――』
「ならねぇよ」
『少しは迷いなさいよ!』
電話の向こうで魔女はおかんむりだ。ふん、と薄く笑って、快斗は眼を開けた。
「紅子」
『何』
「……ありがとな」
それは、感謝の言葉であると同時に、黒羽快斗の敗北宣言でもあった。今まで表立っては頑なに認めなかった快斗が、初めて紅子に対して己の正体を認め、敗北した瞬間だったのだ。
それほどまでに、全世界に報道された失態は、大きかった。
紅子は一瞬息を呑み、そして小さく鼻を鳴らした。
『……何よ、いつもそれぐらい素直なら可愛げがあるのに。まだ身体が弱っているのね黒羽快斗。声から伝わるオーラが薄くてよ。自愛なさい』
「へーへー。お優しいことで……お優しいついでに、頼むぜ」
喋るのも少し息が切れる。眩暈の中で、快斗は苦しい声を絞り出した。
魔術などという、非科学的なものを全面的に信用しているわけではなかった。いくら身体で紅子の魔術が本物だと知っていても、それに己の運命を委ねて信じ切るのは愚かだ。解っていた。
だから気休めで良い。これで己の命運が尽きるなら、その程度の人間だったのだということだ。
全ての縁に意味があるのなら、紅子という魔術師と同じ学び舎で交錯した縁 にも、きっと、意味はあったのだろう。
「あと数年……青子と中森警部の意識を、逸らし続けてくれ」
『見返りは何かしら』
「お前の僕 にはなれねぇが」
ひそりと、受話器へ囁いた。
「俺と、名探偵を繋ぐ『糸』。切っていい。それが代償 だ」
「……っ、は……! んっふ……ふふふふっ……あっはっは……!」
受話器の向こう、魔女はゆっくりと呼吸を乱し、やがて哄笑した。
在听筒的另一端,女巫慢慢地喘息着,然后大笑起来。
快斗は眼を閉じたまま、その哄笑に耐えた。 魁渡一边闭上眼睛,一边忍受着这阵笑声。
『そう来るのね。つくづく恐ろしい男。私の足元につけこむ気? 強 かにも程があってよ?』
“没错,一个可怕的人。 你要利用我的脚吗? 你很有力量,不是吗?
「……」 「......」
『そうね。確かにそれは面白い。私以外を懸想する貴方の、愚かな恋を潰せるなんてね。その上、中森親子を封じた世界で、唯一貴方の脅威となり得る光の魔人……その追跡をも阻むことになる。貴方にとって一石二鳥どころか三鳥じゃないの』
“是的,这当然很有趣。 我无法粉碎你对我以外的人的愚蠢之爱。 最重要的是,在封印中森家的世界中,唯一可能对你构成威胁的光之恶魔......这也将阻碍他们的追求。 这不是一石三鸟,更不是一石二鸟。
徐々に低くなってゆく紅子の声を聞きながら、快斗はゆっくりと、己の顔に手をやった。
听着贝尼子逐渐变低的声音,魁渡缓缓地把手放在他的脸上。
右が、包帯でがっちりと覆われている。鎮静剤が切れ始めているのか、ずきりと鈍い痛みが右目の奥に響いた。
右侧被绷带紧紧覆盖。 也许镇静剂开始失效,但一阵钝痛在他的右眼后部回荡。
左眼だけの狭い視野。これから、これが自分の世界になるのだと、漸く実感が湧いてきた。
仅在左眼视野狭窄。 我终于意识到,从现在开始,这将是我的世界。
『……私の魔法も万能ではなくてよ。けれど、やるとなれば全力であなたと光の魔人を繋ぐ糸を切らせてもらう。それでも良くって?』
『......我的魔法不是一刀切的。 不过,如果非要我的话,我会尽我所能剪断你和光之恶魔之间的线。 可以吗?
「……ああ」 「......啊
残った左眼を掌でそっと覆い、快斗は震える息をついた。
用手掌轻轻地盖住他剩下的左眼,魁渡颤抖地叹了一口气。
こうなった以上、キッドを引退後、黒羽快斗として工藤新一と出会い直すなんて子供じみた夢も、夢物語に終わった。
因此,从 Kid 退休后重新见到工藤真一饰演黑羽魁渡的幼稚梦想最终成为了白日梦。
二度と逢うことが許されないのなら――いっそ、ひと思いに。
如果我们再也不被允许再次见面——同时。
怪盗が探偵に懸想するなどという、愚かな恋の息の根を止めてくれと、祈るしかなかった。
我只能祈祷那个幽灵小偷能阻止那段让他想起侦探的愚蠢的恋情。
そう、あの頃はまだ、諦めきれると思ったのだ。 是的,那时,我还是觉得可以放弃。
* * *
フランス・エトルタ――立ち並ぶ住居の一角に、隠れ家はあった。
法国埃特勒塔 — 在其中一栋住宅中,有一个藏身处。
「くそ……っ!」 “该死的......哇!
毒づいた彼が、だんっ、と激しくテーブルを叩く音が窓の外まで響き渡る。机上のトランプが衝撃で踊り、二枚ほどが床へ落ちていった。
他敲打桌子的声音在窗外剧烈地回荡。 桌上的扑克牌震惊地跳舞,其中几张掉在了地板上。
荒れた我が子を、千影は少し離れたキッチンから見つめていた。
Chikage 正从不远处的厨房里盯着她粗暴的孩子。
手が覚えたことは、身体が忘れない。眼を閉じていても出来るのだ。だが――
你的双手学到的,你的身体不会忘记。 即使闭着眼睛也可以做到。 但是——
ほんの少しでも遠近感が必要な手技になると、途端に失敗する。利き目を失い、モノの奥行きを感じることが若干難しくなった。新たな手技の習得が困難どころか、今まで楽に出来ていた手技までもが、驚くほど出来なかった。
如果它成为一个需要哪怕是最轻微的视角感的程序,它就会立即失败。 我失去了我的主眼,感觉事情的深度变得有点困难。 不仅学习新技术很困难,而且即使是迄今为止很容易做到的程序也出乎意料地不可能。
テーブルの前に立ち尽くす快斗の左眼が、ふっ……と唐突に生気を失った。
站在桌前的魁渡的左眼鼓起了......突然间,他变得毫无生气。
黙って、快斗が家を出てゆく。
千影は止めない。溜息をついて、床に散らばったカードを拾った。
「千影さま……」
奥の廊下から顔を出したのは寺井だ。千影の人脈も相当広いのだが、寺井もまた、様々なコネクションを持っている。ここは、寺井の知り合いから借りた家だった。
「荒れておりますなぁ……」
「仕方ないわね」
千影は切れ長の瞳を眇め、小窓から白っぽく輝く通りの風景を眺めながら呟いた。
「あの子も解っているのよ。遠近感は確かに掴みづらい。それでも視界だけに頼らず、訓練を重ねればどうにかカバー出来てゆくものよ。けれど……」
「……いまの快斗坊ちゃまには、目標や目的といったものが、御座いませんね」
「ええ」
訓練し、マジックが出来たから何だというのだ。もう表舞台に立つことは叶わない。
そんな思いが、ここ数ヶ月、快斗を腐らせている。だがそれでも、たまにマジックをしては苛立って逃げるという不毛な行為を繰り返すのは、何より本人がマジックを捨て去れないからだ。
マジックという、唯一無二の輝き。かつて父が幼い子に点した光は、いつしか快斗の生きる理由にすらなった。だからこそ己の存在価値はいま大きく揺らぎ、煌めきは捨て去れぬが故に、快斗を強く苦しめる。
否、快斗を苦しめているものは、それだけではなかった。
夜中に、快斗にあてがわれた私室から、呻くような叫びが聞こえてくることがあった。眠りながら激しく悪夢に魘されているらしい息子が、いつも引き絞るような声で呼ぶ名は、一つだけだ。
――工藤……工藤……っ
怪盗と探偵の間にあった得難い絆もまた、快斗の苦悩を深くしているようだった。
* * *
このフランスの美しい田舎町には、最近、変わった男が居着いている。
右目は無いらしく、黒い眼帯で右目付近を大きく覆っていた。銀のモチーフが縫い付けられた、とても上品で工芸品のような眼帯からは、細い鎖が垂れている。先端に、スペードのモチーフが揺れていて、子供心にお洒落だなぁと思った。
顔立ちも素敵だ。なのに。
(なかみ、からっぽ)
彼からは、『歌』が、聞こえない。
少女は今日も、その青年に会いにいった。彼の名はクロウというのだ。けれど一度だけ、彼の母親だという女性が、彼のことをカイトと呼んだところを見てしまったから、彼はカイトなのだろう。
ねえなんで違う名前を名乗ってるのかな、なんで鴉なのよ、と少女はある日、己の母に尋ねた。
母は緩く笑っていった。その人に優しくありたいなら、彼が名乗った名を呼んであげなさい。
鴉でありたいなんて、少女にはとんと解らない感情だったが、クロウは時々ひどく寂しい眼で海を見ていたから、本当の名を問いただすことは止めてしまった。
クロウは午後、決まって海岸に出る。
波に洗われ綺麗に角の取れた石が、波と共に歌うような美しい音を立てる。シャラ……と穏やかに響くその石の音は救いなのだと、以前クロウは言った。流暢なフランス語だった。
「救い? 好きではないの?」
問えば、クロウはやはりさみしい眼をして、何も言わなかった。
きっと、クロウはここに来たくてきたわけじゃ無いのだろうと、なんとなく少女は思った。観光客はみな、ここに来たくて来るけれど、クロウはきっと、そうじゃない。
「クロウ」
呼びかければ、今日も海岸の岩の上に座り込んでいたクロウは、海を見たまま、ひらりと片手を上げた。
少女もまたお尻が汚れることも頓着せず、クロウの傍らにぽんと座った。尻の下で丸い石たちが、かしゃりと可愛い音を立てた。
空の青と海の蒼が溶け合い霞む美しい水平線を、いつも数時間ただ黙って見ているクロウ。その横に座っても、いままで少女には何も『聞こえて』こなかった。
石の歌、人の心の歌、貝殻の歌、やわらかな潮風の歌、その潮風に揺れる花の歌。
世界には歌がこんなに満ちているのに、いつもはクロウの傍らに座っても、彼からは何も響いてこないのだ。
クロウの中身は、空っぽだった。ただただ海を見て、自らをからっぽにしているんだよ、と以前クロウは言ったのに。
(あれ、今日は、からっぽじゃない)
今日は、クロウの中に、歌があった。
(嗚呼、どうしたの、クロウ)
それは、ひどくかなしい歌だった。真っ白に天空で輝く、孤独な月の歌だった。
空がゆったりと茜色に染まる中、彼はいつものように、海岸に打ち寄せられ丸くなった石を、指の合間を滑るように転がしていた。まるでマジシャンのように。
「なぁ、マリィ」
潮風が吹いて――クロウが、少女に告げた。
「俺、いくよ」
「そう」
何処へとは聞かず、マリィは頷き、クロウの横顔を見上げた。
夕刻だった。クロウの柔らかな黒髪の向こうへと、陽が落ちてゆこうとしていた。
クロウが夕陽の灯る長い睫を、物憂げに伏せる。その間も流れるように、彼の長い指の合間を、石が行き来した。
小指から親指へ。親指から小指へ。絶え間なく、行き場を失った流浪の石は彼の指先を泳いだ。
「逢えなくなった人が、いるんだ」
一度も己のことを語らなかったクロウが、そう切り出したとき、マリィには解った。
本当に、クロウは行ってしまうつもりなのだ、と。
「逢えないように、俺は念を入れてあいつと俺の絆を断ち切っちゃった」
「どうして。逢いたいんでしょ」
「逢いたくても、逢っちゃいけない」
きっと難しいことなのだろう。けれどマリィは知っていた。おとなという生き物は、本当は難しくないことを、ひどく難しく考える癖があるのだと。
クロウも、そうなのかも、とマリィは思う。
「俺の目。……見えなくなったのは自分のせいだ、ってあいつは思ってる。きっと今も、責めなくてもいいことで自分を強く責めてる。それだけじゃない。俺が死んだかもしれないと、あいつはきっと、心配してる」
「……クロウ」
少女はきゅっと顔をしかめた。
「なんで、それを楽しそうに話すの」
「……そうなんだよ。マリィ……愉しいんだよ」
彼の顔に貼り付いた微笑みは、一層、影を帯びて濃くなった。
「気付いたんだ。俺があいつのことばかり考えているように、あいつもきっと、俺を忘れないってことに。俺の生死が解らないなら尚更だ。一生あいつは俺に縛られ続ける。それに気付いたらさ、堪らなく興奮したんだ……酷いだろ?」
そう言ってクロウは笑った。口元は確かに笑っているのに、何故だろう。
クロウから溢れ出す歌は、今、水のいろをしていた。多分、舐めたら海のように少ししょっぱいのだろう。薄青の、水のいろだった。
「だからさ、未だに俺は、俺が生きていることを、あいつに知らせてねぇんだ。一生、知らせない。我ながら外道だよね……」
「まぁ。クロウ、あなた、おばかさんね」
少女は優しく言ってやった。傷ついたひとには、優しくするものだからだ。それに、苦しい笑顔なんて無理して貼り付けなくてもいいのだと、教えてあげなければいけない。
だって透けて見えてしまう。
その裡 に秘めた、ひとりぼっちの、水のいろが。
おとなというのは、つくづく面倒くさい生き物だった。
「その人のこと、好きなら好きといえばいいのに。今日でサヨナラするわたしに内緒事なんかしても、意味ないでしょう?」
「……」
クロウはちらりと少女をみやり、そして再び、睫を伏せた。
「どうかなぁ。もう、よくわかんねぇな……二度と会えなくなった相手を、俺という存在に縛り付けて、一生追い掛けてもらおうだなんて、強欲の極み、としか」
くっと喉奥でつっかえる、自分を呪うような笑い方を、クロウはした。
クロウから流れる歌は、いろを変えた。苦い河の歌が、流れてくる。
全ての命を容赦なく呑む濁流のような、激しさゆえに、かなしい調べだった。
「でもふたりとも生きてるでしょ」
少女は言った。
「わたしのパパは死んじゃったから、どうにもならないけれど、ふたりは生きてる。生きてれば、また逢えるんじゃないの。どうにか、なるんじゃないの」
「……だめだよ。本当にどうにかなったら、きっとそいつを泣かせてしまうよ、マリィ……」
俺は、優しくねぇからさ。
そんな言葉と共に、大きな手が伸びてきた。ゆっくりとしたリズムで、頭を撫でてくれるその手をマリィはやっぱり、とても大好きで、そしてかなしいと思った。
こんな撫で方が出来るひとが、優しくないはずがないのに。
「永遠に手に入らないと思ったらさ、堪らなく欲しくなった。そいつの未来をねじ曲げて、泣かせてでも、奪いたくなっちゃったんだよ。獰猛な獣みてぇに……だからさ」
寂しい笑いをすっと消し去ったクロウが、岩の上に左足だけ折り曲げるようにして、己の左腕で抱きしめる。まるで抱きしめるものがそれしかなくて、縋りつくかのような姿だった。
「だからさ、俺が消えるよ、マリィ。俺自身が、あいつに悪さをしないように」
ああ、またクロウから流れる歌が、色を変えた。
今度は無色透明の、ただただかなしい、歌だった。
ほろん、ほろん。
ひとりぼっちでこの世に生まれてくる、水晶の、歌だった。
「……どうやって?」
「安心しな。死んだりしねぇよ。それがあいつとの約束で……俺の生きる理由だ」
マリィの前で、クロウはひらりと右手を翻す。そして流れるように人差し指から順にひらかれた掌の上には、今まで確かにあったはずの小石が、無かった。
「あ!」
更にクロウが、また手を翻す。同じように綺麗に開かれた掌の上には、輝く小石があった。
「すごい! クロウ! あなた凄いじゃない!」
「でも、外道だからね。悪さする外道は、こうするのが一番だ」
クロウは、その小石に親指を軽く曲げて添えた。一瞬にしてその親指がバネとなる。
軽い音を立てて頭上に跳ね上がった小石は、放物線を描いて少し離れた浜へと落ち、あっという間に他の石に紛れて見えなくなった。
風変わりな日本人の青年が、エトルタから忽然と失せたのは、その数日後のことだ。
(ねえ、クロウ、知ってる?)
それは潮風の強い日だった。
空き家となってしまったその貸家の前に佇み、マリィは強い風から帽子を守るように押さえ込みながら、空を見上げた。
(たとえ無数の小石に紛れたって、輝く石は、そこに確かにあるのよ)
そう、命ある限り。
* * *
鬼神のごとくリハビリと訓練に明け暮れ、半年。
さらに2年、黒羽快斗は名を伏せたまま、ヨーロッパ諸国、加えてアメリカも訪問して回った。各地で己のマジックをマジシャン相手に売ったのだ。
やがてマジックの裏社会で密やかに、その名は広がる。
隻眼のファントム。
片目のみの視野で、驚くべき鮮やかなマジックを繰り広げるくせに、決して表舞台に立たない上に本名も明かさない。得体の知れぬその青年を、いつしかマジシャンたちは畏怖と尊敬を込めて、そう呼んだ。
ファントムは、そうやって2年の間、存分にマジックの裏社会で己の存在感を散りばめた。
そう、夜空に燦めく三等星のようにだ。
決して主張しすぎない。都会の明るい夜空ではうっすら消えてしまうほどの光。知る人だけが追いかけることの出来る煌めきで、ファントムは表舞台の一等星に、己が光を譲り続けた。
「――さて、いい頃合いだ」
薄く微笑んだ快斗は、遂に腰を上げた。
「お供致します」
千影はいったん快斗から離れたが、寺井はどこまでも快斗について行くことを選んだ。もとより命の残量などたかが知れた身。盗一の一人息子を命果てるまで見守ると決めていた。
寺井は、快斗と共に海を渡った。孤島に買った古城が、これからの二人の拠点だった。
彼からマジックを購入したいマジシャンたちは、これから先、みな尋常ではない苦労を強いられることとなった。総資産額の提示、および最低でも一ヶ月ほどの長旅に出るだけのスケジュール調整を義務づけられ、それをクリアした者にのみ、ファントムと逢う権利が得られる。
世界の涯と称される、絶海の孤島への渡航。それが、彼に会うために必要な手段だった。
その上、ファントムマジックの譲渡料は、間違いなく業界における最高額だった。隻眼のファントムが産み出すマジックは、この2年ですっかり高級ブランドと化したのだ。快斗の、恐るべき自己プロデュース能力は眼を見張るものがあった。
あり得ないほどの条件と困難を越えてでも、顧客は世界各地からやってきた。
素晴らしいファントムのマジックを、自分のオリジナルとして客に披露し、己のキャリアとする。それが出来るなら金に糸目はつけないというマジシャンは、後を絶たなかった。
初めての客は、そもそも資産家のマジシャンだった。お坊ちゃんだ。故に金だけは唸るほど持っているが、腕はそれほどでもなかった。
控え室の小窓からその様をひっそりと見守る寺井には、ある一抹の不安があった。
今まで快斗は、己の技術を伝授するに相応しい技量の持ち主に対してのみ、マジックを売っていた。
だが、これからはそうもいかない。申し込んでくるマジシャンの技量は、経歴と本人がアップした動画などである程度は推測できるが、決してそれらは、確かな力量を証明するものではない。
それでも――人生を賭けた小切手を握りしめて訪れる貴重な顧客に、快斗は、必ず何らかのマジックは売らねばならないのだ。
島まで行ったはいいが、手ぶらで帰らされた……そんな噂が一つでも立てば、こんな世界の涯まで高額な渡航費用をかけて訪れるマジシャンは居なくなる。
この島を本拠地とした以上、快斗もまた、客をえり好みは出来ない立場になった。
「まずは、貴方のマジックの腕前を拝見したい」
広い客間を改造し、石を一段高く積んだ舞台。そこへ客を誘い、快斗が告げた。
客のマジシャンは頷き、己の十八番を見せていった。しかし、盗一や快斗の鮮やかな腕前をつぶさに見てきた寺井には、解った。
(あまりにも、稚拙……)
嫌な予感がしていた。
快斗は、客席にみたてた一脚のみの椅子に座り、腕組みしてそれをずっと見つめ続けていた。その表情が、見る間に曇ってゆく。隻眼は、険しく光った。
やがてその客に対して快斗が譲渡するマジックを見せる時がきた。その光景を影からみつめ、寺井は、やがて青ざめていった。
(ああ……やはり、そうなりますか……)
快斗はこの客のために用意していたはずのマジックを、その場で随分簡略化して譲渡作業に移っていた。快斗の技術があってこそ活きる手技も、技量の足りぬマジシャンには、教え込んだところで同じことは出来ないのだ。ある程度想定はしていたことだが、それでも考えていたより遥かにこのマジシャンは未熟だった。
簡素化しても、快斗のマジックは十分に美しい。あのマジシャンが一生かかっても自分では作り出せぬほどに高度で、煌びやかなマジックだ。
けれど――快斗があらかじめ用意していた本物のマジックは、その比ではなかった。
あれほど美しい煌めきをもったマジックは、しかし他でもない快斗自身の手によってダウングレードされていったのだ。
譲渡作業そのものは順調に進み、レクチャーも含めて6時間程度で終わった。高額小切手での支払いを終え、麓のホテルまで帰る客を大門まで見送りに出る頃には、西の空がまだ明るく青空も見えているにもかかわらず、南東の空が真っ暗に染まっていた。雨雲だ。
貿易風 が連れてきた黒雲が、空に重苦しく垂れていて、寺井は改めて圧倒された。
空が広く見渡せるこの地に来て初めて知ったことだが、島では天気が『見える』のだ。
迫ってくるスコールがどの辺りで発生し、どこを通ってどれぐらいで過ぎ去るのか、目で見える。
「お気をつけて。傘は役に立ちませんので、これを」
レインコートを差し出すと、客は大急ぎでそれを着て握手を交わし、満足した顔で帰っていった。
しかしそれを見送る快斗は、曇天の下、いよいよ顔色が悪く見えた。
「大丈夫ですか、快斗様」
声をかけた瞬間だった。
快斗が突然口元を押さえた。その眉根が急速に歪む。ウッと呻き、快斗は背を痙攣させつつ、石畳の上に激しく嘔吐した。
「快斗様!」
為す術もなく、寺井はただひたすらに、吐き続ける快斗の背を掌でさすり続けた。
はぁ、はぁと荒い息を零す快斗が、吐くものを吐ききったのか、ゆっくりと身を起こす。どこか、痛々しい背だった。
「ごめん、寺井ちゃん……大丈夫だ」
ぼそりと告げた快斗の声が、だが震えていた。
「……快斗様。本当に、よろしいのですか……?」
思わず、寺井の口から苦言が漏れた。
表舞台には立たぬ、その代わりに裏でマジックを売る。
そう己の道を定めた快斗は、一時的に生気を取り戻し、驚くほど精力的にもなった。見る間にマジックの腕は向上し、以前の快斗を超えるほどになったと、寺井は思う。
けれど、同時に感じてもいたのだ。
その胸に巣喰いはじめた『癌』といっても過言ではない、快斗の『歪み』と苦悩。
「快斗様。己のマジックとは、魂そのものでございます。誤解を恐れず申し上げますが、魂であるマジックを他人に金で売り続ける暮らしは、マジシャンにとって、身体を売る行為と等しくエネルギーを費やすものであると……わたくしは考えております」
「……」
快斗は片手で汚れた口を押さえたまま、黙って寺井のいうことを聞いていた。
雨を連れてくるのであろう鉛色の空の下、強い風が、轟と吹いた。
「ご自分が考えられたマジックは、全て己が子供のようなもの。美しい装いで送りだそうとした我が子を、最終的に既製品の服を着せて送り出すような行為は、いくら高額の報酬を頂いたとしても……長い時間をかけて、快斗様をひどく蝕んでゆくのではありませんか」
それは、己を切り売りする行為だ。
マジックをただひたすら売り渡し、称賛も喝采も全てその譲渡先のマジシャンのものとなるこの暮らしが、快斗にとって幸せであるとは、寺井にはどうしても思えなかったのだ。
これほど苦しく、彼の精神を苛む仕事が他にあるだろうか……? どれほどの報酬を得たところで、これはあまりにも茨の道だった。
さしずめ、己の顔の醜さを仮面で隠し、オペラ座の地下水道の主となり曲を書き続けた怪人か。
いや、と寺井は考え直した。
オペラ座の怪人は確かに日陰の身ではあった。だが、少なくとも彼は、一人のヒロインの為にこそ曲を書き、歌わせようとしたのだ。その才覚に惚れ込んだ、たったひとりの女性に。
(怪人ですら、己の魂である音楽を託す相手は選んだのに……快斗様、貴方は本当に)
これで良かったのか。
どの大陸からも遠すぎる絶海の孤島に居を構えたばかりに、快斗は、客を選ぶ権利を失った。
聡明な快斗がこの苦しみを想像できていなかったはずがない、と寺井は思う。自由に客を選んで世界各地を渡り歩いてはマジックを売りさばいていた頃でさえ、たまに快斗が苦しそうにしていることはあった。
ましてや以前の快斗は、魚が大の苦手だった。海で泳ぐことはかろうじて出来るが、魚は本当に苦手で、見るのも駄目なら食べるのも駄目という偏食っぷりだったのだ。
なのに快斗は、この孤島に己を閉じ込める道を選んだ。
リハビリ中から2年をかけて、快斗は魚に自分を慣らしていった。生きた魚に自分から触れるのは今も無理だが、魚のいる海で泳ぐことも、魚介を調理し食べる一連の流れも克服した。魚を捌くことは苦手だが、何故か生きている魚に触れるよりはマシらしく、なんとか吐かずに捌き、骨や血、内臓の後片付けも出来るようになった。
全ては、この孤島移住を現実のものにするための、努力だった。裏を返せば、尋常ではない努力と苦痛の上に、ようやく実現したのがこの暮らしだ。
この島での暮らしは、快斗に向いているとは到底言えない、と寺井は思うのだ。
「……いいんだ」
しかし快斗は袖で乱暴に口元を拭い、皮肉げな笑みを浮かべた。
まるで、己を嘲笑うかのように。
「これで、いい。俺は止(や)めないよ、寺井ちゃん」
「……快斗様……」
「これでいい。この数年でよく解った。俺みたいに狂ったヤツは、こうでもしなきゃ…………を守れねぇ……。あいつは、幸せに…る…きだ……」
語尾は――突然降り出したスコールに、どっと掻き消された。掠れたその声は年老いた寺井の耳には聞こえなかった。多分、聞かせるつもりもなかったろう。
けれど――
(快斗様、お忘れで?)
盗一の付き人だった寺井だ。必要なことは、寺井とて身につけていた。
そう、人の唇を読む術すらも。
快斗の中に、苛烈な想いが潜んでいることは、側にいる寺井には解っていた。それは確かに触れたものを焼き尽くすほどの業火なのだろう。内に秘める恐ろしいほどの激しさは、IQ400の天才が人知れず持つ、歪な一面だった。
それでも――そんな想いを相手にぶつけて不幸にするより、自分を最果ての地に閉じ込めることを選んだ快斗は、果たして、本人が言う通り狂っているのだろうか。
――それは、ほんとうに、狂気なのだろうか。
轟、と嵐のごとく風が吹いた。空が、大地が、スコールの中唸りを上げる。膿んだ空気を押し流す強靱な風が叩きつけてくる雨は、肌が痛むほどだというのに。
快斗が、ゆっくりと、汚れた顔を天に向けた。
彼の口元にこびりついた汚物が、肌を叩く豪雨にあっという間に流されてゆく。目を開けていられぬ激しさで叩きつける雨を、だが快斗はむしろ心地よく感じているのか――その口元に、ふと笑みが灯った。
「よし……! 一度やってみたかったんだよな!」
唐突に彼が指をパンと鳴らす。途端にどこに隠し持っていたのやら、小さな石鹸がその手に現れた。途端に快斗は一気にブラウスシャツを脱ぎ捨て、上半身裸になった。
「快斗様!?」
「寺井ちゃんもやれよ! どうせずぶ濡れだ! コールドシャワー代わりだぜ!」
誰も見てねえしな! とまるで子供のように笑って、快斗は身体に石鹸を押しつけて擦り始めた。泡は生まれた瞬間に雨に流されてゆくけれど、それすら気にならないようだ。
快斗は石鹸で手早く顔を洗い、喉を洗い、上半身をこすりながら喉をぐいと大きく反らした。
「やっべ! 口の中にも水入って開けてらんねぇ!」
ずぶ濡れのまま、雨粒と遊ぶように笑い続ける青年の横合いから――やがて、一条の光が射してゆくのを寺井は見た。
(嗚呼……)
強い風に、雨雲は急速に押し流されていった。
島の上空を横切った雲が、去り際にもたらした陽光。それがまるで快斗に幾本もの手を差し伸べたかのようだった。突然何本もの光の梯子が天から降りてくる。濡れた大地はステージのように燦めいて、上半身裸のまま腕を広げて立ち尽くす青年を照らし抜いた。
ぶるぶるっ、と快斗が頭を振る。小降りになった雨の中、黒髪がはね飛ばす水にその瞬間、小さな虹が宿った。
彼をとりまく細かな煌めきは胸が詰まるほど美しく、数時間の間に身体に積もった鬱屈を一気に流し終えたような快斗の表情は、全てから解き放たれたように清々しかった。
今でも、寺井はその光景を忘れない。
そのとき寺井は真に理解した。主 は、逃れるように最果ての地へ辿り付いたのではなかった。
選んで、ここに来たのだ。
ここには不便があった。
苦しみがあった。
けれどそれが何だろう。生きている限り、何処に行こうとも苦しみはきっと在る。
やがて島の上空はからりと晴れ、北天から降り注ぐ灼熱の太陽が、いっそう緑を濃く鮮やかに燦めかせた。鳥の歌声が蘇ると共に、力強い土の香りと濃厚な花々の香りが世界を満たし、生命を高らかに謳 った。
そうして――いつしか、人は彼をこう呼ぶようになった。
絶海のPhantom 、と。
* * *
その知らせがあったのは、2年前だった。
衛星電話用の屋外アンテナを複数設置し、構築したネット環境での受注も手慣れた頃、寺井はある人物からの電話を受けた。
『黒羽快斗に繋いで頂戴。紅の魔女からだと伝えて』
女性からの電話の内容が何だったかまでは、寺井は知らない。ただ、快斗に異変が起こったのはその辺りからだった。
急に、快斗が尖塔の下にある書庫を改造し始めた。次々と世界各国から資材を取り寄せ、ベッドを組み、新たな書棚をいくつも設置し、様々な本を揃え始めたのだ。
さらに、家電、窓、エアコン。
あっという間に書庫は人ひとりが住めるほどの『書斎』となった。
それだけではない。
(……なんだ、これは)
ある日、書庫だった部屋に入った寺井は戦慄した。
いつの間にこうなってしまったのか。窓には格子ががっちりと嵌められていた。書斎の片隅にはなんとベッドまで誂 えてある。ベッドの奥の壁には鉄製の太いリングが設置され、何かを繋ぎ止められるようになっていた。さらにベッドサイドチェストの上には、黒光りする輪のようなものと、金属の塊と、さらに鎖が蜷局 をまいて置いてあった。
見てはならないモノのような気がした。しかし確かめぬわけにはいかなかった。己が主に何が起こっているのかを確かめるべく、恐る恐る歩み寄り……ついに寺井は見たのだ。
じわりと、肌が総毛立った。
――それは、首枷、そして足枷に相違なかった。
「……見ちゃった?」
「!」
その声に弾かれたように振り向けば、書斎の木製ドアに寄りかかるようにして、いつのまにか快斗がこちらを見つめていた。その蒼紫の瞳にはあくまで穏やかな光が浮かんでいて、そのことが余計に恐ろしかった。
「……快斗様……」
不覚にも、声が震えた。
寺井には解ってしまった。もうそれは直感であり確信だった。この設備が、そしてこの首枷と足枷が、誰を待ち焦がれ、誰の為に用意されたものなのか。
痛いほど、確信できてしまった。
「快斗様……おやめください。このようなことをしていては……病んでしまいます」
やっとの思いで告げたものの、快斗は穏やかな笑みを消さなかった。
「何言ってんの。前から言ってるだろ。俺は、以前から狂ってたし、病んでるぜ?」
「……」
寺井は絶句し、しばし立ち尽くした。
快斗は何も言わない。気の遠くなるような沈黙が流れ――やがて寺井は、声を喉から絞り出した。
「待っているのは、工藤様ですね」
「……」
とてもゆっくりと、快斗が瞬いた。その長い睫が、窓からの光を反射して、緩やかに燦めく。
何も答えが返らないことが、何よりも答えだった。
「そ……そんな強引な手段に出られずとも、もしも工藤様がここに来られた時は、しばらくの間この城に客として居て頂き、その間にですね、……その、きちんと……」
「なぁ、寺井ちゃん」
いっそ優しい目で、快斗が笑った。
「愛してるから一生側にいてくれなんて台詞は、断られる覚悟のある健全なヤツだけが口にすることを許される台詞だ」
「……快斗様……」
「俺は自分の狂気にそんな小綺麗な名前をつけるつもりはねぇよ。こんなのは、昔も今も、ただのクソみたいなエゴで、狂気でしかねぇんだ」
「しかし!」
「もしも――」
歌うように、夢見るように、焦がれるように。
快斗がその先の言葉を紡いで聞かせてくれたその時、寺井には解ったのだ。
老いた自分が、青年の滾る狂気を完全に押しとどめることなど、到底叶わないのだ、と。
* * *
「さぁ、共に踊ろうぜ、工藤……取引の時間だ」
奥を深く抉りながら、腰の上で新一を踊らせ、黒羽が告げる。その逞しい熱塊で腹の中を大きく掻き回されながら、新一は愕然と瞠目した。
罪悪感や、贖罪。それが始まりだったのは紛れもない事実だった。
なのに焼け付くような衝撃の果てにこみ上げてきたのは、一抹の怒りだった。黒羽に対してではない。自分自身への怒りだった。
償いたいという気持ちは無論あった。償えるならなんだってしたいとも思っていた。
けれど、ただの同情で誰にでも股を開けるほど自分はお人好しなのか? そんなわけがない。
(くろば、だから)
この10年、蘭と別れる前から微かに自分に感じていた違和感はあった。あまり性欲が強い方ではないのだと自分に言い訳しながらも、女性に、というより他人に、強いベクトルを向けることのできない自分に、何処かで気付いていたのだ。
こんなにも、決して途切れることのない執着で追い求めた人物は、たったひとり。
(くろば、だけ、だ……)
あっぁ、と箍 が外れたように甘ったるい声が己の唇からこぼれ落ちてゆく。飲み下せない涎まで黒羽の胸に垂らして、新一は苦しさに喘いだ。
(今頃……っ、いまごろ、気付いて……っ、どうする……)
恐らくはもうボタンを掛け違えてしまった。それも相当、酷くだ。
「ほら、惚けてる暇はないぜ? 電話。させてやるよ……工藤」
黒羽が新一を腰の上に跨がらせたまま、悠然と右手を振る。いつどうやって仕込んでいたのか、彼の手には元からあったかのように、黒のスマートフォンが握られていた。みれば携帯の下側からケーブルが温室の壁へと伸びている。
(衛星のケーブルかよ……!)
こんな遮るものだらけの温室とガゼボの中であっても、温室の最も高い場所に衛星電話用の屋外アンテナを設置して有線で繋げば、確かに会話は可能だ。
「な……っ!」
ざぁっと毛が一斉に逆立ち、新一は絶句した。
確かに連絡をさせてほしいとは願った。けれどそれは今じゃない。てっきりセックスが終わった後で連絡させてくれるとばかり思っていたのに。
「言ったろ。『名探偵が考えそうにねぇこと』って。まともなセックスもまともな連絡方法もここにはねぇよ。今、俺に貫かれてる間だけ、連絡可能だ」
にっと口角を三日月のごとく引き上げ、黒羽が不穏に笑む。ぞくりとするような影が、その蒼紫に潜んでいた。
「おま……え……っ、あ、っぁ…んんんっ……!」
腰を軽く突き上げられただけでも、脳髄まで一気に蕩けるような快感が走る。こんな状態で誰に何を知らせろというのだ。無理に決まっている。媚薬で惚けた頭はロクに回らない。
「あぁ、電話もロクにかけられない? 大丈夫、俺がかけときましたよ? なに、遠慮することはありませんよ名探偵。日本は今頃、丁度ランチタイムですからね」
黒羽が、凶悪な笑みを一層濃くして慇懃に囁いた。
(な……っ!)
新一は顔を引き攣らせ、震えた。
こちらに向けられたスマートフォンの画面。そこにはまさかの呼び出し名が表示されていたのだ。
――毛利 蘭。
『もしもし? どなたですか?』
おそらく非通知で掛けたのだろう。少し警戒気味の声が聞こえる。
すると黒羽がスマートフォンをもう一度己の耳に引き寄せ、口を開いた。
「よう、蘭。わりぃな、急に」
(……!)
その唇から飛び出したのが紛れもなく『工藤新一』の声であることに、ぎょっとする。
抗議をする暇もなかった。黒羽の虹色の声帯をそういえば忘れていた――こいつに掛かれば、工藤新一の声を騙ることなど訳もなかったのだ。
『あ! 新一?! 新一なの? ちょっと何処からかけてるのよ! 知らない番号だし。海外からなの? なんか旅行にいったって聞いたけど、メッセージ送っても返事もないし心配してたんだよ!携帯かえちゃったの?』
想像以上にタイムラグのない返答がくる。イリジウム衛星電話の最新機種だ。音声もかなりクリアで安定していることに、逆にぞっとした。さすが屋外アンテナだ。
これでは、こちらのちょっとした吐息ですら海の向こうに届きかねない……!
(どう、する)
こめかみを、冷たい汗が流れ落ちた。
蘭とはいったん恋人関係を解消したものの、その後は友人として未だに親しく連絡を取り合う仲だ。だが、まさか自分が男に貫かれたまま会話をすることになるなど、想像したこともなかった。
『新一? あれ? やっぱり電波遠いのかな? 今どこなの?』
怪訝そうな蘭の声が流れる携帯を、黒羽が意地悪な笑みとともに渡してくる。震える手でそれを受け取り、左手をとっさに快斗の腹に置いて、揺れる身体を懸命に支えた。
「蘭……その……っ」
『うん? どうしたの新一?』
屈託のない蘭の声が右耳から響く。だがその一方で、新一の下半身は深々と黒羽の楔を受け入れ、限界までみっしりと満たされていた。
ぐしゃぐしゃの頭が混乱を極めた。何を、何を言えばいい?
――と、黒羽の両手が新一の腰を強く掴んで、上下に揺さぶった。
「あ……っ」
かはっ、と濡れた吐息が押し出され、声を乱す。
『? 新一? どうしたの?』
「あ……うん、わ、りぃ……ここ、電波が届くとこ、少なくて、さ」
腹の奥深くを、黒羽の怒張が貪欲に抉り、先刻吐き出された白濁を掻き回す。深い位置で黒羽のモノが居座ったまま、ほんの少し上下しては奥を刺激するから、堪らない。がくがくと身体が震えて、喋るなんて本当に無理だった。蕩ける快感が絶え間なく腰骨をじん……と甘く痺れさせて、ともすれば黒羽に倒れかかりそうになるのを堪えるだけで、精一杯だ。
「この先、ちょっと、みんなにも、連ら……っ、ぁ……ンっ、連絡入れにくく、なる、からっ……伝えとき、たくて……」
『え? そうなの? というかやっぱり声遠いのかな、途切れちゃうね……普通海外でもこんな聞こえにくくならないのに……ねぇ何処にいるの? 体調悪くしてない?』
蘭の声に、心配が滲む。新一は懸命に呼吸を整えた。こちらの乱れた声を、回線の具合で聞こえにくい為だと思ってくれているなら幸いだ。
このまま騙しきって、早く電話を切ってしまいたくて仕方が無かった。もう一刻の猶予もない。
そんな新一の思惑を見透かすように、黒羽が、力強く腰を押し上げる。
(やっ……っ!)
甘く充血した新一のナカを、ずるり……黒羽の硬いモノが擦りながら抜けてゆく。悪寒一歩手前の強烈な快感が新一を襲い、思わずぐらりと身体が揺れた。
俯いたまま震える手で携帯を耳に押し当てる新一の唇から、また、だらしなく透明な雫がトロリと滴りおちて、黒羽の腹部を濡らした。
「心配す――」
屹立が抜け落ちる直前まで引き上げられたカラダを、黒羽がそのタイミングでぐいと引き下げた。
ばちゅん、と厭らしい水音をたてて肉棒が雄膣に沈む。
強引に引きずり込まれる、法悦 の奈落。
「んっ~~~~~~~~~~っ!」
びくんと身体が反りかえり、新一は全身を痙攣させた。唇を懸命に閉ざした分、鼻からフーッと獣のように荒く震える息を抜くしかない。
声を殺した分、脊髄を駆け抜けた快感は逃げ場を失って、脳を焦がした。生理的な涙が、まるで黒羽のモノに押し出されたかのように一気に湧いて、眼球が水に溺れた。
『新一……? ねえ、新一? どうしたの? なんか変だよ?』
蘭の声に、僅かな危機感が滲んだ。
「心配、ねぇって……ちょい、今、力仕事してるだけ……っ」
もう言い訳が苦しかろうが何だろうか、どうでもよかった。とにかく誤魔化して早くこの会話を終わらせなければ危ない。
せき止められた快感が腹の奥で蜷局 を巻いている。もう、次の大きな一撃が襲ってくれば、この獰猛すぎる快感を抑えておけない……!
『力仕事……? ねえちょっと! まさか何か事件にでも巻き込まれたんじゃないでしょうね!?』
「それはちが……っ、ぁ!」
また黒羽に身体をゆるく揺さぶられ、腰骨のあたりから甘い快感が熱を帯びて広がる。
(や、ばい……)
この興奮は、どこか根の深い、そしてひどく薄ら昏い興奮でもあった。黒羽の楔は先刻より明らかに怒張して、新一のナカで大きく限界まで張り詰めている。
そして、認めたくはなかったが――自分も。
痛いほど張り詰めた前が、解き放たれる時を焦がれて、甘い雫をはしたなくトロトロと漏らし続けていた。こんなにも悪趣味な悦楽を仕掛けた黒羽を詰 りたいのに、新一の中にある雄が何処かで理解してしまっているのだ――突き抜けた羞恥が行き着く先にある、更なる興奮。
ダメだ。
(聞かれてる、のに……っ)
キモチイイ、キモチイイ、このままどうにでもなればいい、ぐちゅぐちゅ揺さぶって激しく突き上げて欲しい、もっともっと黒羽の熱が欲しい、カラダの奥、奥で呑みたい、あついの、たくさん。
欲が皮膚を突き破って、喉から迸ってしまいそうだ。ぐずぐずに蕩けた奥が聞き分けなく震えている。もっと、もっと、もっと。
『ねえ、新一!?』
「……っ、ごめ……っ、蘭……でも、心配、ねぇ――」
そんな新一の心の声がまるで届いたかのようなタイミングで深く腰を掴まれ、下方へ向けてぐっと押し下げられる。黒羽の楔が、限界まで新一の奥を穿った。
「からぁッ……ぁっあ……ぐ……」
『新一、ねえ、どうしたの……!?』
「じゃぁな、とにかく、心配すんな……っ」
最後の力を振り絞り、震える左手をあげて通話終了ボタンをタップした瞬間――それはきた。
「……っ!」
僅かに歯を剥いた獰猛な表情で、黒羽が動いた。新一の腰を掴んで激しく揺さぶり始めたのだ。
最初の一撃だけでもう十分だった。大きな、波がくる。ぞっとするほどの波だった。
「あっああぁぁぁんっ、ふ……っ、ぁ! あぁぁぁ……ひ、ぁぁぁぁぁンッぁ……」
背が撓(しな)る。一気に絶頂の彼方へ放り投げられた。
とろとろと声が甘く漏れて、とまらない。耐えた分、快感は理性を焼き尽くしてしまった。脳髄の奥までもが爛れて、身体を支配する痺れが甘苦しいほどだ。腰の奥からじんじんと広がる快感の波は、なぜか一向に収まる気配がなく、腹が勝手にひくりと痙攣した。
たまらず黒羽に上体を投げ出した新一を両腕で抱き留め、黒羽が低く笑った。
「心配ない? んなわけないよなぁ。愛しの蘭ちゃんに逆に心配させちゃったな? まるで怪我して苦しんでるか、セックスで喘いでるみたいな声だったもんなぁ? やぁらし……」
「や、め……っ」
「あぁ、ごめんごめん。『みたいな』じゃなかったな? 俺のちんぽで下のお口ずぼずぼされてメスイキしまくる、モロ18禁な声だったね工藤……よく出来ました。」
――メスイキ。
その一言に、己の下半身に少し意識が向いた。黒羽の腹にこすりつけている自身が、今もひどくキモチイイ。イッたのに。確かにイッたのに、狂うほどキモチ良かったのに、何も収まらない。気持ちよさも、もどかしさも倍になって、身体を甘苦しく震わせたままだ。
黒羽が新一の身体をそのまま横にずらせるようにしてラグに寝かせ、一気に体位を変えた。一瞬ずるりと抜け落ちた肉棒が、再び新一の雄膣を犯しにかかる。
黒羽が新一の片足を抱え込んで、大きく上から足を押し広げた。恥ずかしいほど淫らに震える身体を、深く貫かれてゆく。
「あ、ぁ、やめ、イッ、てりゅ……もぉ、やっ……イッ、イッてる、イッてるからぁぁああぁっ」
熱塊に灼かれて、新一は顔を打ち振った。
上から存分に体重をかけて腰を進めながら、黒羽が耳元に唇を寄せた。
「はっ……やらし……トロットロな工藤の声最高にそそるぜ……」
吐息でねっとりと耳朶を炙ると同時に、力強い律動で黒羽が奥を穿ち始めた。
「やぁぁ……む、りぃ、や、くろば、らめぇ……イッてりゅぅ……いっ、ぐ、ッあんぁ、へぁ……あぁっぁぁあああああっ」
「それに締め付けもすごく強くなってる」
「ちっ、ちが……っ、あ……」
「……そっか、愛しの蘭ちゃんの声久しぶりに聞いて興奮した?……工藤」
「ひっ」
その刹那、再び突かれるのと同じリズムで白濁がぬるりと漏れた、ような気がした。もう自分がどうなっているのかも解らなかった。
奥をさらに深く、黒羽の先端が穿つ。弾力のある張り詰めたその先端で、黒羽が粘膜にじっくりとキスするように抉る度、ぶるっと体が震えては新一自身も何かしらを漏らし続けた。
「……ッふ……ふかい、ふかぁい、くろ、くろばぁ、やぁっ……おく、ちんぽあたってりゅ……んんっ…イッ……イッてりゅ、イクの、とまん、な……っ!」
「あぁ、気持ち良さそうだな……ほら、もっと奥で俺をやらしくしゃぶって、工藤……っ」
黒羽が新一の身体に覆い被さってくる。心臓が乱れ打つ胸をお互い重ねて、深く楔を打ち込んだまま、黒羽がガツガツと腰を振った。
「ひんっ、ああぁぁんんぁぁああぁっ……!」
また、達した。もう何度目だろう、解らない。
苦しい。甘い苦しさで尻の穴から喉奥まで隙間なく快感で満たされて、息も出来ない。
「こんな奥まで俺のちんぽ美味しそうに咥えてメスイキしてちゃ、もう蘭ちゃんは抱けないね、工藤」
嬲 るように何度も蘭の名を口にする黒羽に、その瞬間、何かもう堪らなくなった。
我慢の、限界だった。
「な、んで蘭がっ……出てくんだよ!」
「……」
快楽の奥から必死に声を絞り出した新一を、黒羽は微かに眇めた隻眼で見下ろした。
ぴたり、黒羽の腰が止まった。
「関係、ねーだろ……っ! 蘭とは、もう、そういう関係じゃ、ねえ!」
「……へえ。そう」
新一の頭の両脇に、黒羽が肘を置く。頭を軽く抱え込まれた。すぐ真上に黒羽の底光りする隻眼が迫った。
「……で? 抱いた?」
「は……?」
「彼女のこと抱いたかって聞いてんの」
ぐい、と下から硬い剛直が突き上げてくる。瞬間、こみ上げる快楽に喉がぐっと反った。
「……っ、あっぁ……はぁ、はぁ……っ、オメーには関係、ねぇだろ……っ」
「なくねぇよ。なぁ、抱いたの?」
熱い吐息が、頬を嬲 った。薄闇の中、炯々 と光るその隻眼に見つめられ、目を少しも逸らせない。
視線がもたらす圧迫感に息すら詰まり、新一はやがて根負けした。
「うるっせぇな! 抱いてねえよ! 蘭のことはもういいだろ!」
笑うなら笑えば良いと思った。強烈な羞恥に歯を食いしばる。こんなに恥ずかしくて悔しいのに、それでも最後までお前には関係ないと突っぱねられなかった理由はもう、分かっていた。
黒羽に、誤解されたままでいたくなかった。
そうだ。たとえ笑われても、それでも――他でもない黒羽に、蘭とのことを誤解されたままでは嫌だったのだ……自分が。
両腕をノロノロとあげて、己の顔を腕で覆った。もう表情を見られたくなかった、のに。
「……隠さないで、工藤」
ひそりと黒羽が囁いて、左腕だけで自分の上半身をささえ、右手で新一の手を掴んだ。そのままじりじりと顔から手が引きはがされてゆく。
「や……め……っ」
「隠さないで」
密やかな囁きがラグへ零れて――新一を淡く痺れさせた。
目を閉じたまま、片方ずつ、手を退けられてしまった。何故かもう抗えなくて、なすがままだ。
(くそ……情けねえ……っ)
泣きたい気分で顔を横に背けていると、黒羽がゆっくりと顔を伏せてきた。
上向いていた新一の左耳に、そっと口づけて。
「なぁ……もしかして、新一、童貞だった?」
また答えにくいことを尋ねてくる。
思わずかっと頬に血がのぼり、新一は黒羽を強く睨み付けた。
「んなこと……っ、どうでもいいだろ!」
羞恥も露わに叫んでしまったのが運の尽き、か。
「……っ」
その瞬間――黒羽が、はっと息を漏らし、笑みを滲ませた。
(こいつっ……!)
馬鹿にしてんのか、とますます苛立った瞬間――尾てい骨までも押し下げられるような鈍い衝撃が下半身に走り、新一はぎょっと顔を強張らせた。
「うあっ……なんで、おっきくなってんだよ!」
明らかに、新一のナカで黒羽のものが膨らんでいた。もう十分大きいからこれ以上主張すんなと喉まで出かかる新一を見下ろし、何故か、黒羽がうっとりしたような眼差しで微笑った。
「なんでって? 決まってる……すっげぇ興奮したからだよ……」
「はぁ?」
「新一の初めて……俺が奪ったの? 本当に新一、まっさらだったんだ……凄い……」
「な……っ」
そんな言われ方をして、一瞬脳内が混乱した。何をうっとりしているんだ、と呆れる脳内の片隅で、けれどもう一人の自分がほんの少し、歓喜で震えた。
黒羽が、悦んでいるように見えた。
新一の身体がまっさらだったことに悦ぶその顔はまるで、男が付き合った女の処女を奪う歓びと酷似しているような気がして――自分は女じゃないとか、女扱いするなとか、そんな文句は溢れるほどあったはずなのに、全て消し飛んでしまった。
「ココも……前も、俺しか知らねぇの? 本当に? 俺だけの新一……?」
黒羽が少し身を起こして、二人の腹の狭間で震えていた新一自身をそっと掴む。先刻から突かれる度に白濁を垂れ流している新一のそれを揉みしだく黒羽の手が、何故か、少し震えていた。
「う、るせ……っぁ、や、やぁぁぁ……あっぁぅ……んぁ、あっ、ぁ……」
「嗚呼……すげぇ可愛い、工藤……」
嗤うのではなく、ただその瞬間、何処までもやさしく微笑って囁いた黒羽の声に、やられた。
全身が甘く、ふわりと高揚してゆく。彼の大きな手は、新一の張り詰めた屹立を最後に宥めるようになで回し、そして名残惜しそうに離れていった。
「メスイキ専用のメスちんぽから、全部搾り取って、俺でしかイケない身体にしような……工藤……」
瞬間、大きく黒羽が動いた。細いくせに見惚れるほど引き締まって無駄のない黒羽の身体が、新一の上で強くリズムを刻んで腰を突き入れてくる。
激しく擦り立ててくるその動きに、充血して潤みきった新一の粘膜が歓喜した。ずるりと深く穿たれる度に、痺れるような快感が激しく身体を駆け抜ける。
「ぐ……っ、ぁ、ひ、んっ、やめ、やぁぁ、もうむり、むりぃ……っ」
眼の奥でチカチカと白い星が散った。縋るモノを求めて黒羽の背にしがみつく。もっと、もっと近くに。もっと隙間無く重なりたくて仕方が無い。重くて構わない、黒羽の重みが欲しかった。
度を過ぎた快楽で浮いてしまいそうなこの身体を、繋ぎ止めるには鎖では足りない。
黒羽が、欲しかった。
「あぁ、すげえな……気付いてる? 俺のちんぽに吸い付いて、まだ奥に頂戴っておねだりしてるぜ、工藤のナカ……ははっ……そろそろ子供も出来そうだな……!」
「で、きるわけ……っ、あ、あぅ……んっ」
その瞬間、ぞくぞくっと大きな波が来た。度を過ぎた興奮が脳を焦がす。
黒羽、くろばもっと、もっと突いて、激しく。叫び出したくなるような衝動が突き上げてきて、新一を甘く狂わせる。
涙が、眦から散った。
「……ほら」
甘く昏い声が、奈落へ誘った。
「子作りしよっか……俺に堕ちておいで……新一……ッ!」
(な、まえ)
その、刹那。
「……っ、新一っ、孕め……っ」
唸るその声にぞくりと血が沸いて、眼球の奥までも真白 に染まった。
新一の腰を強く掴み、奥の奥まで抉りながら、黒羽が白濁を勢いよく叩きつけてくる。その迸りを粘膜で飲んだ瞬間、全身を貫いた愉悦はぞっとするほどに強烈だった。
「ひぅ――――――――――――――……っ!」
しゃんっ、とひときわ激しく、アンクレットが鳴った。
声すら絶える悦楽に身を震わせ、黒羽の背にきつく爪を立て、新一は達した。
体内で未だ叩きつけられてくる、黒羽の白濁。その熱さと激しさがひどく嬉しい。達しながらも黒羽は動きを止めない。フーッと歯の隙間から獰猛な喘ぎを零し、新一の腰をきつく掴んで、さらに奥を抉 るように2、3度、痙攣に合わせて腰を振ってくる。一滴も残さず新一の中に注ごうとする黒羽のセックスに、全身が悦んで屈服した。
新一自身も白濁を散らしながら、悦楽に酔った。
感じ入り、喉を反らし絶頂から醒めることすら許されず、快楽の頂きをただただ彷徨う。そんな新一の視野の片隅に、何か青いものがふっと引っかかった様な気がした。
ぱたりと瞼を閉じて、涙の名残を押し出す。再び開いた瞳は、温室の片隅で咲く薔薇の一つを確かに捉えた。
(あ、れは……)
白に近い、澄んだ青に近い色合いの薔薇、か。
何故、と考える力はしかし残されていなかった。
蕩けるような法悦の中で意識を手放し、新一は柔らかな闇に落ちていった。
* * *
ゆっくりと奈落に落ちてゆくように、薄紅に腫れた瞼が閉ざされてゆくのを、快斗は気の遠くなるような快感の中で見守っていた。
まだ快斗が体内にいるというのに、もう完全に電池切れなのか、工藤は狂乱を手放していた。いっそ安らかでさえある呼吸音に安堵し、快斗は詰めていた息を細く吐き出した。
まだ抜かぬまま、工藤の身体にそっと己の身体を重ねてゆく。潰さぬよう腕でも己の体重を支えながら全身で抱きしめた。お互いの腹の合間で、工藤が最後に放った水のような精液がぬるりと生温かく潰れて、けれどそれすら不快どころか心地よかった。オイルプレイでもしているようだ。
「……なぁ、なんで……俺から逃げねえの、新一……」
汗に濡れた額へ、そっと口づける。微かな塩気を求めて、今度は工藤の目尻を舌で辿った。
(あぁ、今日も、沢山泣かせた……)
涙の味を舌先に感じる。
瞬間、ゾクリと湧き上がる愉悦と、ひどく透明な悲しみが、己の中でない交ぜになった。
涙を吸い、頬にキスを落とす。意識のない工藤だと思うと、箍が外れて止まらない。優しく甘いキスをたっぷりと降らせ、最後に唇を奪った。
「ん……ふぅ……っ」
無意識のうちに漏れる悩ましげな吐息すら奪い尽くしたくて、一度離した唇をまた重ねた。
汗だくのまま意識を失い、眠り続ける工藤の顔をしばらく少し眺めた。涙の名残を纏って、震える睫は微細に燦めいて美しい。通った鼻筋から唇までのラインは惚れ惚れするほど端正で、元・美人女優の血を色濃く受け継いでいることがわかる。
散々自分が貪って、今は常よりも紅く濡れた唇が、痛々しくも淫らで……堪らない。
……少し、痩せただろうか。
(もっと、美味いモノ作って、食べさせよう)
胸の詰まる思いで、快斗は思う。けれどどうすれば工藤の食欲が回復するかなんて、本当は解っている。美味い料理よりも何よりも、人を健やかにするものはまず『安心』だ。
安心させてやるのは簡単だ。多分、こちらがただ普通に、ありのままに接すればいい。
けれど――工藤新一の懐は広すぎるのだった。
解っていたようでまだ解っていなかった。こんなにも鬼畜な振る舞いすら受け入れてしまうなんて。どこまで懐が深いんだと途方にくれてしまう。
同情なんかで身体を拓いて、
こんな外道にも寄り添い、共に生きようとしてしまうなんて。
(怖いよ。俺は、お前の懐の広さが……怖い)
今日のセックスだって、結局最後は表情を偽ることが出来なかった。工藤がまっさらな身体で自分に堕ちてきたのかと思うと、興奮と歓びが暴風のごとく全身を駆けて、もうどうにもならなかったのだ。
怖い。こんなことがこの先も起こり続けるのだろうか。そんなことになったら、もう。
いや、と快斗は思い直した。おそらくもう、手遅れなんだろう。
「……もう歯止め、きかねぇだろ……」
工藤の首筋に頬を埋め、甘い汗の香りを深く吸い込みながら、快斗は呻いた。
04 止まぬ雨
じわりと新一が覚醒した時、まだ、外は暗かった。
気怠い身体はまだ少しも動かしたくないほどに重い。けれど不快感はあまり無くて、シーツと毛布に包まれた己の身体は、綺麗に汗や体液を清められていることが解った。ボクサーパンツだけは穿かされているのもいつものことだ。
隣に、黒羽はいない。
鎖は、今は足枷の方から壁の鉄製リングへと繋がれていた。
それにしても、曲がりなりにも成人男性であるこの身体を、よくまぁここまできっちり清めて、移動させることができるものだと思う。意識の無い人間は子供ですら重いのに。
ぼんやりと天井を見上げていたが、やがて新一は深く溜息を零し、腰の重苦しい痛みに耐えながらのろのろと起き上がった。おそらくもう二度寝は出来ないだろう。時計はないから時間の経過は解らないが、そろそろこの島のリズムに身体も慣れてきた。
きっと、もうすぐ黒羽が来る。朝焼けの中で湯浴みするという贅沢を新一にさせるために。
早朝、黒羽はやはり新一より早く起きて様々な城の業務をこなしていた。寝ている時間はあるのだろうかと疑うほどだ。
身体から毛布が滑り落ちる。足にまとわりつく毛布をも取り去って、新一は左足をそっと折り、手前に引き寄せた。
足首には、金色の鈴。
今は枕元の淡いランプの光に照らされて、その金色はより一層、濃く燦めいて見えた。
しゃら、と涼やかな音を立てる鈴を何気なく手で弄りながら、改めて気が遠くなるような思いに囚われ、新一は目を伏せた。
黒羽は、愛だの恋だのといった感情を、この関係性に求めていないのだと……そう、思っていた。
性欲のはけ口として、この身体を求められたのだと。そうでも思わなければ、初日に浴びせられた心ない言葉が、胸の奥で疼いて仕方なかった。
『それとも俺が、昔からお前を好きだった、とでも言えば満足なのか?』
あの時──この10年、名前も形も解らぬままに心で育て続けていた何かを、ざっくりと斬られた気がした。期待するなと釘を刺された気がして、耐えがたく恥ずかしく、苦しかったのだ。
けれど、身体を重ねれば重ねるほどに、見えてくるものはあった。長い時間をかけて抱かれていると、言葉の端々から、表情の隙間から、零れてくるものは想像以上に多かった。
(……なぁ、黒羽、お前……)
黒羽から押し寄せてくる執着は、女ほど愉しむ箇所もなく、女よりは遥かに面倒なこの身体に対してのものと考えるには、あまりにも強烈であまりにも熱い。触れた肌から骨までも溶かし尽くしてしまいそうなあの執着を、この10年、黒羽はずっとその身に飼い続けていたというのか。
相手ごと滅ぼしかねない情炎を、ただ肉欲と名付けるには、あまりにも苛烈だ。
新一に女性経験が無いのだと知った後の、黒羽の震える手を思い出し、思わずぶるっと顔を振った。頬がぶわりと熱く上気して、恥ずかしさでわけもなく喚き出したくなってしまう。
悦んでいた、ように見えた。
そんな表情ひとつにも、期待したくなってしまう自分はもう、冷静にこの状況を見極めているとは言えない。
刑事だって己の身内が傷つけられれば、捜査から外されることもある。私情はいつだって真実を見極める目をいたずらに曇らせて、惑わせるものだから。
(わかんね……くそ……)
真っ赤に染まった頬を俯けたまま、新一は少し熱を帯びた吐息をまた一つ零す。
何が名探偵だ、と思わず自嘲が口端に滲んだ。本当、こんな体たらくで名探偵が聞いて呆れる。
未だに……黒羽の10年が解らない。
その間に彼の心に巣喰った闇と、光のいろが見えない。多分、黒羽はそれをあえて新一に隠そうとしている。それが恨みからの行動でないなら、一体、何故だ。
(……ま、一人で考えたって、仕方が無い)
とにかく黒羽と過ごす時間を少しでも多くして、感じ取る以外にない気がした。
はぁ、とまたも溜息が零れる。もう何度もそうやって息を吐いても、甘苦しさがどこか消えない。昨夜注がれた熱い視線が、声が、そして白濁が敏感な粘膜を熱く叩く感覚が──今も緩やかに己を疼かせている。
未だ体内に、黒羽がいるような気がしてならない。
さざ波のような快感は、不思議と身体から引いてはいなくて、じんわりと腰を痺れさせたままだ。自慰したってこんな風に後を引く快感に見舞われたことなど一度もないから、戸惑うばかりだった。
(しっかりしろ……俺……)
己をそっと叱咤しつつ、左手でまたアンクレットをさらりと弄った時だった。
鈴の一つに触れた瞬間、ふと、指が止まった。
──音が、違う。
その一つだけが、他の鈴と音が違っている。少しくぐもった音がした。
足を限界まで引き寄せ、その鈴をつぶさに観察し──やがて新一はやりきれぬ思いで吐息した。
思えば、好敵手として追いかけまわしていた頃には、当たり前のように互いの間に信頼だけはあったように思う。それは仲間に対する信頼とはまた違うものだったけれど、怪盗の矜持であるとか、能力であるとか……そういった怪盗を形作るものが美しく、聡明であることを信じていたのだ。
うぬぼれでなければ……怪盗もまた、探偵である自分の何かを、信じてくれていたように思う。
あの頃から、こんなにも遠くまで来てしまった。
「信じてもらえないのって、こんな、しんどいのか」
ぽつりと、弱音が唇をついて出た。全て贖罪からこの関係を始めてしまった己の自業自得だと解っていても、切ない。苦く微笑んで最後にアンクレットを一撫でし、足を横座りに崩した瞬間、部屋の鍵が開く音がした。
狂乱の夜は夢のように過ぎ去り、黒羽との『日常』が、始まろうとしていた。
* * *
湯浴みしている間に夜が明けた。そのまま黒羽と食堂にいき、簡単な朝食を用意する。
今日はパパイヤがあるぜ、と調理室で黒羽が籠に乗ったパパイヤを見せてくれたときには、微かに胸が痛んだ。おそらくそれは、あの女性が運んできてくれたものだろう。
他にも籠には、バナナや名前の解らない実が山積みだった。
「冬だから、ちょい小さめだけど」
「冬……でもパパイヤって採れるのか?」
黒羽の肩越しにひょいと顔を出して問えば、ふっと黒羽が身を離すように横に避けた。さりげない仕草だったけれど、微かな違和感を覚えた。
(え、俺、避けられた……?)
実はこういうことは、初めてではなかった。
黒羽との生活の中で、ふとした瞬間に、こうして身体を離されることはあった。どれもさりげない仕草だけれど、何度か経験すると、段々意識に引っかかるようになってきた。
今も、気のせいだろうか──一瞬気にはなったが、考え込む暇はなかった。
「ああ。タヒチあたりじゃ年中採れる。ただ、冬場はやはり小さいのさ。夏になれば、果物はみんな凄く元気だぜ?」
──夏──
その頃になればもっといろいろ果物があるんだろうか、と問いかけて、ふと言葉を呑んだ。
黒羽も、何も言わなかった。
パパイヤを切るのかと思いきや、何もせず流し台の籠において、黒羽は冷蔵庫に歩み寄る。
「切らないのか?」
「もう準備してる。工藤は皿とか運んで」
一緒に何かを作るものだとばかり思っていたので、拍子抜けだった。少し残念な気持ちになりながら、テーブルに小皿やカトラリーを運んだ。
本日のドリンクは、パイナップルジュースだ。
今日はパンではなかった。少し長細い生地を曲げて揚げたようなものが籠に盛られている。
「これは?」
「フィリフィリ。タヒチとかで食べられてるドーナツみたいなもんだ。朝食によく出てくる」
「へえ」
次に黒羽が冷蔵庫から取りだしたのは、蒼紫の大皿陶器に盛られた色とりどりの具材が入ったポアソン・クリュだ。トマトやキュウリ、玉葱の薄切りなどの野菜と、海水や塩で締めたマグロなどを、ライム、ココナッツミルクで和えた料理である。
魚介は海で勝手に採れるものは採るらしいのだが、基本、黒羽は別の島から月一の貨客船で取り寄せた冷凍のものを使っている。巨大な城の冷蔵庫には既に加工されカッティングされた魚介の塊や肉がいつも常備されていて、それを一ヶ月かけて食べていくらしい。
次に冷蔵庫から黒羽が取りだしたのは、冷えた耐熱ガラス製の器だった。長方形のバットのようなガラスの器に、真っ白なクリームのようなものが入っている。二層にわかれていて、下には茶色い何かが敷き詰められているようだった。
「工藤が、ココナッツ苦手じゃなくて良かった。ここでココナッツ苦手だったら地獄だぞ」
黒羽が器をテーブルに置きながら、わずかに笑む。
(あ……)
その微かな笑みは、意識して黒羽が浮かべる表情とは違って、ふとした瞬間に零れる素の表情だった。淡く一瞬で消えてしまうようなその表情は、さりげないけれど柔らかい。ふわりと、新一の胸もあたたかくなった。最初は無理やり手伝いを申し出て、渋々許してもらったような形だったけれど、今ではかなり黒羽も、新一が鎖無しで側を動くことに慣れてくれたように思う。
「黒羽、それは?」
席につきながら興味津々に尋ねると、黒羽は笑みを深くした。
「ポエ」
「ぽえ?」
「そ。バナナとパパイヤを煮て、すりつぶして、いろいろ他にも材料混ぜてからオーブンで焼いて、冷やして、ココナッツクリームを上にかけたプティングのようなデザートだよ。煮る果物や野菜は、まぁ、何でもいいかな。ポエは地方によっても大きく異なるし、島のおばさん達が作るヤツはみなそれぞれ違ってて、ダイナミックで面白いぜ。俺はミキサーで綺麗にすりつぶすけど、おばさんたちは大体、手だな」
「手!?」
「そ。」
黒羽が向かいの席に座り、新一の目の前に拳を突き出してくる。筋の浮いた逞しい拳を一度開き、何かを掴むような仕草をして──そしてぐしゃりと拳を握りつぶした。
「こうやって、果実やカボチャを手で握りつぶしてぼっこぼこのヤツを焼く」
「うわぁ」
「だからおばさんたちのポエは大体、ぼっこぼこの茶色い肉団子にココナッツクリームやミルクかけたシチューみたいな外見だぜ」
黒羽の作ったポエは上品だった。プティングケーキのように表面が真っ白なクリームでならされている。それを、黒羽が大きなスプーンですくい小皿に分けてくれた。
「……なぁ、これ」
テーブルに並んだ賑やかな料理を見回して、新一は少し息を詰まらせた。
ポアソン・クリュは、手慣れていれば朝、その場で作ることも出来るだろう。けれど、ポエは焼いたあと冷やさなければいけないのだから、案外手間と時間がかかっている。フィリフィリだって揚げ物だ。新一がここに来たときには、もうすでに揚げられていた後だった。
「お前、いつ作ったんだよ」
「んー?」
自分の分のポエも小皿に分けながら、黒羽は目を伏せた。
「別に。昨日の夜と、今朝、少し時間取っただけだぜ」
「……」
(夜って……だってこいつは俺と)
延々と爛れたセックスをし、汚れたカラダのまま気を失った新一を清めて、部屋まで運んで寝かせて。多分その後で黒羽は自分だけでシャワーを浴びて──そうしたらいくらなんでも、もう真夜中だったはずだ。
その後で、朝食の仕込みをした?
さらに朝も早めに起きて朝食の仕上げをして、新一が風呂に入る準備もして?
掃除だっていつやっているのか知らないが生活範囲内は美しく保たれている。洗濯だって──。
「……俺、なんも出来てねえじゃん……」
本気で落ち込んでぼそりと呟いた新一に、黒羽が静かな視線を注いだ。
「言ったろ。家政婦が欲しいわけじゃない」
「……でも、風呂に入る準備ぐらい、俺も自分で出来る。教えてくれ」
「ダメ」
即答だった。にべもないその返事に思わずムッとして、新一は顔を上げた。
「何でだよ!」
「それは俺の趣味だから」
「な……っ」
「工藤が入る風呂を、俺が準備してやるのは、俺の趣味だから、とらないで」
夜明けの湖にも似た隻眼が、まっすぐに──新一を映すから。
やみくもに拒んでいるわけではないのだろう、その静謐な視線に、何も言えなくなってしまう。まるでひどく大切に扱われているような気がして、頬にかすかな熱が差した。
「……でも、俺も手伝いたい」
「ついでに言うと、料理も俺の趣味」
そっけなく、断られた。
「……っ」
やはり、あまり自由にさせていると逃げると思われているのだろうか。
胸に鉛をぐっと詰め込まれたような気分になり、思わず奥歯を噛みしめた、その時だった。
向かいの席から、ふわりと手が伸びてきた。
(……!)
黒羽の大きな手が、新一の髪を、優しく撫でた。
「あんまり最初から欲張るな。日中、洗濯とか手伝ってくれ。朝は、いい」
相変わらず黒羽の表情は硬い。けれど、正面から新一を見つめる隻眼は、決して冷たいものではなかった。
「カラダ。辛いだろ」
「……あ……」
とくん、と心臓が躍った。あっという間に耳まで熱く染まる。新一は思わず顔を背けた。
「……そう思うなら、夜もっと手加減しろ……」
「え? それは無理」
「そこで即答するか!」
「工藤を抱くのも俺の趣味」
趣味は全力で、などと宣う黒羽の頭を、こっちも手を伸ばしてはたいてやる。食事前でなければ蹴り飛ばしているところだ。
「悪趣味め……」
「え? 最高の趣味だと思ってるけど」
ふふん、とシニカルな笑みを浮かべ、黒羽が両手を合わせた。こんな何気ないやりとりに、ほんの少し、昔の気安さが戻ってきたようで、胸の奥が切なく軋んだ。
「食べようぜ。頂きます」
「……っ、頂きます」
表情を作り損ねたまま、むっつりと黙り込んで料理を口に運んだ新一だったが──
「……うわ、美味い」
ポアソン・クリュにフィリフィリ。どちらも美味くて、一度食べ始めると止まらない。二人であっという間に食べ進み、デザートのポエもぺろりと平らげてしまった。
「美味かった……世界一美味い朝食が出るホテルって名乗っていいと思うぜ……」
あまりの美味しさに、うっとりと息をつく。そんな新一を満足げにみやり──黒羽は窓へ視線を緩く逸らした。
「そっか。良かった……」
ぽつりと、黒羽が呟く。
眼帯に覆われた右の横顔からは、その表情は窺い知れなかった。
食事を終えて後片付けをすると、黒羽は案の定、部屋に帰れと新一に言い始めた。
「まだカラダが辛いだろ」
寝とけ、と告げる黒羽に、首を横に振った。
「手伝う。このあと何すんだ?」
あくまで引かない覚悟で迫れば、ようやく根負けした黒羽が、背負い籠を二つもってきた。葉で編んだ荷物運搬用の籠だ。
「肉体労働だぜ?」
大丈夫か? と苦笑する黒羽に、ぶんぶん首を縦に振って頷いた。
細い細いと黒羽は言うが、新一はそれなりに体力には自信があるほうだ。自慢じゃないが──いや自慢だが──脚力もある。伊達に黄金の足などと言われてはいない。
「どんなことすんだ?」
「ココナッツを運ぶのさ」
山の麓から海岸線あたりで生えているココヤシ。その実を採って運ぶ作業なのだと言う。
「そっか、買うんじゃなくて採ってくるのか……」
「ここいらの島じゃ、フルーツも当たり前にそこらで生えてんのを適当にもぎって食べるって感覚なんだよ。俺はそれほど栽培してねぇから買うけど、ココナッツぐらいは自分で拾うぜ。なんせ余ってる」
二人して作業用のラフなTシャツとジーンズといった姿で空の籠を背負い、海岸線に向けて森を抜け、下ってゆく。
「食事もココナッツめっちゃ毎日出てくるもんな……」
「ここらの主食の一つだ。料理しても良し、ジュースを飲むもよし。ココナッツミルクも作れるし、油も取れる。ココナッツの中にあるココヤシファイバーで、風呂の火を熾 したりもする」
「あ……!」
木々のトンネルを抜けて山道をくだりながら、そういえば、と思い出す。黒羽がかまどに火をつけるとき、よく燃える繊維質のものを使って、薪に火をつけていた。
あれもココヤシの恵みだったのかと、驚いた。
「インドネシア人によれば、ココヤシには1年の日数と同じほど多くの使い道があるそうだ」
「そうなのか……」
「それなりに重いぜ? 音、上げるなよ」
「馬鹿にすんなっての!」
やがてココヤシの生える海岸線まで降りてくると、黒羽は砂浜に籠を置いた。新一もそれに習う。
辿り付いたのは、本当に小さなビーチだった。砂浜と呼べるような領域は少ししかなく、波打ち際には岩礁地帯が広がっている。水は確かに綺麗だが、その水色 を楽しめるほど浅い波打ち際といったものは殆どない。この島はほぼ全てが断崖絶壁で、上陸も容易ではなく、船着き場も後から整えられた一箇所しかないのだ。
黒羽は籠と背中の間にさらに背負い袋に入れて背負っていたシンプルな弓を取り出すと、椰子の木から少し離れた場所でひょいと構えた。無造作に番 えた矢は、先端の鏃 が刺又 にも似た、特殊な形をしている。羽は珍しく、4枚羽のようだ。
「お前、狩りでもすんのか? その鏃 の形って、確か……雁股 とか言ったっけ? 走る獣の足とかを射切るためのヤツだろ?」
「ほんとマニアックなことまでよく知ってるなぁ名探偵は……まぁ見てな。あと、ココヤシの木の下には不用意に入るなよ工藤。落ちてくるココナッツに脳天かち割られるぜ?」
狙いを定めながら、黒羽がニッと口端を引き上げ、囁く。
「お、おう……」
確かに南国では、ココヤシの下にはよく注意を促す標識があるものだ。毎年いろんなところでちょっとずつ、ココナッツ爆弾で人が死んでいく。ここはそういった標識すら皆無だが、確かに今からココナッツの実を落とそうとしているのだから、真下に近寄るのは危ない。
「あとでまとめて拾う。とりあえず俺の横で見てて」
「ん」
新一が頷けば、安心したように黒羽が再びココヤシを鋭く睨んだ。
(う、ぁ……)
解ってはいたことだが──こうしてみると、黒羽快斗という男の造形は完璧だった。
健康的な肌に、冬とはいえそれなりにパワーを持つ日差しが降り注いで、黒羽の雄々しさが香り立つ。南国の青空を背に鋭い眼光でココヤシを狙う黒羽の横顔は凜々しくて、白を纏って月下を駆けた大怪盗をつい重ねてしまう。けれどあの頃より、随分黒羽は逞しくなり、男ぶりを上げた。
しなやかな手が弦を引き絞り──そして射る。
放たれた矢は一直線に空を駆け、木の上で鈴なりに生 っているココナッツへと飛んだ。果実の根元を上手く幅広の鏃が捉えると、まだ青いココナッツの実が一つ、重量級の音を立ててどすっと草むらに落ちてきた。
「うわっすげえな黒羽!」
思わずぱっと破顔して振り返った新一の視線を受けて、
「まず一つ」
すました顔で、黒羽は告げる。けれど、よくみると目尻の辺りが少し紅くて──それに気付かぬふりで目を逸らしながら、新一はこっそり笑った。
もしかして、もしかしなくてもこの男──照れているのだろうか。
籠の中にあった矢筒からまた一本抜いて、黒羽が番える。
次々と適度に落とせそうな実を選んで根元を射貫いてゆく。ミスは一切なく、全てを命中させていく黒羽の腕前に、内心舌を巻いた。ココヤシはかなり密集して生っているので、角度によっては矢がまったく実の根元に当たらない。この方法で落とせるのは、少し実と実の間隔が空いているココナッツだけのようだった。
いくつか落とし、運良く一緒におちてきた矢も回収しつつ、また落とす。
そうやっていくつか黒羽が落としたココナッツをまとめて拾っている最中、ふと新一は陸地の岩の間に挟まっている、茶色のココナッツを見つけた。
今落ちたものではない。かなり以前に落ちたのだろうか。
「黒羽~。これ」
茶色のココナッツを拾い上げて黒羽を呼ぶ。
近寄ってきた黒羽は、眉をひょいと引き上げ笑った。
「おー。自然に熟したヤツだな。ラッキー。まぁジュースは青い実から飲むのがいいから無理に飲まなくていいけど、飲もうと思えば飲めるぜ。ちょい見せて」
「ん」
新一が手渡した実を両手で持ち、しばし眺めた黒羽は、やがてふむ、と息をついて顔を上げた。
「工藤。これ、ここで割るか」
「え。ここで食べるのか?」
「いんや。まぁ、見てな」
見てな、と簡単に黒羽は言うが、ココナッツは相当堅いことで有名だ。のこぎりでもあれば強引に上部を切り落としてジュースだけを飲んだりといったこともできるが、この場で何度岩に打ち付けても、そう簡単に割れるものではないはずである。
「どうやって割るんだよ……」
思わず零すと、黒羽がふっと笑った。
「名探偵もここじゃ知らないこともあるんだな」
「うっせ!」
唇を尖らせている合間にも、黒羽は動いている。
まず、岩場の窪みに実をセットして、上から重い石を何度か落として外皮にヒビを入れた。続いて、上から下にむけてバリバリと茶色く乾いた外皮を剥いでいく。中から現れたココヤシファイバーも手で毟り取り、ある程度綺麗になったココナッツの種子を、黒羽は新一に見せた。
一回り小さくなった、この種。殻の中にあるものが、可食部だ。しかしここからが硬い。
「それ、どうすんだ?」
「この部分。顔みたいに見えるだろ」
黒羽に差し出された種をよく見れば、尻だか頭だかはわからないが、確かにココナツの種子の一方に、眼と口のように見える窪みが3つ、ついている。色合いも相まって、なんだか猿が笑っているように見えた。
「この、両目に見える部分を、ココナツのヘタの反対側に向けて真下に辿る。この見えない縦線の丁度真ん中を、真っ直ぐな岩の角を直角になるようにあてがって、打ち付けるのさ」
鋭い角が一直線に並ぶ、縦長の手頃な岩をみつけると黒羽は右手にそれを持ち、左手でココナッツの種を支えて、そこにしゃがみこんだ。
「いくぞ」
「え、おう……」
新一も膝に手をついて上半身を屈め、黒羽の手元を覗き込んだ。
そんな火打ち石をぱんと打つような手軽さで、本当に難攻不落のココナッツが割れるのか半信半疑だったが──黒羽が軽い仕草でココナッツの種に右手の岩を打ち付けた瞬間、それは嘘のように綺麗に弾けた。
ぱしゃん、と水晶のように澄みきった水しぶきが、黒羽の手中から迸り、陽に燦めいた。
「うわ! 割れた! マジか!」
「ここが、軽い力で割れる唯一のポイントなのさ」
二つに割れた種の一方を下にしてゆっくりと開き、黒羽は立ち上がると、お椀の様に片方の種子を上向けたまま差し出してくれた。中には透明なジュースが満ちている。
「飲んでみな。んな美味いもんでもねーけど」
「熟れた実のは、初めてだ。青い実のココナツジュースや、パックになってんのは飲んだことあるけど……」
「そうかよ。じゃ、一応初体験だな」
目を細めて笑う黒羽が、また自然体の表情を見せてくれた。それが嬉しくて、新一はこくりと殊勝に頷くと、ありがたくそのココナツジュースを啜った。
「お味はどうです? 工藤さん」
「う……うす、あまい……?」
思わず声が出た。薄甘い。そうとしか言えない。一口では甘さはあまり感じられず、飲み続ければ仄かに沁みてくるような甘みだった。
「天然のはそんなもんだ。市販されているものやホテルで出るものは大概、砂糖が添加されてる」「だよな……」
そのうえ地面に転がっていたものだから、当然、生温い。美味い! とは到底言えない味だ。若い実だろうと熟した実だろうと、とにかく冷えているかどうかが大事なのかもしれない。
なんとも言えない顔で苦笑していたら、黒羽がひょいと新一の顔を覗き込んできた。
「どれ」
魅惑の蒼紫が急に眼前へ迫る。あ、と息が詰まった瞬間、唇を奪われた。
(……っ!)
思考が、時を止めた。
ちゅっ、と唇の表面を、黒羽の唇が食む。伸ばした舌で、ココナツジュースの名残を探すように、軽く新一の唇を舐めて──すぐに離れていった。
身体を起こした黒羽が、ぐいと濡れた口元を腕で拭う。
「ホントだ。うすあまい、な」
白い歯を覗かせて軽く笑う黒羽に、思わず見惚れたなんて悔しくて──カッと頬を染め、新一はそっぽを向いた。そっと自分の口元を、腕で拭う。
(お前は、ココナツジュースの味なんて……嫌ってほどわかってんだろうが……)
耳まで沸騰したように、熱かった。心臓が言うことを聞かない。
黒羽はそんな新一をからかうでもなく視線を逸らすと、新一の手からココナッツの半分を取った。
そして二つのお椀のように割れたココナッツを、砂地に二つを少し離して置いた。
「黒羽、どうすんだ……?」
「まぁ、見てな」
黒羽が謎めいた笑みを口元に浮かべる。と、ほぼ同時に、木々の上が不意に騒がしくなった。
鳥たちが一斉に飛んできたのだ。
赤、青、緑……鮮やかな色彩を誇る南国の鳥たちがみるまに周囲に集まってきて、さえずりが小さな浜をいっぱいに満たす。驚いて周囲をきょろきょろ見回し、棒立ちになった新一の肩を、黒羽が小さく叩いた。
振り向いた瞬間、唇に、黒羽の人差し指がふわりと軽く押し当てられた。
『おいで、工藤』
声を出さずに唇の動きだけで告げた黒羽に手を引かれ、ふたりは浜辺の隅にある物置小屋まで移動した。するとそれを待ち構えていたかのように、木々の合間から我先にと鳥たちが浜へ舞い降りてきたのだった。
あっという間に、浜は鳥たちで賑やかになった。皆ココナッツをつついて、入れ替わり立ち替わり白い可食部を食べてゆく。
鳴き交わす歌声が、世界を祝福するかのように空まで高らかに響き渡る。
それは、艶やかな原色の飛び交う、ひとときの楽園だった。
「……すごい」
思わず零した新一の手を、きゅっと黒羽が力をこめて握る。見上げればやはり眼帯と、そこから垂れ下がり揺れるスペードのモチーフが揺れるばかりだ。その表情は窺い知れない。
けれど──
(これを、見せてくれようとしたのか、オメーは……)
この世界の涯と呼ばれる島には、大した観光資源もない。浜辺らしい浜辺もかろうじてここと、もう一つあるぐらいだという。猫の額のような、それはそれは小さな浜辺だった。
そんな世界の片隅にいま華やかに鳥が舞い降りひとときの祝福を授けてくれたことが、ひどく尊いもののように思えて──新一の胸は詰まった。
これはマジックではないけれど、まるでマジックのように心を攫う。まさに楽園を空から引き寄せる、黒羽の魔法だった。
また黒羽はうつくしいものをひとつ、新一に見せてくれたのだ。
明け方の海を照らす金色の光に包まれる、湯浴みのひととき。
鮮やかな原色の鳥がもたらす、祝福に満ちた楽園。
黒羽は過去のことを何一つ語らない。けれど、これは確かに黒羽がこの10年、見つめ続けた風景の一端に違いなかった。
(なぁ、黒羽……オメーにとって、この島での10年は、どんな10年だった……?)
観光で来るならば、こんな何でも無い島でも楽しい。
気まぐれに美しく燦めく自然を目撃するとき、人は世界の神秘と繋がったような感動を覚え、世界を司る神と呼ばれる何かへ、感謝を捧げてやまない。
一方で、住民として生きるのならば、この島は決して優しくはないだろう。
厳しく不便で娯楽一つ無いこの島の暮らしは、文明生活に慣れきった青年にとって、決して生やさしいものではなかったはずだ。
それでも黒羽が見せてくれた美しい光景は、その一つ一つが、胸に迫るものだった。
この島の自然は、そして城での日々は、少しは黒羽を癒やしたのだろうか。
(……そういえば……)
昨日、気を失う直前に見た青い花を思い出す。あれが薬で蕩けた脳が見せた幻覚ではないというのなら、おそらく薔薇だ。それも、青い薔薇。
薔薇は通常、青色の花を咲かせることはない。自然界ではありえない青い薔薇を夢見て、人は必死で至高の青を追い求めながらも、一方で青薔薇には「不可能」という花言葉までつけた。
だが長年の研究の果てに、様々なルートから産み出されたいくつかの青薔薇が今は存在している。ごく淡い青から、蒼紫と呼べる色の薔薇まで花の色は様々だが──人は不可能が可能になったと歓喜し、青薔薇にはもう一つ、美しい花言葉が授けられた。
──夢、叶う。
もし、温室の片隅でみた青が本当に青薔薇だというのなら、この絶海の孤島で、黒羽はどんな想いをもってそれを育てたのだろう。
(夢は、今も、お前の中にあるのか……? 黒羽……)
それは今も聞けぬ一言だった。
俺を恨んでいるか、という問いと同じぐらい、喉奥からどうしても取り出せぬ一言だった。
舞い飛ぶ鳥たちをぼんやりと眺めて物思いに耽っていると、ふと横合いから視線を感じた。ちらりと左横を見やれば──黒羽は、もう鳥をみていなかった。
隻眼が、美しい鼻梁の向こうから密やかに、狂おしく、こちらを見つめている。
こんなにも近くにいるのに、まるで遠い何かに、焦がれるような眼差しだった。
(黒、羽……)
息が、止まる。
立ち尽くす身体が揺れてしまいそうなほど、急に激しく心臓が高鳴り始める。このまま視線を外さずにいたら、どうなるのだろう。
黒羽の視線に促されるように、腹の奥が重く痺れてゆくのが解った。昨日からさざ波のようにまだ体内に残る快楽の残り火が、そっと燻 る。ぐっと奥歯を噛みしめて黒羽を見上げれば、自然と頬が紅潮していくのが自分でも解った。
(ま、ずい)
呆れるほどに、顔に出ているはずだ。
黒羽の隻眼が、緩く瞬いた。蒼紫の光彩が、その深い瞳の奥で揺らめく。そっと黒羽が顔を寄せてきたとき、もう当然のようにキスされるものだと思っていた。
なのに、互いの間で張り詰めていた目に見えぬ糸が──ふっつりと途切れた。
動きを止め、どこかぎこちなく目を逸らしつつ身体を離したのは、黒羽の方だ。
「……そろそろ、帰ろう」
「……っ」
咄嗟に返事も満足に返せず、新一は息を呑んだ。
いつの間にか極彩色の鳥たちは去り、ココナッツは食べ尽くされ、茶色い外皮がころりと二つ、砂浜に転がっているばかりだった。
儚い楽園は、夢のように地上から去っていた。
* * *
夜になると、いつも少し緊張する。一日の用事が終わって黒羽が新一の部屋に帰ってくる頃には、いくらこの時期、島が冬期で快適な気候だとはいえ、やはり身体は汗ばんでいる。
大体いつも朝風呂する生活だから、夜はシャワーも浴びずに寝ることになるのだが。
(……くそ、気になる……)
足に纏わり付く鎖を引きずりながら本を漁って一冊選び、ベッドまで持ち込もうとしていた歩みをふと止めて──新一はぼんやりと立ち尽くした。
この島の者はみな、例外なく花の香水をつけている。それは一年のほとんどを日中のコールドシャワーのみで済ませるお国柄、どうしても体臭がきつくなるのを誤魔化すためでもあった。
けれど、新一は自分の香水など持っていない。かといって、ここには便利なデオドラント製品もない。もしかしたら既に体臭がきつくなり始めているかもしれないし、出来れば清潔にしておきたかった。けれど、水が貴重なこの島で、既に風呂に入れてもらっているだけでも贅沢なのに、シャワーの回数を増やして欲しいなんて言えるわけもない。
そもそも、低温すぎるあのシャワーだけを、夜に浴びたら凍えてしまう。
今日、調理室でさりげなく黒羽に距離をとられたことや、キスされそうだったのに身体を離された事をいちいち思い出すと、落ち着かなくなる。
書斎の中央に立ち尽くしたまま、作務衣に似た部屋着越しに、くん、と自分の匂いを嗅いでみる。特にきつい匂いはしないけれど、汗ばんだ肌の臭いはやはりどうしようもないような気がした。
(……俺、匂ってる? 大丈夫か?)
一度気になると落ち着かないものだ。もう一度脇を上げて匂いを嗅いだ瞬間、鍵が開いて黒羽が顔を出した。
「あ」
「? 何やってんの工藤」
丁度、扉の正面に立っていたから、まともに見られた。怪訝な顔つきで、黒羽が首を傾げている。
「あ、いや……」
慌てて腕を下ろしたが、歩み寄ってきた黒羽に、顔を覗き込まれた。
「何? なんかあった?」
「いや、何もねぇけど……」
誤魔化して緩く目を逸らしたものの、こういうときに限って快斗は許してくれない。いつもは眼帯の方ばかり新一に向けて表情を隠すくせに、こちらが逃げたい時はお構いなしに正面から見つめてくる。狡い男だ。
「何があった?」
息も掛かるほど間近で蒼紫の隻眼に見つめられれば、同時に黒羽からはふわりと濃厚な南国の香水が漂う。
「……いや……あのさ」
「うん」
いざ聞くとなると恥ずかしい。ええいままよ、と新一は己の左肘をきつく右手で掴んで、黒羽と視線を合わせた。
「俺、匂うか?」
「へ?」
思ってもみないことを聞かれたといった感じで、黒羽が目を見開く。
カァァァッと頬が熱で染まった。
「だから! 俺、臭くねぇかって聞いてんの! オメーみたいに香水もつけてねぇし、ここにきてだいぶ経ったし……その、匂ってんじゃねえかな、って……」
「──」
「臭かったら、ごめん……なんか、いい香水あったら、貸してくれ……」
最後は尻すぼみにボソボソと告げたが、なんだか情けない気分になって、もう顔が上げられなかった。黒羽に避けられるほど体臭がきつくなっていたらどうしようと思うと、ひどく辛い。
「……なんだ、そんなこと気にしてたのか、工藤」
優しい声が傍らで響いた。
黒羽が新一の手をするりととった。ベッドに誘うように歩き出す。歩幅はゆっくりと、鎖を引きずる新一に合わせて。
「なんだじゃねえよ。お前今日、俺のこと避けただろ。だから……」
「それで気になったの? 可愛いね工藤」
「はぁ? 何いってんだオメーわけわかんねぇ」
「俺に避けられてないか、気になったんだろ」
それが可愛いって言ってんの。と駄目押しされてまたカッと頬に朱が走った。
「工藤は、いつだっていい匂いだぜ」
ベッドサイドで立ち止まると、黒羽は新一の手からひょいと本を奪ってチェストへ置いた。そのまま、黒羽はその場に跪く。
いつものことだ。こうして寝る前に、足枷を取る。共に寝ている間は何かあればすぐに目覚められる自信があるからか、鎖を外してくれるようになっていた。
上から見ていると、鍵を扱っている素振りすら無いのに、黒羽の手がふわりと触れただけで金属製の足枷が簡単に取り外されるのが、いつも不思議だった。
「そういう、女に言うような世辞はいいから。オメーと一緒の生活してて俺だけ匂わないとかねーだろ!」
「でも、本当だ」
黒羽は立ち上がって足枷をベッドサイドのチェストに置くと、こちらに向き直った。
新一の項へと左掌を回し、顔を傾けてくる。咄嗟に身体を硬くした新一にほくそ笑みながら、黒羽は新一の首筋へ鼻を埋め、くん、と匂いを嗅いだ。
「や、め……」
「……工藤はいい匂いだぜ。そそられる……」
「おまえな」
「香水もいらねぇよ」
「……っ」
ほんのりと上気しはじめた新一の首筋に、黒羽の舌がねっとりと這う。こちらの肩を両手で押さえ、黒羽は新一の頸動脈の辺りを舐め上げると、薄い皮膚表面を突然、強く吸った。
「……っ!」
ちり、と走った痛みに顔を顰める。
もう慣れたとはいえ、セックスで意識までどろどろになっているときと違って、ひどく気恥ずかしかった。
肌の上に紅い華を刻んだ黒羽が、やがて目を細め、囁いた。
「……知ってる? 工藤の肌ってさ、なんかすっと爽やかな石鹸みてぇな匂いするぜ?」
「は……嘘だ、そんな……」
「自分じゃわかんねぇんだろ。フェロモンだな」
「な……っ」
「それに、俺がいつも香りを移してる」
緩やかに新一の首筋を掌で撫でるようにして、黒羽が触れてくる。その長い指先は新一の耳に絡み、首筋に向けてぴったりと手首まで押しつけるようにして覆った。
「ほら、こうやって」
「……っ、ぁ」
何故だろう、黒羽にこうして触れられると、じっとしていられない。触れられた箇所から背筋まで微細な電流が甘く駆け下り、どうしてもじわりと顎が上がって、喉を大きく曝してしまう。
まるで前戯でもされたように震える新一の様子に、黒羽が一層、妖艶な笑みを濃くした。
「抱けば抱くほど、俺の香りになる」
「……!」
やらしい言い方すんな、と思うが言えなかった。体温がぶわりと上気して、下手すると自分が勃ってしまいそうだったからだ。
チェストの上に用意してある水を飲んで、枕元のランプを点す。それを待って黒羽が部屋のシャンデリアを消灯すれば、世界は音もなく、小さく集束してゆく。
夜はみな消灯し、島は都会ではありえないほど漆黒に染まる。窓の外も森と、光無き海が広がるばかりだ。月光と星明かりだけが光の全てであるこの島の夜は、どこまでも深い。
淡いセピアの光に照らされたこのベッド周辺だけが、暗闇に沈む世界の中で確かな安息を約束してくれる小さな島のように輝いて、新一を誘う。
薄暗くなったベッドの横で、黒羽が部屋着を脱いでゆく。トランクス以外は全部脱いで寝ればいいと誘われて以後、二人ともこうして寝る前に部屋着を脱ぐようになっていた。
もう何度も身体を重ねた関係だというのに、黒羽が服を脱ぐ時はこちらが気恥ずかしくなり、まともに見ていられずいつも目を逸らしてしまう。今もそっと目を逸らそうとしたのだが。
(……あ……)
淡い灯に照らされた、黒羽の背。
ぎょっとするほどのひっかき傷がそこにあって、思わず息が止まった。数本の紅いミミズ腫れと、血が固まってかさぶたになっている箇所がいくつかある。
「それ」
「え?」
ズボンも脱ごうとしていた黒羽の手が止まり、肩越し、左の隻眼が怪訝そうに振り向いた。
「黒羽、その背中」
「? 背中がどうした……って、あぁ」
強張った新一の表情で察したか、黒羽が小さく笑った。
「昨日は、まぁ、激しかったしな。気にすんな」
「…………」
俺が本当にやったのか、と問いたくなって、だが新一は口をつぐんだ。そんな問いは無意味だ。
薬で理性が飛んでいたとはいえ、こんなにひどく黒羽の背を掻きむしっていたなんて、あまりにもショックで愕然としてしまう。思わず自分の爪を確認した。当然だが血など今はついていない。
だがあれほど酷く掻きむしったのなら、必ず、この爪に一度は黒羽の血液がこびりついていたはずなのだ。爪の間に血液が入り込んでいただろう。
だが、朝の湯あみで見た己の手に、血は無かった。あればいくらなんでも気付いたはずだ。
(……セックスの後、俺が意識を失ってる間に、黒羽が、わざわざ俺の手を清めたのか……)
少し伸びている爪を見ながら、新一はそのことに気付けなかった自分に歯噛みした。この島に来てから一度、爪は摘んだのだが、また伸びていた。
確かに、抱かれながらいっそ黒羽の背に爪を立てたい、と思ったことはある。けれど、無意識のうちに本当にやらかしてしまったなんて。
「ご、めん……爪切り貸してくれ」
青ざめて詫びれば、黒羽が隻眼をふと細めた。
「もう今夜はいいだろ」
「でも」
「何? 今夜もセックスする? 俺はいいけど」
「誰もセックスするとは言ってねえ! 忘れそうだから今! 爪を! 切りたいんだよ!」
思わず羞恥を誤魔化すように喚いた新一にくすっと笑って、黒羽はズボンをベッドの横の籠へと軽く畳んで入れながら、「駄目」と面白そうに告げた。
「今夜はもう店じまいな。気になるなら明日、爪は俺が切ってやるよ」
金属製の刃物は、この部屋に一切備わっていない。爪切りも例外ではなかった。
「……自分で切れる」
「はいはい」
軽くいなされた。多分この男は明日、新一の爪を自ら切るつもりなのだ。
(そんなに……俺が信用できねぇのかよ。爪切りすら持たせたくねぇってか)
ちくりと、胸が軋む。
むくれながら仕方なく服を脱いで籠にいれた。
「まだ、本読む?」
黒羽に聞かれ、新一はいや、と首を振った。もう少し本を読んでから寝ようと思っていたが、黒羽がもう寝るつもりなら一緒に寝ようと思った。
明日はできるだけ、朝も手伝いたかった。黒羽が目覚ましを一切使わず起きるので、いつも新一の完敗なのだが。
「そ。……じゃ、おいで」
ベッドに先に入り、毛布の一端を上げて、黒羽が誘う。黙ってその右隣に横たわれば、寝台を満たす黒羽の香りが、新一の肺の奥まで緩やかに流れ込んでくるのだった。
この圧倒的な南国の香りにも、少し慣れた。黒羽が側にいることを教えてくれるこの香りが、新一は好きだった。
黒羽の右手が、毛布の中で新一の左手を探り当ててくる。
「……別に工藤が夜、風呂に入りたいなら用意するぜ? そんなことで遠慮すんなよ?」
穏やかに言われて、新一は枕に頬を埋め、首を振った。黒羽がこちらの体臭を気にしないと言うのなら、別に構わないのだ。
「朝の風呂……気に入ってるから、いい」
「……そか。お気に召したようで何より」
黒羽はどこか嬉しそうな声音でそう呟いて、目を閉じた。
「おやすみ、工藤」
囁く黒羽の声が、一日を終わらせる。おやすみ、と返事すれば、仰向いたまま微かに黒羽の唇が笑みを形作り、そっと手が離れていった。
ここ数日間、新一を焦らすように思わせぶりな触り方をしては、抱き枕よろしくこの身体を抱いて寝ていたというのに、今日はどうやら、ロクに触れもしないようだ。
(……わけ、わかんね……)
別にこの身体が不快な匂いを放っているわけではないなら、黒羽のこの態度の違いは何なのだろう。結局、調理場で避けられた理由もはぐらかされたままだ。
(セックスする日以外は、『抱き枕』も要らねえってか)
触れられぬことを、どこかで不満に思ってしまう自分が何より、痛い。寝るときに身体が他人に触れられているなんて煩わしいだけじゃないか、今日は思う存分のびのびと寝られる……そう己に言い聞かせても、頭の何処かで黒羽の態度が納得できないままだ。
黒羽快斗という存在は、いまや新一にとって、ひどく難解な謎なのだった。
(くそ……)
寝返りを打って、黒羽に背を向ける。
普通に眠ることが物足りないほどに黒羽の体温に馴染んでいる自分も怖ければ、黒羽に抱かれて狂乱に酔い、あれほどに人の背を傷つけてしまうことも、怖かった。
ざぁぁぁ、と黒い波が崖下で砕け散っては、今夜も終わらぬ唄を低く歌っている。
* * *
晴天は続いた。
城は広く、管理するだけで一苦労だ。洗濯の合間に薪を運び、料理、洗濯、掃除に加えてココヤシの葉を編んで施設の一部を葺き替えしたり、水をモーターで給水塔にくみ上げたり、鳩の世話をしたり、温室の管理を行う。瞬く間に一日一日が過ぎていく。
黒羽はその間にも、数時間はマジックを考案する時間を設けていてさらに多忙だった。少しでも力になりたくて、その間は一人で城の管理をしたいと申し出たが、却下された。
どうしても、黒羽は新一を一人にはしたくないようだ。自分が側に居られぬ時は、必ず新一を書斎に繋いだ。
ごめん、とは一言も言わぬ黒羽だったが、その瞳は新一を鎖に繋ぐ度に苦しげに歪んでいたから、新一も何も言わずに鎖に繋がれることを許容していた。
「今日は何すんだ?」
抜けるような青空の下、瞳を輝かせて新一が問えば、黒羽は苦笑しつつも今度はクーラーボックスを城の倉庫から持ち出してきた。
「お望み通り、働いて頂くとしましょうか。昼過ぎには城に戻れるように頑張ろうぜ」
「おう。任せろ。何処いくんだ?」
「海。こないだ約束したろ?」
イセエビ捕獲が今日のミッションだった。
今日は十分陽も出ていてからりと暖かい。下は水着、上はシャツ一枚を羽織って、この間の浜とは違う城の北西へ移動し山を下りてゆく。小さな浜に辿り付くと、そこには海に向けてごつごつした岩礁地帯が広がっていた。
晴れた海は群青に輝き、潮風が心地よい。岩場のすぐ近辺あたりだけは浅瀬で、透明度のある水が燦めいては、白い波しぶきになって砕け散る。
シャツは脱いで木に掛け、差し出されたマリンシューズと手袋 を身につけて、岩場へ向かった。
「なぁ、イセエビって釣り竿とか無くていいのかよ」
「いらねー」
黒羽はそう言いながら、無造作に歩いて海に入っていった。岩場の中で足場をみつけて立ち、屈んで岩の一つをぐいと手で持ち、ひっくり返してゆく。
「ほらな」
ひょいと海の中に手を突っ込んだ黒羽が、見事なイセエビを掲げてみせた。空中でバタバタと足を動かして暴れるイセエビはなかなかのサイズだ。
「うわ。マジか」
「言ったろ。魚釣るより簡単だって。岩や珊瑚の隙間にごろごろ居るぜ」
新一も海に入り、黒羽の見よう見まねで岩をひっくり返していく。すると本当に驚くほどにイセエビたちが潜んでいて驚いた。
「すげぇ……え、なんでこんな居んの?」
「島でこれ食うの、俺だけだから」
既に2匹目のイセエビを捕獲し右手に持った黒羽が、浜においたクーラーボックスに獲物を入れに行きながら答える。一瞬驚いたものの──新一はあぁ、と声を漏らした。
「宗教の規定か。確か──」
事前に調べていた島の情報を思い出しながら、新一が宗教の名を口にすれば、
「正解」
頷いた黒羽が浜から引き返してくる。さらに新一が捕まえたイセエビをも面倒見よく引き受けて、また浜に引き返していった。
「ここの住民はみんな宗教上の規定でイセエビは食わねえの。最初のころ島の人間に笑われたぜ。こんなの食べるのか、って。でも、ありがたいことに彼らは、他国出身の人間に自分たちの宗教を強要したりはしない。だから、俺は自由にさせてもらってる」
「なるほど……」
日本人にとっては宝の山だが、島の住民にとってはただの海の生き物でしかないらしい。
信じがたいほどあっさり獲れるし嵩張 るので、あっという間にクーラーボックス一杯になってしまう。そろそろ引き上げようかという頃、それは起こった。
「うわっ」
突然、黒羽が声をあげた。驚いて振り向けば、珍しく黒羽が岩場でバランスでも崩したのか、岩場にへたり込んでいる。
「黒羽、大丈夫か?」
ちょっと尻餅をついただけだろうと思ってのんきに声をかけたが、ふと違和感に気付いた。黒羽の表情が硬い。その顔が見る間に青ざめてゆくのが解った。
「……おい。黒羽? 黒羽、どうした?」
自分も岩場の上でバランスを崩さぬように気をつけながら、黒羽の側へ歩み寄る。見れば、岩を掴む黒羽の手が微かに震えていた。
「!? どうした黒羽。何かに刺されたのか!」
ぎょっとしてかがみ込み、黒羽の肩に手を添えて軽く揺さぶる。瞳孔をとっさに確認した。焦点は一応合っているようだ。
「黒羽! おい、返事しろ!」
「大、丈夫……」
やっとのことで黒羽が返事をしたものの、その声は尻すぼみに震え、いつもの力強さがない。
「何かに噛まれたり刺されたりしてねぇか?」
「……違う」
やはり小さな声で黒羽が答える。しかし顔色が悪い。新一は手を伸ばし、そんな黒羽の手をグローブ越しに掴んだ。もしかして今まで口に出さなかっただけで、持病でもあるのかもしれない。
「とにかく一度浜に上がるぞ! 歩けるか黒羽」
「……あぁ」
掠れ声の黒羽を、なんとか立たせた。肩を支えようとしたが、大丈夫だと答えた黒羽がふらふらと自力で歩き出す。だがその歩みも普段の力強さがなく、あまりにも心配で、新一は黒羽の手をしっかりと握りしめて浜まで同行した。
浜まで上がると、クーラーボックスの隣に黒羽は力尽きたようにへたり込んでしまった。膝頭に腕を置き、頭をうなだれるようにして荒い息をついている黒羽の隣に座り、新一は顔を覗き込んだ。
「黒羽、本当に大丈夫か? 何があった?」
グローブを脱ぎ、その裸の背を、手で丁寧に撫でてやる。なるべく落ち着かせるようにして言葉を待っていると、やがて黒羽がはぁ、と大きな息をついてグローブを脱ぎ捨てた。
「……わりぃ」
「いや、良いけどさ。何があったんだよ……? 病気か?」
静かに尋ねれば、黒羽は首を横に振った。しかしその後で、あー、と小さな声を上げた。
「まぁ……病気っちゃ、病気かもしんねーけど」
「持病か?」
「まー。そうだな」
丸めた背が、くっと揺れた。黒羽が顔を上げる。その口元に、自嘲じみた笑みが浮かんでいた。
そういえば──今、黒羽の左側に自分がいることに、新一は気付いた。
眼帯に隠されていない、左の横顔が露わになっている。表情が、今はよく見て取れた。
「言いたくないなら無理に聞かねえけど、持病の類いはお互い隠し事はなしにしたほうがいい。こんな島暮らしじゃ、薬もすぐには手に入らないんだし、何かあった時の為にちゃんと知っておきたい」
真面目に言い募る新一をちらりと見やり、黒羽はすぐにまたうなだれた。
「……いや、その。ごめん。そこまで真面目に言われると逆に申告しづらいんですが」
ぼそぼそと黒羽が言う。
「おう。なんだ?」
「…………えー……そのぉ……」
がり、と頭を掻いて、黒羽が小さな声で呟いた。
「実は、その」
「うん」
「…………苦手なんだよ」
小さな、小さな声で黒羽が言う。苦手? 何が苦手なんだろうか。
息さえ殺して必死に聞き耳を立てていると、やがて、俯いた黒羽がぼそぼそと告げた。
「その。まぁ。なんというか……魚が、苦手で……」
「…………え?」
「カニとかイセエビは平気なんだよ。貝もイケる。でも、その、魚だけは……苦手で」
「え?」
いや、きちんと声は聞こえたのだが──思わず聞き返してしまうほど、それは想像の斜め上を越えていた。魚? 魚が苦手だと聞こえたが。
「ええと……何の魚が苦手なんだ?」
何か特定の、とてつもなく苦手な魚に出くわしたということか──そう思って問えば、黒羽は緩く首を横に振った。
「そうじゃなくて」
「うん」
「『魚』が苦手なんだよ」
「んんっ?」
今度は新一が固まる番だった。
「昔はもっと酷かったんだぜ。触るのなんかもっての他だし、食うのも見るのも駄目だった。だから水族館とか俺には地獄巡りのようなもんだったぜ」
「…………ええ……? いや待てよお前今まで魚介類普通に食べてただろ! てか魚が嫌いでここで生きていけんのか? 島の周り魚だらけじゃねーか!」
「だ・か・ら! 訓練したんだよ!」
ようやく黒羽の声に、普段の力強さが戻ってきた。見れば、顔色も蘇ってきている。
「この島に移住する前に、2年かけて克服したんだよ……」
「……マジか」
「マジで」
まさに死んだ魚の目で、黒羽が過去を思い出したか、はぁ、と深い溜息をついた。
「まぁ、なんとか……心の準備さえすりゃ、海で泳ぐことぐらいはキッドやってたときも出来たんだよ。2年かけて訓練して、切り身の魚は食べてみたら普通に美味かったから食えるようになったし、調理も出来るようになった。死んだ魚なら捌くことも出来る……」
「お、おう」
死んだ魚って。オイ。
言いようというものがあるだろうと思ったが、黙っていた。黒羽は必死なようだ。
「でも、やっぱ不意打ちが駄目なんだ、生きてる魚の不意打ちは……だめだ……」
片手で頭をがり、とまた掻いて、黒羽はこちらをむっつりした表情で上目遣いに見やった。
「笑っていいぜ。いい歳した男が魚が怖いなんて。今まで釣りも全部寺井にしてもらってました!どうせ俺はイセエビ専属係でした! 可笑しいだろ! 笑えよ!」
やけくそのように叫んでそっぽを向いた黒羽の頬が、羞恥で、ほんのりと紅い。
あっけにとられ、新一はやがてくすくす笑い出した。
「いや、うん、ごめん。でもいいんじゃね? 誰でも苦手はあるって!」
「うっせ! じゃぁ工藤にはなんか苦手があんのかよ! こう、生活において重大な支障をきたすような苦手が!」
「え……」
そんな深刻な苦手なんかあったっけ、と遠い目で考え込み始めた新一をどこか恨めしげに見つめ、オメーはそういうヤツだよ……と黒羽がぼやく。
むくれた黒羽の横顔をみやり、新一はまた微笑んだ。
「いいじゃねえか。オメーにもそんな苦手なことあるんだなって知って、俺はなんだかほっとしてるけどな?」
「……!」
新一の囁きに、黒羽は左眼を見開き、そしてじわりと目元を染めた。口元を片手で覆うようにして、くそー、と呟いている。
「一生の不覚だぜ……」
ぼやく黒羽は本当にきまり悪そうだったが、新一にしてみれば、驚きが過ぎ去った後に残ったのは、ただひたすら、温かな想いだけだった。
もう数年間もこんな暮らしを続けてきたのだから、確かに魚を料理するぐらいは平気なのだろう。けれど、それでも不意打ちで生きた魚に出くわすだけで体調まで悪くなるほど苦手なのに、新一が行きたい、といった漁にこうして連れてきてくれたのだ。
(……あの時、オメーはすごく嫌々了承してくれたみたいに見えたけど……)
新一が逃げることを危惧して嫌がった、というよりは、むしろ自分がみっともない姿を曝すことを恐れていたのかもしれなかった。だとすれば随分申し訳ないことをしたなと思いつつも、新一はやはり嬉しかった。
こんなことでもなければ、見ることのなかった、黒羽快斗の素顔に触れたのだ。
今まで年齢に不相応なほどに全てが完璧にみえていた黒羽にこんな一面があったのだと思うと、急に黒羽もまだ20代の男に過ぎないのだなと思える。
立てた膝の上に腕を組んで置き、その上に頭を乗せるようにして下から黒羽を覗き見るようにして、新一は目を細めた。
「ほんっと、かっこつけだなオメーは。それぐらいいいだろ。俺なんかどんだけお前に今までみっともない姿見られてると思ってんだ」
「……?」
黒羽は、何を言われたのか解らないといった怪訝な顔つきで眉をひそめた。
「工藤が? いつ?」
「は?」
真面目に問われて、新一はあっけにとられた。こいつは本気で言っているのか。
「……よく言うぜ。人のこと散々抱いといて」
「?」
本気で解らないという表情にいい加減腹が立ってくる。カッと羞恥で頬が染まった。普段嫌というほど頭の回転が良いくせに、こういうときに限ってその頭は役立たずなのかと罵りたくなる。
「オメーな! 全部言わせねえとわかんねえのか!」
「……あぁ」
漸く黒羽にも合点がいったのか、にやりと意地悪い笑みを浮かべた。
「みっともない姿って……そういうこと」
「言うな! くそ」
「言い出したのはそっちでしょうが」
「煩い黙れ」
むっつり黙り込んでそっぽを向けば、不意に新一の後頭部を、黒羽の大きな手が穏やかに撫で下ろした。
「あれはさ、みっともない姿なんて言わねえんだよ。淫靡でやらしくて妖艶かつ官能的」
「だあああああああ! もう言うな黙れ!」
「工藤は、いつでも美しい」
静かな声に、一瞬、絶句した。
(オメーはほんと、そういうとこだよ……)
もう黒羽の方を向くことが出来ない。昔からさらりと気障なことを口にする男だった。正に口から先に生まれてきた男に違いない。
「眩しいほど、綺麗だ」
後頭部を撫でる手が、今度はゆっくりと新一の右耳を弄り出す。甘く慈しむようなその優しい指先で耳朶を触られ、ふと体温が上がってゆく気がして、新一は焦った。
「そういうのは女に言え。バーロー」
「何故? 工藤の美しさに敵うヤツはいねぇよ。男でも女でも」
「はぁ? 悪いものでも食ったのかオメー……寒イボ立ったぞ」
「ひでぇ」
黒羽が喉奥で笑う気配がした。
「第一、セックスしてるときの姿がみっともねぇっていうんだったら、俺のみっともない姿も工藤はしっかり見てるだろ。おあいこだ」
などと黒羽は言うが、新一は呆れるしかなかった。慰めになっていると思っているのか。黒羽に組み敷かれて股を広げ情けなく喘いでる自分と、こっちを組み敷いて雄の顔で征服する黒羽の姿を、同じレベルで考えられるわけが無い。
「……オメーのどこがみっともねぇんだよ」
「あれ? 見惚れちゃうほど格好いい? まぁそうだと思ってたけど」
「あーくそ! 自分でいうな腹立つなぁ!!」
腹いせに黒羽の手を払いのけてやる。相変わらず喉奥でくっくっと笑い続けている黒羽をじろりと睨み付け──だが、内心で新一は安堵した。
(……もう、顔色、良くなったな)
先刻、耳に触れてきた黒羽の手。体温も戻っていたし、震えも無かった。いつもの調子を取り戻したようだ。
「なぁ。黒羽。これから、魚釣りは俺がやるよ。捌くのも俺がやる。捌き方、教えてくれ」
何気なく新一がそう告げた時だった。
「工藤……」
黒羽の隻眼がふわりと見開かれたかと思うと、その顔から笑みがゆっくりと拭い去られていった。
「……まで?」
掠れた声で、黒羽がぽつりと問う。
ざぁぁぁ……、と一斉に森の木々が強く揺れて、その声を掻き消した。
「え?」
尋ね返した新一を、感情を無くした隻眼が、ひたりと捉えた。
「お前が言う『これから』は、『いつまで』続く?」
ひそりと尋ねた黒羽の声に、新一は思わず絶句した。
と──風が強く吹いた。本当にそれは突然だった。背後の森が一斉にざわりと揺れて、鳥の鳴き交わす声が急に鎮まってゆく。空気の色が変わった。
「あ」
「うわ」
同時に振り向いて空を仰ぎ、二人は愕然とした。話し込んでいて気付かなかったが、背後から雨雲が押し寄せていたのだ。既に二人の背後の空は真っ暗だった。
「やべ」
「来る」
黒羽が新一の手を取り、素早く立ち上がる。浜の横にある小さな作業小屋の軒先に駆け込んだが、間に合わなかった。いきなり空をひっくり返したような勢いで降り始めたスコールは、ほんの一瞬で全身をずぶ濡れにした。
もとより上半身は裸、下半身は水着姿だから、濡れても差し支えない格好ではあるのだが──この時期のスコールは山伏の滝行かと思うほど冷たい。おまけに木に掛けていた上着もびしょ濡れだろう。このまま城まで帰るとなれば、いくらスコールのあとに快晴になっても、森を抜ける間は木陰が続くから相当凍える。
「くそー濡れたか」
「しゃあねぇな……」
息を切らしつつ、狭い軒先で黒羽が片手で小屋のドアを弄る。外開きの扉を開いて、新一に入れ、と指示してきた。しかし小屋の中は、入り口付近まで様々な漁に使う道具が収納されており、人ひとり滑り込むのが精一杯といった狭さだ。
とりあえず新一は足場を探して中に2歩踏み込んだ。身体を反転させ、壁に腰を預ければ、なんとか黒羽も上半身ぐらい中に入れられる空間は確保できた。足周りはスペースがほとんどないが、モノを少し横に退ければ足を入れられるはずだ。
「お前も入れよ」
足元の木箱や網を、マリンシューズを履いた足を使って横に退けながら声を掛けたが、黒羽は扉の向こうで、身体半分を苛烈なスコールに打たれたまま首を振った。
癖のある彼の柔らかな髪から、雫が落ちてゆく。
雨が弾丸のように叩きつけるスコールは身体に痛いほど突き刺さる。今の時期、ずっと雨に打たれたままだと急激に体温を奪われるというのに。
「いい。狭いしどうせ一人しか無理だ」
黒羽が言う。
む、と新一は眉をひそめた。最初から新一だけ雨宿りさせるつもりだったのか。
「でもこうして避ければオメーも身体半分ぐらい入るって! 扉開けっぱでいいから上半身だけでもこっちに突っ込めよ!」
「いい」
何故か頑なに拒否して、雨に打たれれば痛いであろう顔を、わざわざ小屋の外に向けてそっぽを向いた黒羽の背を見た瞬間、ざわりと胸の中で昏い感情がうねりを上げた。
まただ。
理不尽に、距離を置かれた。先刻まで感じていた気安さはもう綺麗に失せている。新一を拒絶するその背が激しい雨に打たれるのを見ていたら、不安を通り越して一気に腹が立ってきた。
「いい加減にしろ!」
その右腕を背後から掴んで、思い切り引っ張った。バランスを崩した黒羽が振り向きざま、焦ったように腕を突っぱねる。危うく新一にぶつかりかけたが、背後の壁に腕を突っぱねるようにしてなんとか上半身を支える格好で、黒羽が停止した。
だんっ、と黒羽の腕が小屋の壁を叩くように突っぱねた音が響き渡った。
半分閉鎖空間の小屋の中──水に濡れて湿った黒羽の身体から、息の詰まるほど濃厚な花の香が押し寄せてきて、一気に新一の鼻腔 を満たす。突然小屋の中が黒羽の存在に空気ごと染め抜かれ、不意打ちに心臓が跳ねた。
裸の背に、小屋の木目が食いこんで、ざらりと擦れた。
息もかかるほどの距離で、剣呑な眼差しで新一を見据えてくる、黒羽の瞳。僅かに熱を孕んだそれに滲むものは怒りだろうか。
だが負けていられるかと新一は己を叱咤した。知ったことじゃない。
己の前髪からも水滴が滴り落ちて、目に流れ込んでくる。少し沁みる水分を瞬きで強く押し出して、新一は黒羽を見つめ返した。
「……なんで俺を避けてんだかわかんねえけど、この際、俺が嫌いでもなんでもいい。こんな時ぐらい意地張ってねえで雨宿りしろっての!」
「……っ!」
新一が怒鳴り終わるのと──黒羽が一歩、小屋の中に足を踏み入れるのはほぼ同時だった。
右の壁板を、だんっ、と音を立てて黒羽が改めて拳で叩く。一瞬、身体が不覚にもびくりと揺れるほどの迫力だった。
「避けなくていい? そりゃ有り難いね。場所も時間も構わず工藤を抱き潰しても構わねえってならそうするけど?」
両腕で新一を囲い、低く黒羽が凄んだ。
世界を満たす雨音の中、黒羽の何処か荒い吐息が、小屋を震わせた。
「……え?」
「こんなところで、ローションもなく俺に犯されたいのか」
黒羽が獰猛な眼差しで、そっと囁く。雨に冷えかけた肌が強制的にぞくりと粟立つほどの、それは淫蕩な囁きだった。
「お前と一緒に居るのはただの狂人だぜ、工藤。まだわかんねぇの? 隙あらばお前を鳴かせたいと思ってる狂人が、一応まがりなりにも気を遣ってんだよ」
「な……っ」
深く燦めく蒼紫の瞳に、今度こそあからさま欲を滲ませ。
「……あんまり所構わず、俺を煽るな」
瞼をつと伏せて、黒羽が新一の左耳を舌でぬるりと舐 った。
野生の獣にも似たその舌使いに、反射でぎゅっと身体が強張る。そんな新一の反応を意地悪く鼻で笑って──黒羽は一気に腕をバネのように使って己の身体を新一から引きはがし、斜めに倒れ込んでいた身体を起こした。
小屋から一歩、足を抜く。半分小屋の外に出てしまった黒羽の身体を、再び、冬のスコールが容赦なく打ちのめしていく。
止める間もない。
ドアは外から閉ざされ、新一はひとり、花の香が残る小屋の中に取り残された。
(……く、そ……っ)
嬲られた左耳が、ひんやりと気化熱で冷えてゆく。思わぬ熱を点された身体の芯が淡く疼いて、少し辛い。ぐっと眉をひそめ、新一はただ己の左肘を右手できつく掴むようにして耐えた。
(そういう、理由、かよ……)
感情が、自分でも定まらない。ただただ頬がじわりじわりと紅潮してくるばかりだ。
煽ったつもりなどない。それでも煽られたと黒羽が言うなら、それは。
……舐られた耳が、じん、と疼く。
黒羽に、これほどまでに欲されている。
そのことに根の深い歓喜を覚えてしまうようになったこの躯 は、この想いは、一体何処に辿り付くのだろう。
『お前が言う「これから」は、「いつまで」続く?』
確かに、黒羽はそう尋ねた。
(もう二度と離さないって、この首に鎖を繋いだのは、お前なのに……黒羽……)
未来を想像できない、これはまるで飯事 のような生活だった。
観光客に過ぎない自分に許された滞在期間は、90日。それを過ぎれば、何も連絡しない限り日本では警察につてのある知人たちがそれぞれ自主的に捜査を始めることだろう。たとえ新一がきちんと日本の知人と連絡をとって無事を告げたとしても、オーバーステイの問題も生じる以上、一度も日本に戻らずに済ませられるとは思えない。
そんなことは黒羽だって解っているはずだ。
遠い未来どころか、たった3か月先のことすら、まだ二人の間で言葉に出来ずにいる。黒羽の中には黒雲が今も渦巻いていて、その胸の中に豪雨の降る大地があるような気がしてならない。
黒羽はその止まぬ雨の中に、未だ新一を招き入れてはくれないのだ。
開かなければいけない扉は、恐らくもう、一つだけだというのに。
(なぁ黒羽。俺もお前も、その扉に一生触れずに過ごすことなんか出来ねぇって……解ってるんだろ……?)
閉ざされたドアの向こうで、ひたすら弾のような雨に打たれ続ける黒羽の気配を感じながら──新一は、微かな熱を帯びた吐息を零した。
* * *
人生で初めて手で掴み取りしたイセエビは、次の日、なんと粥にアレンジされて運ばれてきた。どうせならシンプルかつ大胆なローストやら刺身、殻ごと盛り付けホワイトソースやチーズをかけて仕上げたテルミドール的なものをがっつり食べたかったが、状況がそれを許さなかった。
「わりぃ……」
黒羽に肩を抱かれ、ベッドの上で半身を起こした新一は小さく詫びた。うとうとしているうちにもう昼時だった。
雨宿りさせてもらったのは自分だというのに、城に帰ってみれば風邪を引いたのは自分の方だったなんて、情けなくて仕方が無い。
「いや……俺のせいだ」
新一の背に大きめのクッションを挟み込んで支えを作りながら、黒羽が小さく呟いた。
「スコールが来ることにもう少し前に気付いていれば、工藤を濡らさずに済んだ……」
「なんでそうなる」
熱のせいで若干ふらつく。腫れた喉から絞り出した声は見事に掠れ、殆ど声になっていなかった。
黒羽が、水差しから汲んだ水を差しだしてくる。緩慢な動きしか出来ない新一が、両手でグラスをしっかり掴むまで、包み込むように上から支えながら待ってくれる。
少し水を飲んで、新一は重い瞼をぱたり、と瞬いて黒羽を見つめた。
「お前のせいでも、なんでもねぇだろ……てか、黒羽はなんともねぇの?」
「スコールには慣れてる」
平然と呟き、黒羽が目を伏せ、小さく笑んだ。
「ま、鍛え方が違いますから」
「くっそー……」
悔しさに唇を尖らせていると、黒羽がエビ粥をスプーンに掬い、自分で息を吹きかけて冷ましたものを差しだしてきた。
「ほら」
「……自分で食うよ」
「これは俺の趣味」
真顔で言われてしまうと抗う気力も失せた。
(どんな趣味だよ……)
とにかくこっちは発熱していて、言い争う気力もない。どうにでもなれとばかりに唇を開けば、黒羽が丁寧に粥を注ぎ入れてくれる。イセエビの粥なんてびっくりするほど贅沢だなと頭の片隅で感動しながら味わった。しかもこれが日本米だったから二重に驚いた。
日本人からすると瓜にしか見えないキュウリも一口大に刻まれ、一緒に煮込まれている。透き通ったキュウリがダシを吸い込んでいて、柔らかくてのどごしもいい。
「美味い……」
口の中でぷりっと弾けるイセエビのうま味は粥自体にも十分に溶け出していて、堪らなく美味しい。食べる前は食欲が無かったのに、一口食べるともう止まらなかった。
結局黒羽が用意した分は全て完食してしまった新一を見て、黒羽がどこか満足げに微笑んだ。
「……よく出来ました」
完食して偉い、とでも言いたいのか、頭を撫でてくる。
(なんだよ……子供扱いかよ)
少し恥ずかしいが、黒羽にこうして頭を撫でられることも触れられることも、嫌じゃないから困ってしまう。
「熱冷ましな」
「ん」
白湯と薬を差し出される。やっぱり今度も、新一がしっかりとグラスを掴むまでこちらの手ごと包みこむようにしてグラスを支えてくれる。その黒羽の手が、とても心地よい。熱を孕んでいる自分の手より、少し体温の低い黒羽の掌が嬉しかった。
薬を飲んだ後、黒羽が背面のクッションを抜いてくれるのを、ぼんやりと見ていた。胃に急激に血が回って、ふわふわと覚束ない感覚が強くなっている。
「ほら。もういいぜ」
黒羽が新一の身体を支え、ゆっくりとベッドに寝かせてくれる。その甲斐甲斐しさに、ぼんやりと精彩を欠いた意識が甘く疼いた。
(何なの、お前さ……)
ひどく甘やかされているような気がして、眼球の奥がぐっと熱く滲んだ。
自分を狂人だと言い、新一を冷たく遠ざける黒羽は、今は居ない。
「もうしばらく寝とけ。また2時間ほどしたら様子見に来るから」
そう言いつつ、こんな病人相手であろうと足枷に鎖をつけることは忘れない黒羽の動きには、溜息が零れたけれど。
「なんか欲しいもの、あるか?」
再び枕元に戻って椅子に腰掛け、黒羽が問う。その左手がタオルで新一の額の汗を拭いてくれた。
欲しいもの。なんだろう。回らない頭で考えようとするが、思いつかなかった。
氷枕もあてがってもらった。水も飲ませてもらった。腹も満たされた。薬も飲んだ。これ以上必要なものなんてあるだろうか。
無い、と言おうとして、ふと胸が詰まり、新一は静かに瞼を閉ざした。
──命に必要なものと、心に必要なものはきっと、重なるようで少し違う。
額を拭う黒羽の手を、毛布から手を出して探る。握りしめれば、黒羽の動きがはたと止まった。
「……オメーの、手……」
「──」
「きもち、いー……」
手の冷たい人は、心の優しいひと。
そんな、科学的根拠など一切ない馬鹿げたフレーズがふと頭に浮かび……そして消えていった。
* * *
一方──快斗は固まっていた。
手を、動かせなくなった。工藤がしっかりと握りしめている。
(どうしろってんだ……おい)
欲しいものを聞いたら、手を掴まれた。あまつさえ気持ちいいなどと呟いて、本人はそのまま夢の国をたゆたい始めたらしい。規則正しい寝息がすぐに響き始め、内心快斗は白旗を揚げた。
多分、熱のせいで自分が何をしているかも自覚がないのだろう。熱が39℃ほどあれば、平熱であるこちらの手は少し冷たく、心地よく感じるはずだ。
そうやって冷静に工藤の行動を判断しながらも、胸の奥がふと熱くなる。工藤に求められているような気がして、その手を振り払うことがどうしても出来なくなってしまった。
「……ったく……」
握られたのは、左手だ。きゅっと両手で快斗の左手を握りしめ、口元に押し当てるようにして眠り始めた工藤の、少し苦しげな呼吸音が可哀想だった。
もう少し早くスコールの襲来に気付いていればと、悔やんでしまう。きっとこの城に来てから、工藤は慣れぬ生活と監禁という二重の衝撃の中、張り詰めた緊張を保っていたはずだ。きっかけがあれば、糸がふっつりと切れるように容易く体調を崩すのは想像できていた。この時期の雨は身体を冷やすから、いつもは出来るだけ空には注意を払うようにしていたのに──不覚だった。
鼻が詰まって、口呼吸しか出来なくなった工藤の微かに開いた唇が、熱のせいで少しかさついている。だがその口元には己の手があって、角度的にキスが出来なかった。
己の中の衝動を宥めるように、工藤の頬にそっと口づけてみる。しっとりと熱を帯びたその頬からは、甘い汗の香りがした。
そっと、握りしめられた己の手指を動かす。中指を伸ばせば、指の腹が工藤の唇へ触れた。
柔らかく指先が沈むその感触に、胸が震える。このまま無条件にただ優しく、ひたすらに甘やかしてやれたらどんなにか、と疼く胸の片隅で、思う。
不謹慎だが──このまま、病気の工藤をずっと面倒を見続けるなどという、甘美な妄想も悪くないと密かに思ってしまう。抗うことも出来ない工藤を1から10まで面倒を見て、食事を与え、汚れた口元を舌で拭って、汗ばむ身体を拭いてやり、下の世話まで。
……重症だ。
はは、と思わず乾いた笑いを零し、快斗は思い悩んだ末にそっとベッドサイドに腰掛け、毛布の端をめくって広いベッドの隅に滑り込んだ。掴まれた左手を動かさないように努力しつつ、左を下にして向かい合うようにして添い寝すると、端正な工藤の顔がよく見えた。
彼の群青の瞳がひとたび開けば、己の中の醜悪なものなどただの一つも隠してはおけない、そんな気がして──普段は長時間、見つめることの出来ないその顔。
綺麗だとか美しいとか。この造形を結局そう言い表すことしか出来ないのだから、IQ400もたかが知れている。工藤を見ていると、本当に心からそう思う。
(どれも、陳腐な言葉だ)
工藤の裡 から溢れ出す光の清冽さを、今の自分は昔より鋭敏に感じ取れる。つまりそれは、己の闇が以前よりも色濃くなってしまった証明でもあるのだろう。
何一つ断罪する気のない工藤の眼差しが、それでもなお、今の自分には眩しすぎる。
『……だめだよ。本当にどうにかなったら、きっとそいつを泣かせてしまうよ、マリィ……』
かつてフランスの片田舎で出会った少女に、そう告げたことがある。
(やっぱり、泣かせちまったな……)
薬で朦朧とさせ、快楽の坩堝 へ叩き堕とし、散々泣かせて。
そうまでしてもこの光を側に置くのなら、覚悟しなければいけないことも、知っていた。
撃っていいのは撃たれる覚悟のある者だけだというのなら、
灼かれる覚悟が、己には必要だった。
太陽に焦がれて、その熱に灼かれ堕ちた、イカロスとなる覚悟が。
05 ラヴレター
風邪も癒えて、島での暮らしを穏やかに続けた。
夜になれば、書斎のベッドや薔薇の咲き乱れる温室で、爛れた交歓は続いた。
どんなに新一が拒んでも、必ず黒羽は新一に花の香が漂う薬を飲ませ、セックスは夜半まで続いた。時には黒羽も同じ薬を飲んで、お互いどろどろになるまで欲を放った。
精根つきるまで、という言葉があるけれど、黒羽とのセックスは新一にとって正にそうだった。絶頂に放り込まれると、もうそこから後はずっと頂きをたゆたいながら突き上げられ、麓には下ろしてもらえない。何度も達していつの間にか意識が途切れると、気がつけば明け方だ。
「……工藤、工藤……」
静かに揺り動かす黒羽の声で目覚め、部屋着を纏って部屋を出る。
手は繋ぐ。もう癖のようなものだった。何処かへ向かうときはいつも、手を繋いだ。
そうして塔の上まで登り、まだ暗いバスルームでシャワーを浴びる新一の背後で、黒羽が風呂釜に火を入れ、湯を作ってくれる。ココヤシファイバーの茶色い繊維を使って瞬く間に火を熾し、黒羽が用意してくれる風呂は、小さいけれど世界一美しい景色を新一に見せてくれるのだった。
絶海の孤島、その夜明けは、世界の全てが染め上げられるような真っ赤な朝焼けを連れてくる。
徐々に白んだ空は、急激に深紅の太陽で水平線から膨れあがるように染められて、命を燃やす赤光 に輝く。遮るものの無いその光景は、見渡す限り全てが水平線と、燃える空、そしてその空を映してやはり紅く燃え立つ海の共演だ。
少し太陽が昇れば、空は急激に澄んだ青を取り戻してゆく。そうして、太陽が差しのべた金色の梯子にも似た光が、凪いだ海に煌めきながら城へと真っ直ぐに伸びてくるのだった。
ちゃぷ、と水面を揺らし、新一は温かな石造りの湯船に身を任せる。丁寧に磨かれ計算し尽くされたそのカーヴに首を委ねるようにして背中をもたせ掛ければ、湯量は少ないのに、全身が心地よいぬくもりに包まれる。
窓外に広がる朝の海を見つめ、湯に癒やされながら、新一は静かに瞳を眇めた。
お互い、核心にだけは触れずに過ごす日々だった。口に出せない思いを守るように、探るように、育てるようにしてここまで来た。
大きな波がくれば、容易く崩れる砂の城だと知りながら、それでも。
そろそろ、1か月が経とうとしていた
* * *
9月下旬──珍しく2日ほど雨の降り続く中、その日はやってきた。
その日、朝食が終わると、黒羽は新一を書斎に連れて行った。新一をベッドに座らせ、即座に足枷に鎖を繋ごうとした黒羽の手から逃れ、咄嗟に左足をベッドの上に引き上げると、新一は足枷を己の手で覆った。
しゃら、と手の中で、アンクレットがくぐもった音を立てた。
「黒羽。今日の予定は?」
ベッドに横座りした姿勢のまま静かに尋ねた新一を、闇夜のような黒羽の瞳が、ぬるりと見下ろした。
「……仕事だ」
既に黒羽の姿は、一か月ぶりに見る『仕事着』だった。シャツも普段から好んで着ている、袖がひらりと遊ぶブラウスシャツではない。糊の利いた仕立ての良いシャツに黒のベストを合わせている。下も、綺麗にプレスされた黒のズボンだった。
今日の10時頃、外界から船が着く。世界中からマジシャンが絶海のPhantomに会うためにやってくるのだ。つまり今から3日間は、黒羽の『仕事期間』だった。
「なら」
すっと大きく息を吸った。そして吐き出す強さで、告げた。
「俺にもその仕事風景、見せてくれよ」
「……」
ぐっと黒羽の眉根に、深い谷間が刻まれる。構わずベッドから立ち上がり、裸足のまま黒羽の前に改めて立ち、新一は告げた。
もう折れるつもりはなかった。
「お前が、この10年どう生きてきたのかを、俺に見せてくれ、黒羽」
なおも畳み掛けた。
黒羽は黙っていた。冷たい濁流にも似た黒羽の沈黙が、新一に重いプレッシャーを与えてくる。その見えぬ濁流に足をとられぬよう、新一は歯を食いしばり、その圧力に耐えた。
やがて、黒羽が冷徹な隻眼をつと眇めた。
「前にも言ったはずだ。仕事場に来るのなら、『鎖つき』だ」
「……良いぜ」
「……!」
あっさりと非情な条件を呑んだ新一の声に、黒羽がぐっと瞠目し、絶句した。
まさか新一がずっと拒み続けていた、『鎖に引かれて移動する』という屈辱を呑むとは、想像だにしていなかったのだろう。
「お前に身体の奥まで知られている俺が、今更失うものなんかあるかよ」
「……っ」
その瞬間、貼りついた彼のポーカーフェイスが崩れ、ぼろりと内側から焦りや驚愕がこぼれ落ちてゆくのが見えた気がした。
どこか痛々しくさえ見えるその立ち姿を見つめながら、新一は静かに囁いた。
「連れていけ、黒羽。この首、自由に鎖で引くがいい」
その刹那、黒羽の手が前触れもなく翻った。
かんっ、と鋭い金属音が、己の首元で鳴った。斬られたかと思うほどの気迫が一瞬黒羽から迸り──黒羽の手に握られた鎖の一方が、新一の首枷へと繋がった。
炯々と昏く燃える黒羽の隻眼と、目が合った。
火花さえ散る、視線の交錯は──刹那。
無言のままに目を逸らし、黒羽が鎖を引きはじめる。まるで囚人のごとく黒羽に引かれて部屋を出ながら、新一はもう俯かなかった。
* * *
そこは、別棟の2Fにある大きなホールだった。おそらく城が城として機能していた頃は祭事でも行っていたのだろう。この島で行われる祭事というのがまともなものだったかは定かではないが──天井には見事なシャンデリアも燦めいていた。鎖で天井まで引き上げる形式のそれは、床まで下げることで蝋燭を灯すことが出来るアンティークなものだ。
そのホールは黒羽によって少し改造されていて、東側にマジック用のステージとして一段高い床が後付けで設 えられていた。西側は一段下がって本来の床面が露出している。
シャンデリアも、今は電球が代わりに灯されていた。
その円形ホールの南側にある小さな部屋に、新一は押し込められた。
畳1畳半といったその石造りの部屋は縦長で、床には絨毯が敷かれてあった。部屋の上部と下部に細かな黒く塗った鉄格子が嵌まっていて、格子越しにフロアの中が見通せるようになっている。
フロアからは入れない構造になっているこの部屋の内部はフロアより暗く、その為、フロアからは格子の内部は見ることができないのだった。
「いわゆる、覗き部屋ってやつだ。この城の元の主はなかなか趣味がいい。何のために作ったんだか知らねぇが、いかがわしい目的にはぴったり、ってな」
薄っすらと刃の笑みを口端に浮かべ、黒羽が呟く。
「ここで見て貰おうか」
覗き窓から差し込む薄明かりに、黒羽の瞳が不穏な煌めきを見せる。宵闇を溶かし込んだようなその隻眼に見つめられ、ぞくりと悪寒めいた震えが背を奔るのを感じた。
黒羽が、手に持っていた鎖の端を、正面の石壁に直接打ち込まれている金属の輪へ南京錠で繋ぐ。かしゃん、と不吉な金属音が小さな部屋に鳴り響いた。
鎖を繋ぎ終わった黒羽が、ゆるりと振り返る。
その左手に、見覚えのある直線的なデザインのガラス瓶がいつのまにか握りしめられているのを見て、新一の身体がぎくりと強張った。
(こいつ……!)
嫌な予感はしていたが……まさかここで飲まされるとは思っていなかった。
「どうぞ?」
当たり前のように差し出されたそれを、いつかのように叩き割ってやろうと思って振りかぶった新一の手は、しかし空振りした。ひょいと自分の頭上に瓶を持ち上げて、黒羽が瞳を眇める。
「危ない危ない。こんなとこで瓶割っちゃったら、工藤が怪我するぜ?」
「煩い! 何でお前のマジック見るのにそんな薬飲まなきゃいけねえんだよ! 必要ねぇだろ!」
「酔っ払いながら見るマジックも愉しいぜ?」
「嫌だ」
「そ」
説得するのも無駄だと思ったのだろうか。黒羽はその瓶の蓋を開けると、ぐいと中身を己の口に含み、瓶を壁の棚に置いた。
その直後、後頭部に手を差し入れられ、強引に引き寄せられた。
(……っ!)
狭い空間だ、避けようもなかった。首枷から繋がる鎖が、鋭くじゃらっ、と鳴った。
咄嗟に背けた顔を、再び手でねじ曲げられる。唇で唇を強引に割られそうになり、必死で唇を引き結んだが、今度は鼻を摘ままれた。
「ぐ……んんっ!」
両手を使って反撃しようとしたが、いつの間にか両手が背後で拘束されている。手錠か。
「ん、…………っ!」
耐えきれない。苦しさに負けて酸素を求めた唇から、強制的にとろみのある甘い液体を流し込まれた。強烈な花の香が咥内に溜まり、鼻から抜けたその香りだけで、もう酔わせにかかってくる。
甘い蜜を新一の咥内へ注ぎ入れると、黒羽はすかさず新一の頭頂部と顎を両手で押さえつけ、新一の右耳にそっと唇を寄せた。
「飲んで……工藤」
(く、そ……っ)
観念し、飲み下すしかなかった。おもむろに頭を掴んでいた手を黒羽が離した瞬間、噛みつくように怒鳴った。
「何故だ……っ! 何でこんなもの飲ませる必要がある!」
「たまにはこういう趣向も新鮮だろ?」
黒羽が目を伏せ、皮肉に笑う。全身が急激に上気していく中、新一は黒羽を睨み付けた。
「変態かよ……っ!」
「あれ? 今頃気付いた?」
愉快そうに黒羽が肩を揺らし笑ったが、その隻眼がただの一つも笑っていない。暗い鬼火を灯したような瞳で迫る黒羽が、新一を緩く抱き寄せた。
その右手が、新一の左胸をやんわりと撫で上げる。
「…………っ」
瞬間、ぞくぞくっと胸から放射状に広がる痺れにも似た快感に、新一は思わず喉を反らした。
新一の反応を見た黒羽が、ふ、と喉奥で笑った。今度は薄い胸の筋肉ごともみ上げるように、黒羽の手が下から強く、荒々しく揉んでくる。普段なら何しやがるの一言で撥 ね除けられるようなそんな動きにも、花の甘い毒に冒された躯 は容易く快感を拾ってしまった。
トロリ……
脳髄の一端が、だらしなく蕩けてゆくような感覚が……こわい。
「や……っ、あっ……」
「そろそろココも、育ってきたな……ぷっくり腫れて、美味そう……」
右の人差し指の腹で、黒羽がそっと、新一の左胸の尖りを押し潰してゆく。痛痒いような強い刺激にぴくりと躯 を震わせた新一の耳を、今度は黒羽の舌が捕らえた。
ぬるりと舐め上げ、そして唇の柔らかな粘膜で、耳朶を甘く食まれる。
淫らな水音が、鼓膜を直接犯した。
「ひっ、ぁ……」
瞬間、一気に腰が砕けた。ずるりとその場に崩れた新一を助け起こすことはせず、黒羽は何か別のものを己のポケットから取り出している。嫌な予感がして身体をなんとか起こそうとしたが、瞬間、首を背後から手でぐいと押し潰された。
「うぁっ」
手は背後で手錠によって拘束されたままでは、ひとたまりもない。俯せの姿勢で絨毯に頭を擦 りつけるようにして呻くしかない。そんな新一の背後に回った黒羽が、新一の腰を掴んで高く引き起こし、部屋着のウエスト部に手をかけた。
「やっ……やめ……っ」
ずるりと下着ごとズボンを脱がされ、一息に尻を露出させられる。新一の混乱はいよいよ深くなった。まさか仕事前に犯すつもりなのか。
(うそだろ)
必死に首をねじ曲げ背後をみれば、黒羽は予想に反してまだ綺麗に服を着込んだままだった。
一瞬ほっとしたのもつかの間──新一の腰を大きな両手でしっかりと掴み、黒羽は薄く微笑みながら唇を寄せてきた。
尻の合間へ。
「や、やめ……や、やだっ……黒羽!」
その刹那。
緩く疼き続けていた後孔に、黒羽の唇が押しつけられた。脳が白く灼けるようなショックで、全身がぞくぞくっと大きく震えた。逃げ出したいのに身体はもうロクに動かない。ぬるりと黒羽の唇が、舌が、後孔を舐めては──甘く吸い立てた。
「やだ、やだっ……やめ……やめてくれ……っ、くろ、ばぁ……っ」
信じられない。何度も手でイカされ、黒羽の逞しいモノで犯され続けた後孔だが、まさか直接舐められるなんて想像もしていなかった。
あまりのショックと、薬でおかしくなった皮膚感覚がない交ぜになって、一気にパニックが襲ってくる。必死で逃げようとする新一の尻へ、黒羽は深々と指腹を沈ませては掴みなおし、窄 めた舌を狭い孔にこじ入れては啜り立てる。
「やめ……やめろ……やぁぁ……くろ、ば、くろばっ、やだ、やだ……っ」
じゅる、と吸われる度に悪寒一歩手前の爛れた快感が、腹の奥を濡らしてゆく。嫌なのに、蕩けてゆく理性がおそろしかった。涙腺を崩壊させる羞恥は、全身を敏感な性感帯に変えてゆく。
「や、らぁ……きたない、くろば、やめ……やめろ……っ、だ、め……っ」
耐えられない、いっそこのまま消えてしまえたらいいのにと、理性の欠片が慟哭した。
「汚くねぇよ。今朝も俺が綺麗にしたろ」
黒羽がくぐもった声で答える。
そういえばシャワーの時に黒羽に今日は全身を洗われたなと、うっすら思い出すけれど何の慰めにもならない。
「で、も……っ、やっぁ、あ、あ……ぅ……やぁぁぁ……」
くちゅ、ちゅく……不浄の孔を犯す淫蕩な水音が、脳をも爛れさせてゆく。
粘膜が粘膜を擦り立てる、限りなく摩擦係数の低いなめらかすぎる愛撫が、重苦しい飢餓を呼び起こす。腰が揺れた。いやだ、感じたくない、のに。
どろどろに甘く流れ出してゆく欲を、全て黒羽に啜り立てられているような錯覚の奥から──羞恥がもたらす被虐の悦びが、じわりとしみ出してくるのだ。
「……ふやけて、ヒクついてる。気持ち良さそうだぜ……可愛いな」
頭のおかしなことをいって、黒羽がちゅっ、と仕上げにキスを落とす。それだけで一瞬、きゅっと切なく締まった後孔に、黒羽が突然生暖かいものを垂らし、ついで何かをあてがった。
「……え……えっ?」
硬く小さく、つるりとした何かが、急に後孔から入り込んできた。おそらくローションの助けを借りたのだろう。
「な、に……!?」
「まずはローターな」
尻にキスを落とし、黒羽が笑い含みに囁く。
「そして、抜けないように……これも」
直後、何か細長いものがぐっと入り込んできた。内側のローターを押し込むようにしながら入り込んできたそれは、最初は細いのに徐々に太くなってきたようで、微かな抵抗を感じながらも結局尻穴の中に収められてしまった。一度嵌 まると、強固なまでに後孔は封じられてしまう。
「何、したんだよ!」
「アナルプラグだよ。栓をした。勝手に抜いたら、お仕置きな」
喉奥で笑い、黒羽が新一の右の太腿に何かをあてがった。テープでぐるりとそれを巻いてゆく。
(……!?)
ぎょっとして足を確認すれば、どうやら卑猥な玩具のリモコン部を、足にテープで固定されたらしい。勝手にプラグを抜いたらお仕置きな、などと黒羽は言うが、後ろ手に拘束された状態で勝手に抜くことなど出来るわけも無かった。
黒羽は新一の背中からのしかかるようにして手を伸ばし、頭の下に厚みのある羽毛クッションを敷いて、新一の足から脱げかけていたサンダルを取り去ると、最後に耳元でやんわり囁いた。
「今から、客人がくる。助けを呼んでもいいぜ。俺は逮捕され、工藤は帰国できる……」
「……っ!」
怒りに震える瞳で睨みつけてやったが、黒羽は可笑しそうに、ごゆっくり、と笑うのみだった。
* * *
乱れる息を殺し、新一は顔をクッションに押しつけ、尻を情けなく上げた姿勢のまま堪えた。
あれからすぐに黒羽は客人を招き入れてきた。その場にワゴンで用意してあった茶を淹れて客のマジシャンをもてなす黒羽を、床の格子越しに仰ぎ見るしかない。物音を立てれば客人に怪しまれてしまうから、体勢を変えることすら容易ではなかった。
ローターだと黒羽は言ったが、幸い体内でそれはまだ動いてはおらず、沈黙を保っている。
とはいえ、飲まされた媚薬のせいで、体内に感じる異物感だけで既に前は張り詰めている。先端は、透明なカウパーをだらしなく垂れ流し始めていた。
「……っ、く……」
じりじりと、ゆっくり膝をずらすようにして、狭い空間でなんとか身体を静かに横へと倒す。座りたかったが、後穴にプラグまで刺されているから、座ることも出来なかった。床上15センチ×横30センチほどの鉄格子部分から、フロア内部を見つめるしかない。
腕は自由にならず、ただ呼吸しているだけで腹の内部に突っ込まれた卑猥なブツが緩く蠢く。異物感が常に後孔を広げている感じは、数時間にわたって黒羽に犯される感覚と似ていたが──
(くろばの方が、太くて、長くて、好いトコロに届く……)
どんなに頭で否定したくても、比べてしまう自分を止められない。
これが黒羽なら、もう腹の中をみっしりと満たしてくれるだけで気持ちいい。黒羽が呼吸し、自分が息づく、ただそれだけで切ないほどの多幸感が全身を満たしてゆく感覚を、どうしても思い出してしまう。
足りない──いやそうじゃない。今、足りるほどの快楽に溺れてどうする。
(……っ)
右を下にしてクッションに頭を乗せ、新一は必死に呼吸を整えた。薬は全身を高揚させ、肌が絨毯に擦れるだけでもぞわりと背を電流が走るけれど、気丈に堪えた。
黒羽がこうまでして見せたくなかったものを、確認しないわけにはいかなかった。
間違いなく世界トップレベルのマジシャンとなるべき男から、右目を奪ったのは自分だ。そのマジシャンの『今』を、見つめることはどうしても新一には必要だった。
見たい、と望むことが黒羽に対して残酷であるとしても。
黒羽がそれを、望まないのだとしても。
そのために払うべきペナルティがこのAVショーだというのならそれも構わなかった。どんな犠牲を払ってでも新一は見たかった。見なければならないとも確信していた。
見ないふりをしさえすれば、うわべは優しい日々をこの城で過ごせるのだとしても。
黒羽の戦場は、間違いなく今『ここ』だ。このフロアだ。
この向こうに、黒羽が隠し続けた雨降る大地が、おそらく在るのだろう。
10年間、肌を割くような雨が降り続けた大地が。
(黒羽……)
格子に顔を寄せる。ギリギリに近寄れば、なんとか黒羽と客人マジシャンの全身像が視界におさまった。
まずは貴殿の腕前を披露願いたい、と黒羽が客人に告げた。応じて、客人が立ち上がる。
ステージに立った客人が、クラッシックなマジックを始めた。翻るハンカチから消えた花、その花は別の場所から花弁となって降り注ぐ。男はその花弁をひとつひとつ拾い上げ、黒いクロスをかけたテーブルの上に、花の形を彩るように綺麗な円形に並べていった。
その上からハンカチーフをふわりと掛けて、そのハンカチをゆっくりと上に引き上げれば、花はなぜか机上から生えるように茎と葉を得て育ち、最後に綺麗な花が机上に咲いた。
そつのないマジックだ。けれど、華は無かった。
その他にもコインマジックなどの自身にとっての十八番を男は披露していった。黒羽はそれを客席代わりに一つ用意した椅子に腰掛け、黙って見つめていた。
客人からすれば、真剣な表情……に見えたろう。
けれど、新一には解ってしまった。あれは貼り付けた無表情。ポーカーフェイスですらない。
胸の奥で冷徹な計算を繰り広げながら、一方でひどく不機嫌な心を押し隠している、どこか剣呑ささえ感じる表情だ。
と──ちらり、黒羽の視線がこちらに流れた。覗き窓越しでこちらの目が解るはずもないだろうに、はっきりと視線を拾われ、新一の全身がぴくりと震えた、その瞬間だった。
(……っ!)
ブーン……と不吉な唸りを体内であげ、突然ローターが蠢き始めた。
半ば予想はしていたものの、思わず呻きが漏れそうになり、新一は必死で歯を食いしばった。じりじりと媚薬で蕩け始めていたナカが、ローターの振動で一気に潤む。腰が細かく跳ね始め、勝手に新一の内部が収縮を繰り返し始めた。
反射的に締め付けたローターがナカでさらに動いて、その振動は確かに内側から前立腺を優しく刺激してくる。
「……っ、ぁ……」
極限まで声を抑えながらも、震える呼吸はどうしようもなく色を帯びた。
黒羽の手がどこでどう操作しているかも解らないが、確かにいま、遠隔操作されていた。まるで今、新一が快感に身を震わせたことすら見抜くような──黒羽の微笑。
(く、そ……っ)
ぴくん、ぴくんと腰がいやらしく蠢くのをとめられない。勝手に芯を持った新一自身が、もうだらしなく先端に雫を滲ませていることが我ながら情けなかった。
本能的に手を動かしたくなるけれど、その度に手錠が手首に食いこんでは現実を思い出させる。そうだ、手さえも使えない。
内股を強く擦り合わせて、ローターのリモコンをどうにかできないか試してみたが無理だった。操作部分はテープで殺されていて、手が使えない新一には硬いテープ越しにスイッチを直接OFFにすることは出来そうに無い。
フロアで悠然と足を組み、手を膝上で上品に組んで客人のマジックを鑑賞している、絶海のファントム。今の自分など、その指先一つで好きに弄られる玩具のようなものではないか。
下半身に溜まる熱のような快感と羞恥が、じりじりと、身体を焦がしてゆく。
自身を弄りたい。気持ちよくなってしまいたい。快感よりもむしろ、泣きたいようなもどかしさが新一を苛んだ。
(いやだ……)
正気を、なくしてしまいそうで……怖い。
客人のマジックが終わると、今度は黒羽が自身のマジックを客人に伝授する番だった。この日のために考案していたのだろう。このマジシャンに譲るマジックを、黒羽が客に教え出す。
それは確かに華麗な技には違いなかった。そして興味深くもあった。普段決して客に明かされることのないマジックの全容を、黒羽が教え込んでゆく。
説明されても素人には真似できないのだが、マジシャン同士だからこそ出来ることでもあった。
それ自体は、平和で穏やかなマジック譲渡の光景でしかなかった。想像はしていたことだった。
けれど、快感に苛まれ続ける蕩けた頭の片隅でも、解る。
──強烈な、違和感。
それが何かをもっと感じ取るために、必死で目を凝らしたそのタイミングで──ふと、体内を一定リズムで苛み続けていたローターが沈黙した。
(……え?)
黒羽はずっと客にマジックを解説し続けている。不自然な動きは一つも無い。
(電池が切れたとか……?)
だとすれば助かった、と思った瞬間、それはきた。
「……っ! ぐ」
一瞬、堪えきれない呻きが漏れた。
今までの倍の強さで、ローターが暴れ出した。がくんと腰が踊る。新一はかはっと唇を開き、顔を強張らせた。いっそ猿轡でも噛ませてくれればよかったのに、口だけは自由だからタチが悪い。
(や、だ……っ、やめ……やめろ……っ)
前立腺に機械が与える、無情なまでの刺激はあまりに強烈だった。急激に理性が奪われ、忙しない喘ぎが溢れだす。ローターの音だって少し大きくなった。フロアにいる客人にバレたらどうすればいい?
嵐に揉まれる小舟のごとく腰が踊りだすのを懸命に堪 えたけれど、痛いほど芯を孕んで勃起した新一自身からはトロトロと涎が零れだして止まらなくなった。ふとした拍子にカウパーが屹立を伝い落ち、やがて内股はぬるりと滑りはじめた。たったそれだけの刺激でもたまらなく気持ちよくて、切なく内股を擦り合わせるしかできない。
快楽は解放されぬまま蓄積され、躯を狂わせていった。
(あ、ぁ……)
爛れた頭が勝手に思い出してしまう。このぬるついたカウパーをたっぷりと指先に纏わり付かせて、黒羽が後孔をほぐしてくれるいつもの光景。いつもの感触。
『……本当に、濡れやすいよな、工藤は……そろそろローションも要らねぇな。えっちなメスちんぽだな……?』
いっそ優しく、言葉で羞恥を煽り立てる黒羽の、熱を孕む掠れた声が……欲しい。
黒羽の指が、黒羽の香りが、黒羽の体温が欲しい。なのに、体内では無機物が蠢くばかりだ。
フロアにいる黒羽が、何故か一度もこちらを見ない。そのことが惨めさをも連れてきた。好きなように新一を翻弄しておいて、その結果などどうでも良いと言わんばかりだ。
堪えても堪えても、体内で蠢く悪魔が、黒羽によって開発されつくした好いトコロをこれでもかと震わせてくる。思わずがくんと身体全体が揺れた瞬間、壁に裸足の足が当たって、左足のアンクレットが微かな音を立てた。
「……っん、ぅ……!」
同時に声も鋭く漏れた。刹那、ざぁっと血の気が引いた。
(や、ばい)
息も止まった。
『何か、聞こえませんでしたか? 何か……鈴のような……』
確かにこちらのほうを見て、困惑した客人が首を傾げた。
『さぁ? まぁこの島にはネズミや獣も多少はいますよ。中には城壁を登ってくる獣もいてね』
面白いんですよ、と流暢な英語で返しながら、黒羽が笑った。
『えっ、城壁を? それは大変だ。恐ろしくはないんですか』
『侵入しては来ないからいいんですよ。でも、夜中じゅう唸るものもいて困ります。発情期には情熱的にうなり声をあげて、眠らせてくれない……』
『それはそれは。困りますな』
『それにここは、歴史ある古城。……いろいろ、棲んでいるのやもしれませんね』
含みある言葉で黒羽が、ちらりと覗き窓に流し目をくれる。蒼紫の隻眼がその瞬間、ねっとりとした熱を孕んで、新一の肌を撫でた気がした。
(く……そっ)
悔しさと恥ずかしさで身悶えつつ、新一は歯を食いしばった。
何が眠らせてくれない、だ。こちらを眠らせないのはいつだってオメーの方だろうが! と怒鳴って抗議したかったが、出来るわけも無い。
こんなにも卑猥な姿を、客人に見られるなど耐えられるわけもなかった。助けなど呼べるはずがない。
ともすれば嬌声が際限なく漏れてしまいそうな唇を、必死に閉ざそうとする。しかし息が苦しくてどうしても唇が開くのを止められない。ひくつく身体が、どうにもならない。
生理的に零れ始めた涙が、視界を邪魔した。慌てて瞼をきつく閉じて、涙を追い出す。
快感の暴力的な嵐の中で、新一はそれでも目を凝らした。黒羽が客人にマジックを教え込んでゆく様を、食い入るように見つめ続けた。
先刻感じた、強烈な違和感が、徐々に新一の中で明確な形を取り始める。
(そう、か)
涎も飲み下せずクッションに吸わせる体たらくでも、理性は飛ばなかった。無機物では所詮、本当の意味で熱くはなれない。黒羽が隠したかったものが一度見え出すと、それは新一の理性から濁りを取り除き、澄んだ思考力を取り戻す一助になった──皮肉なことに。
(お前が、そうまでして見られたくなかったモノ……)
これか。
涙に濡れた瞳を眇め、新一は胸の奥、人知れず呻いた。
自分が考案したマジックにおいて、黒羽の遠近感の把握は完璧だった。官能的で、鮮やかな手技。その腕前は過去に記憶し、徐々に美化されていったキッドの手技を、既に上回っているのではないかとさえ思わせる。
にも拘 わらず──黒羽は楽しげではなかった。その口元に貼り付いた笑みは完全にビジネスライクなものだ。そして、相手に教え込んでゆくマジックは、時折はっきりと簡素化された。
『あぁ……じゃぁ、こうしましょうか。これなら、どうです?』
相手の力量に合わせて、黒羽がふっと一瞬手を止め考えこみ、そして改めてマジックの流れを変えて繰り出す、より簡単になった手技。
綺麗だ。淀みなく美しい。
(なのに、全然、お前が楽しそうじゃない)
新一はこの10年、黒羽を捜し求める旅の途中で、名だたるマジシャンの舞台を世界中で見てきた。喜びとプライドをもってマジックを繰り出すマジシャン達の華麗な手技を、高額な特別席で眺め続けてきたのだ。
目は、自然に肥えた。
その己の目が叫んでいる。
(黒羽、お前なら、お前が演 るならもっと鮮やかで美しくて、心躍るマジックが出来るのに)
世界で一つしか無い、特別な煌めきをもった黒羽快斗のマジックが、他でもない本人の手でダウングレードされてゆくのだ。それでも、客のレベルからすれば十分に価値のあるマジックだということは解る。けれど。
(オメー、それでいいのかよ。そんな、オメーの燦めくマジックを半分も活かしきれねえヤツに、はした金で自分のマジック、永遠に手放していいのかよ……! それで、本当に満足なのか。今までお前そんなことしてきたのかよ……!)
身体を揺さぶる快感の中で、新一は、やりきれぬ思いに顔を歪めた。
マジックを、売る、ということ。
解っているようで解っていなかった。マジシャン同士ではままあることだという。だがその価値を無限に高め、世界の涯にまでマジシャンたちを誘 い、魅了するほどのブランド『絶海のファントムマジック』に育てあげたのが黒羽だ。
それはマジック界の裏社会において、奇跡とも称されるビジネスだった。他のマジシャンたちが互いに譲渡しあうようなマジックとは根本的に違う。
譲渡された人間にとって『運命の舞台』となる、人生の一大イベント演出するマジックなのだ。
それを産み出すということが、どれほどの努力と天才的な閃きを必要とすることか。
譲渡されるマジックには、その煌めきが詰め込まれている。なのに相手がそれを活かしきれない。
(相手が、拙すぎる……!)
黒羽はその拙い相手のために、己の考案した美しいマジックを歪め、簡素化し、相手のレベルに合わせて教え込む。それが悪いわけじゃない。
美しく、ビジネスとして完璧だ。なのに。
(……嫌だ)
胸が掻きむしられるように苦しい。フロアの上で優雅に身体を動かす黒羽は笑っている。けれどその胸の内側に吹き荒れる嵐が、豪雨が、新一には見えた。
見えて、しまった。
(嫌だ、嫌だ、嫌だいやだいやだ……!)
新一の中で、子供のようなもう一人の自分が、駄々をこね叫んでいた。
キッド時代に、全世界を魅了したその手技。歓喜とともに彼が繰り出す魔法も、今は金で切り売りされてゆくばかりだ。
このマジックでいかにマジシャン達が名声を手にしても──黒羽の名声には、ならない。
絶海のPhantomという、オペラ座ならぬ絶海の城に独り棲む怪人の名は、裏社会にこれからも轟き続けるのだろう。
だがそれは、表舞台で彼が得るべき喝采ではない。
誰一人、黒羽に拍手は送らない。
こんなにも鮮やかで官能的なマジックが、最初から他の誰かに売り渡されるためだけに産み出され、そして黒羽の手元から飛び立っていく。しかもダウングレードされて、
(それでいいのかよ。なぁ、黒羽!)
いいはずがない。本人だって解っているから、フロアには、透明な豪雨が降り続いているのだ。
黒羽の胸を、叩き続ける、止まぬ雨が。
こんなのは黒羽を心の奥から膿ませて、病ませてゆくだけだ。
「……っ! ん……っ、ぐ」
さらにモーターの回転数が上がった。びくびくっ、と身体が魚のように跳ねて、屹立を伝い落ちたカウパーでぬるつく内股が、まるでお漏らしでもしたかのようにぐしょぐしょだ。
新一は歯を食いしばった。
こんな状況で、それでもふと思い出したのは、売春をしていた少女がらみの事件を解決したときのことだった。
『お金が貰えるじゃない? セックスだって別にそれほど苦しくなかったよ』
膿んだ瞳で、少女は言った。醒めた声だった。
『欲しいもの、なんでも手に入ったし。楽だなって』
でもね、と少女は言ったのだ。
──少しずつ長い時間をかけて、自分が死んでいくような気がした、と。
そこには、己を切り売りした人間だけが理解できる、とてつもない喪失感が滲んでいた。軽々しくそれを理解できるとはとてもじゃないが言えない。
それでも──たとえどれほどリターンがあっても、人の魂を弱らせる生き方というものは確かにあるのだ。
(黒羽、お前は……幸せ、なのか)
問えるはずがなかった。こんな場所まで黒羽が流れてきたその切っ掛けを作ったのは、他でもない、自分だ。
がくん、と腰が跳ねる。瞬間、こみ上げるものがあった。それは散々いままで流してきたような生理的な涙などではなかった。身体の奥に卑猥なものを突っ込まれ、泥のような快感に突き落とされてわけもなく出てくる涙などでは、決してなかった。
呼吸と共に、嗚咽が漏れた。
どっと眼球が熱い水に溺れ、世界が、水に沈んだ。
なぁ黒羽。俺がみたいのはこんなマジックじゃなかった。誰の笑顔も称賛も、一度もお前本人が引き出さぬままに、お前の手元から離れてしまうこんな寂しいマジックなんかじゃなかった。
黒羽が、黒羽の手で観客に夢をみせ、笑顔にするマジックが見たかったんだ。
(嗚呼、そうか……これは)
涙に溺れるようにして泣きながら、新一は唇を噛んだ。
胸に、残酷なまでに降りてくる思いがあった。
(これは、俺への罰なのか、黒羽……)
『世界の涯で、何を見て、何を知ったとしても──貴方、後悔しないでいられるかしら?』
『もう、彼は、貴方の想う『黒羽快斗』では無いかもしれなくてよ。それでも行くの?』
小泉紅子の台詞の意味を、解っているようで理解できていなかった。今こそその意味の一端が解った気がして、新一は震えた。
こんな寂しい城に──黒羽がかつて夢見たであろう華やかな舞台からはほど遠い絶海の孤島に、彼の大きく白い翼を押し込み、黒く染め上げてしまったのは、誰だ。
(俺、だ)
その瞬間、責め苦の全てに合点がいった。そうか。これは罰だ。俺が受けるべき、罰だ。
誰よりも怪盗と、黒羽の織りなすマジックに焦がれながら、それを損なった、自分への……罰。
目を閉じた。熱い涙は止めどなく溢れた。
更にローターが激しく攻めてくる。
イキたくない。なのに身体を揺さぶる暴力的な快感が、もう弾け飛ぶ寸前まで己を高めている。アナルプラグと内部でガチガチと干渉し、暴れるローターが前立腺を叩きつけてくる。イキたくない、けれどもう終わりたい。もうこの苦しみごと全部吐き出してしまいたかった。けれどどんなに達したところで、自分の苦しみも、黒羽の苦しみも失せることはないのだろう。
ちらりとまた黒羽がこちらを向いて、熱のある視線で新一の躯を撫でた、気がした。
『達 けよ……』
その唇が、声もなく囁くから。
「……っ!!
瞬間、脳髄まで白く灼けるような衝撃と共に、激しく下半身が弾けた。
爪先が引き攣るように伸びて固まる。しゃん、と左足でアンクレットが鳴った。
* * *
仄暗い闇の中で横たわり、新一は耐えていた。ただひたすら無機物が与えてくる刺激に、無限に芯を灯され続ける屹立がびくんと震える。
終わりなき快楽が、責め苦となり新一を苛んでいた。そうやってどのぐらいの時が経ったのだろう。時間の感覚も狂って、喘ぎ疲れ、ただダラダラと口端から涎を零しては身体を震わせることしか出来なかった新一の背後で、ぎぃ、と扉が開く音がした。
小さな音がして、部屋の裸電球が灯された。
「あぁ……イッたみたいだな。客人のいる場所で粗相しちゃうなんて、まだまだ躾が必要かな? 工藤……」
喉奥で、意地悪く黒羽が笑う。
彼の纏う香りが、饐えた精臭に満ちていた小部屋を、鮮やかな雄の香に染め変えた。
ぐい、と顎を掴まれる。その場にしゃがみこんだ黒羽に、顔の角度を上向きにねじ曲げられた。
ぐっしょりと涙に濡れた新一の視界に、黒羽が映る。だが同時に、薄い笑みを浮かべた黒羽の表情は、不意に強張った。
大きく見開かれた隻眼が、驚いたように新一を見つめる。
「工藤……」
「くろ、ば」
ぼんやりと蕩けた頭に、もうろくな思考能力は残っていなかった。何故黒羽が狼狽しているのかも解らない。疲労は極限に達していた。
体内のローターが、ふっつりと沈黙した。
「……馬鹿だな、工藤……」
やがてゆっくりと表情から色を消し去り、黒羽が静かに囁いた。
「助けて、って一言叫べば、助かったかもしれねえのに」
虚無を貼り付けたポーカーフェイスを纏った黒羽からは、もう何も読み取れなかった。なのにこの島の宵闇に似た隻眼だけがひどく底光りして──
(凍えた、瞳)
さむい、さむい……冬の瞳だった。
唇が寄せられる。新一の目尻に舌を大きく這わせ涙を舐め取り、黒羽は低く囁いた。
「俺を監獄にぶちこんで、俺から全てを奪うなんて可哀想すぎて出来なかった? お優しいね、工藤。だから俺みたいなのにつけ込まれるんだぜ」
「……っ!」
まただ。
カッと怒りがこみ上げ、新一はそんな黒羽を睨み上げた。
またそうやって人の想いを決めつける。羞恥が助けを呼ぶことを許さなかったのは確かだが、別に羞恥なんて感情がなかったとしても、あの場で他人に助けを呼ぶ選択肢など、新一には無かった。
共に在りたいと今思うのは、決して同情が理由などではない……のに。
「一度だけ、やらしい雌猫みたいな鳴き声が漏れたよね。正直……すげぇ興奮した」
耳元で囁く、喉に絡んだ掠れ声。
「……っ!」
瞬間、ぞくぞくっと背に電流のような痺れが駆け抜けた。背がぎゅっと反りかえる。もう、黒羽のそんな声だけで身体は容易く反応するようになってしまった。
「さて、仕上がったかな」
低く笑って、黒羽がぐいと新一の腰を掴んで引き起こす。同時に背中で拘束されていた手が解放された。金属音と共に、床に手錠が投げ捨てられる。
腰だけ高く上げて黒羽に突き出す格好にさせられた。自由になった手で結局抗うことも出来ず、頭の下にある羽毛クッションを抱きしめるだけで精一杯だった。
認めたくなくても、張り詰めた己の屹立はもう硬さを十分に取り戻して、期待で揺れている。やっと黒羽に触れてもらえるのだと思うと、プラグの奥で異物を飲み込んでいる腹の中が、重苦しい痺れに満たされ、切なくてどうしようもなかった。
黒羽が、プラグを掴む。中のつるりとした栓の部分を使って、ぐり……と内部の粘膜を一巡り、刺激するように回してくる。びくんと身体が踊った。
「ひっ、ぁ!」
ずるりと抜かれれば、悪寒一歩手前の快感が尾てい骨を貫いていった。
「さて、こっちはどうかな……」
電源コードをゆっくりとひっぱり、黒羽が笑う。
「あーぁ……しっかり銜え込んじゃって、なのにヒクヒクしてる。ほんと、やらしくなったなぁ、工藤のここ」
「や、ぁぁぁぁ……っ、みる、なぁ……っ」
こみ上げる激しい羞恥でガチガチと奥歯が鳴った。見られたくない。
見られたくないはず、なのに。
「嘘ばっかり。そろそろもう気付いてるよな。見られて悦んでる自分に、さ」
「や、め……っ」
頬が燃え上がる。見透かされていることが耐えがたく恥ずかしい。なのにもう黒羽の言葉を心から否定なんて出来なかった。黒羽の視線が度しがたい興奮を連れてくることを、このカラダは知り尽くしていた。
「知ってる? 工藤はさ、リラックスするとココが緩むんだよね……だから締め付けがきつすぎるときは、いろんなとこ弄られると、甘く緩むぜ……」
囁きながら、黒羽が大きく新一の尻を割る。何を、と震えた瞬間、しっとりと黒羽の唇が尻の合間に押しつけられた。
後孔そのものではない。もっと下、揺れる屹立と後孔を繋ぐ、薄い皮膚──会陰。
緩くそこへと唇を押し当て、黒羽が柔らかく吸った。
「ひぁ、やぁぁぁ、やめ、やめ……っ、くろ、ばぁ……やだ、そこっやぁぁあぁんっ、ふ……」
途端に情けない声がふわふわと口から飛び出して、そんな自分にも驚いた。会陰への刺激は既知のものとは何か違う。どこか不安で未知の、じわじわと自分を変えてゆく掴み所のない刺激だ。
緩く、下半身が力を失い蕩けてゆく感じは、直接自身を愛撫されるのとはまた違った感覚だった。
「……ここも」
ほくそ笑みつつ、黒羽が新一の袋を弄ぶ。下から上へ持ち上げるようにして優しく揺らすように愛撫されると、あっという間に蕩けた下半身は、どこからが黒羽の唇でどこからが黒羽の手なのかすら解らないほど気持ちよくなっていった。
「ひぁ、や、ぁ……アッ、ぁ……んっ……ふ」
腰が、心地よさに揺れる。張り詰めた屹立がじんと痺れきって、焦らされすぎて充血した先端からは、またきっといやらしい蜜が溢れ出しているんだろうと思った。
「やぁ、くろば、くろ、ばぁ……ふやけ……っ、ふや、けちゃ……」
「ふやけそう? 可愛いね……ほら、リラックスした」
黒羽が新一の屹立に、微かに触れた。亀頭の先端にたっぷりと滲む蜜を指先に塗してから、後孔に濡れた指先で触れてくる。ぬるつく指が簡単に入り、くるりとそこを愛撫されて腰が震えた瞬間、黒羽が指を抜いて、ローターもゆっくりと引っ張り出していった。
「あ、あ、あ……ッ」
爛れた快感が卵を産むように抜け去った瞬間、ぶるりと身体が震えた。どうしようもない飢餓感が急激に湧いてくる。失ったものを埋めて欲しくて堪らない。焦らされすぎた身体は限界だ。
「どうせ銜え込むなら、こんな無機物じゃなく……」
身を起こし、己のベルトを手早く外して前をくつろげた黒羽が、ぐっと強く尻を掴んで囁いた。
「俺のをしゃぶれよ……工藤……っ」
「ひっ、アッ────────……!」
ずるり……圧倒的な肉感で急激に制圧してくる黒羽の凶器が、気の遠くなるような快楽を連れてきた。充血しきっていた内部がうねるように悦んで、黒羽を迎えた。
眼球の奥でちかちかともう白い光が瞬く。軽くイッてしまったのだろう。数時間待ち続けた黒羽の劣情が、体内をいっぱいに満たして暴れる度に、蕩ける歓喜が背を駆ける。けれども自身が萎えた感覚は無かった。下半身を震わせる熱い波が、甘く全身を襲い──けれど引いていかない。
(メスイキ、したぁ……っ)
もう何度もこの身体で経験した強烈な歓喜に、新一の瞳は焦点を失い蕩けた。
体内を制圧する雄は、あまりにも熱く猛る欲望だった。そういえばろくに黒羽は自身を弄りもしなかったのに、こんなにも硬い。
(くろばが……おれ、に、こーふん……してる……っ)
頭が、おかしくなりそうだ。しゃぶって、と言われただけでもう、自分の雄膣が悦んで黒羽をしゃぶりつくしてゆくような、下品で淫猥な妄想が止まらない。数時間ものあいだ放置された内部は、うねるように黒羽を銜え込み、奥へ引き込もうともがいた。
「あぁ、やらしいな工藤……腸液とカウパーでぐしょぐしょ。段々ナカも濡れやすくなってきたよな……」
「やっぁ、んンッ……」
「俺のちんぽ、もっと奥まで入れて……工藤……っ」
手加減無しに新一の充血した雄膣を穿ちながら、黒羽が呼ぶ。切羽詰まったようなその声で呼ばれることが、ひどく嬉しかった。強く強く求められているような心地になる。
「ほら、もっと銜え込めるだろ……っ」
「う、んぅ……っ! ぐっ、ぁあぁぁあンッあぁぁっ……」
ねじ込むように穿たれ、奥の悦びを知るカラダが鳴いた。また大きな波に一息で攫われて、射精もしないのにイッてしまう。
「大丈夫。入るぜ……ほら、工藤の奥が、俺を欲しいって鳴いてる……」
「ひ、っぁ!」
「一番奥で俺の精液飲んで……孕んで……」
祈りのように、呪いのように、黒羽が囁く。その淫蕩すぎる台詞に、新一の胎内が鳴いた。無いはずのものが確かに疼くような気がしてくるのだ。
奥に、黒羽のモノで何度も何度もぐちゅぐちゅと口づけられている。穿たれて、吸い付かれて、吸い付いて。淫乱な躯 は、限界まで快楽を拾って打ち震えるしかない。
「んああぁぁあんっ、む、り、やあぁ……おく、おくぅ……あたっ、て……っ!」
「奥、キモチイイんだ? さっきからイキっぱなし……雌イキ上手になったなぁ」
「やらぁぁぁ、いきたく、な……おかしく、なりゅ……あっぁ!」
「なれよ……おかしくなればいい……っ」
強くクッションを掴む指先が引き攣る。内股も痙攣するように震えた。
大きな、波が来る。
「ほら、ちゃんと種付けしような……俺の子、産んでよ工藤……っ」
「ぐ、ぅぅ……っ! くろ、ば……やぁぁぁ……っ」
瞬間、大きく胎内で黒羽が膨らんだ。抜いて、そして深く深く穿つ。
どれほど願っても埋められぬものを、必死に埋めるかのように。
「工藤……っ」
悪夢のように、官能を震わせる叫び。
「孕め……っ」
「ひっぁああぁぁぁんっぅ……っ!」
奥で熱いものがどっと弾ける。叩きつけてくる白濁を感じた瞬間、こみ上げる射精感に身を震わせ、新一自身も達した。
しゃんっ、とアンクレットが鋭く鳴った。
真っ白になる意識の中、上から手を繋がれ押さえつけられるのを感じた。穿っても穿っても足りないとばかりに、黒羽が覆い被さってくる。
(嗚呼……)
胎内でだけ、はっきりと感じることのできる、剥き出しの執着。白濁が叩きつけてくる熱だけは、嘘偽りがないのに。
「……なぁ、工藤」
黒羽が、荒い息の狭間に呻いた。
「忘れてよ……全部。頼むよ……全部全部……忘れてくれよ……」
それは荒れた海のように哀しくて、
崩れた砂の城を見送る少年のように、孤独な声だった。
* * *
その夜のことは、記憶が曖昧だ。媚薬が抜けきらぬうちに黒羽に抱き上げられ、風呂まで連れていかれた。シャワーを使って、黒羽が吐き出した白濁すら綺麗にしてくれるのがひどく恥ずかしくて、何度も自分でやると訴えたことはなんとなく、覚えている。
『やら、やめろ……ん、ぅ……』
呂律の回らぬ言葉で抗いながらも、立っているのも難しいほど感じてしまい、また啜り泣いていたような気がする。そんな新一をあやすように抱きしめ、黒羽は風呂にいれてくれた。
話したいことは、沢山あった。けれど湯船に入ったあたりから記憶がふっつりと途切れている。
(俺が勝手に寝落ちたか……それとも)
再び、眠り薬でも盛られたか。
窓から床へ落ちる曇り陽をぼんやりと目の端に捉えながら、新一は起き上がった。身体に纏わり付いていた毛布が、するりと落ちてゆく。
もう陽は高く昇り、ベッドの海に黒羽はいない。サイドチェストにはメモがあった。
──食事は朝と昼の分が冷蔵庫に入ってる。適当に温めて食べて
溜息を零し、新一はベッドから立ち上がった。白い光の中でゆっくりと伸びをして、気怠さの残る己の身体に目を落とす。ふと、違和感を覚えた。
今日は、やけに身体が綺麗だった。
鎖の纏わり付く足を引きずって部屋の隅にある姿見まで歩き、鏡に全身を映してみる。だが首筋にすら、ただの一つも紅い痕はなかった。
そういえば、昨日初めてバックから抱かれたのだと思い出す。体勢的に、肌を吸うこと無く終わったのか。
気が遠くなるほど激しい狂乱の宴だったけれど──寂しいセックスだった、と思う。
(黒羽……)
馬鹿だな、と囁いた黒羽の瞳を思い出す。
凍えた目をしていた。
* * *
その日の夕刻、黒羽はふらりと部屋に戻ってきた。仕事着ではなく、もうラフな麻混の部屋着に着替えている。今日の仕事はもう終了した、ということなのだろう。
「……」
ぱたん、と読んでいた本を閉じ、新一は深紅のソファーから立ち上がる。
何処か苦しげな眼差しで目の前に歩み寄ってきた黒羽を、新一は静かに見上げた。
「……殴らないの? それとも噛み切る?」
ひそりと黒羽が問うた。
「噛み切って欲しいならそうするが?」
もう一度、薬で強制的に新一を眠らせるようなことがあったら、殴るどころか黒羽自身を噛み切ってやる、と啖呵を切った新一だ。
黒羽は小さく笑い、肩を竦めた。
「怖い怖い。殴る方で勘弁してはもらえませんか、お姫様」
「誰が姫だ」
ぺしっ、とその頭をはたく。しかしそれきり何もしない新一を見つめ、黒羽がそっと囁いた。
「ねえ、殴ってよ、工藤。痕が残るぐらい、強く」
「……やなこった。殴って欲しそうだから殴ってやんねぇよバーロー」
ふん、と腕を組んでそっぽを向いてやれば、目の前で黒羽が「は……」と小さく笑って吐息した。
「敵わねえなぁ、名探偵には」
小さな、小さな声だった。
「夕飯終わったら、ちょっと付き合ってよ工藤。散歩、しようぜ」
「……いいけど」
「ん」
そのままいつものように、新一の手を引いて歩きだそうとする黒羽の手を、だが新一は強く振り払った。
ぱんっ、と撥ね除けられた手を中空で凍らせたまま、黒羽がこちらを見やる。
今度こそその瞳を強く見据え、新一は囁いた。
「鎖の代わりに手を引くってんなら、もうお断りだ」
「……っ」
「オメーが」
その先を言おうとして、声が詰まる。随分小っ恥ずかしいことを言おうとしている自覚はあった。 じわりと熱くなってゆく頬を自覚しつつも、呻くように、新一は告げた。
「オメーが……俺と手を繋ぎたいってんなら……俺も、繋ぎたいと思う。そうじゃなきゃ、嫌だ」
「……!」
驚いて息を呑んだ黒羽の目元も、一拍置いて、ゆっくりと染まってゆくのが見えた。
その隻眼が、珍しく空を泳ぐ。何かを言おうとしてはまた口を閉じ、ひどく困ったように言葉を探す──そんな黒羽の不器用な姿はあまり見たことがなくて、仕掛けた新一も驚いた。
(なんだよ、もう……)
顔を上げていられず俯いた視界に、やがて、再び黒羽の手が差し伸べられた。右手だ。
「工藤と……手を、繋ぎたいデス……」
「……」
見上げれば、ぎゅっと口を引き結んで、緊張したように新一の出方を待っている黒羽が居る。
(なんだよ……)
まるで中学生日記だ。何をやってんだか、と思う。ひどくくすぐったかったけれど、でも多分、自分たちには必要な儀式だった。
新一は目を細め、差し出された黒羽の右手ではなく、左手を取った。
「こちらの手なら、繋いでやんよ」
「──工藤……」
「もうオメーの眼帯は見飽きた。オメーの目を見せやがれ」
にやりと笑って言葉を投げれば、黒羽が溜息をついて、顔を伏せた。
長めの前髪に、表情を少し隠すようにして──けれど何処か泣き出しそうな笑みを隠しきれぬまま、彼が呟いた。
ほんとに敵わねえな、名探偵には……と。
* * *
遅めの夕飯を食べたあと、夜の森を抜けるからと言われ、長袖シャツにジーンズといった足元を守れる服に着替えさせられた。いつものことだが袖や丈が少し長いのが、悔しい。
黒羽の服を毎日こうして当たり前のように着せられている自分を、不意に意識した。もう随分と、黒羽の香りに馴染んだ自分がいる。
「いこうか」
キャンバス地のトートバッグを肩に抱え、黒羽がさっと右手を出す。それからしまった、と言いたげに右をひっこめ、左手を出してきた。
「えーっと……お願い、します……」
「……おう」
黒羽の左手に、右手を出して繋ぐ。ちら、とその横顔を見上げれば、動揺したように黒羽が少し目線を逸らせるのが可笑しかった。だがその程度ではもう表情は隠せない。
眼帯は、こちらには無いのだから。
「……落ち着かねぇ」
黒羽がぼやく。
「ふん。ポーカーフェイスも形無しだな?」
新一は笑った。
城を出て、森に入った。完全に島の南端へ抜けるコースなのだろうか。街灯もない森は漆黒の闇の中だ。相当パワーの強い懐中電灯で黒羽が足元を照らしてくれたが、それでも慣れない新一は2度ほどぐらつく石を踏んではバランスを崩した。下り坂なので、ずるりと滑りそうになる。そのたびにひときわ鋭く、アンクレットが鳴った。
強く握りしめられた手に、助けられる。
「大丈夫か」
「お、おう……」
わり、と小さく謝れば、怪我は? と穏やかに尋ねられる。大丈夫だと答えれば、ん、と安心したような声が返ってくる。
あの隠し部屋で感じた狂気一歩手前の荒んだ気配は、憑きものが落ちたかのように今は失せていた。黒羽の纏う雰囲気は今日、凪いだ海のようだ。
凪の向こうにある何かを予感しながらも、新一はただ、黒羽の導く場所へと歩を進めた。
やがて黒々とした木々の重なりが薄く途切れ、山道の終わりが見えてきた。
おそらくは浜だ。だが何も人工的な灯りのない浜は、ライトが無ければ手探りで進むしかないほどの漆黒の闇が広がるばかりだった。
今宵の海も、黒羽のように静かだった。穏やかな波が、打ち寄せては暗闇の向こうへ消えてゆく。これほど静かに凪いだ海は珍しいのだと、黒羽は言った。
強力なライトで足元を照らしながら、黒羽は狭い浜へ歩を進めた。
小さな砂浜の中央まで歩むと、黒羽はそこに持ってきたシートを敷いて、新一を誘った。
「どうすんだ?」
「まぁまぁ」
黒羽が動く度、彼の持つ強烈なライトが目を射る。シートの上に膝をたてて三角座りしつつ眩しさに目を眇めた瞬間──ふわりと頭の上に、タオルケットが掛けられた。
「黒羽?」
「大丈夫、俺はここ」
新一の右手を左手で再び掴み、隣に腰を下ろした黒羽が囁く。
「灯り消すよ。しばらくこのままじっとしてな」
「……おう」
小さな音と共に、黒羽の持つライトが沈黙した。辺りは、10センチ先も見えぬ漆黒に沈んだ。
都会の隅に溜まる闇などには一切怯えることのない新一だが、この島の自然がもたらす真の闇には、本能的な畏れを覚える。それは文明から完全に切り離された自然の中で感じずにはおれない、己の無力さそのものと向き合う時間だからなのかもしれない。
タオルケットの中で、僅かに、呼吸は速くなる。
散歩しようぜ、と黒羽は言ったけれど、目的地も何も聞かずじまいだ。黒羽も、特に話さなかった。ここにきて黒羽の目的はなんとなく分かったものの、新一は黙っていた。
黒羽の左手が、新一の手を握りしめる力を、強くした。
と……その手は、やがて繋ぐ角度を変えてきた。
新一の右手は上向けにされた。掌に、黒羽の左手が乗る。ゆっくりと、上から繋ぎ止めるように指を一本ずつ絡めて、握りしめてきた。
(……っ)
ふわりと、ひそかに全身が高揚した。
乾いた黒羽の手は温かかった。ふと、風邪になったときの黒羽の手を思い出した。ひんやりした手が気持ち良すぎたのもあるのだろうが、目覚めたときにしっかり黒羽の手を握りしめたままだったことには、我ながら驚いた。
何より、振りほどかずにそのまま添い寝してくれた黒羽に、驚いた。
(でも、お前は、本当はいつだって……)
たまに、新一が本を読んだまま眠りこけた時、そっと髪を撫でる手を、いつからか知っていた。
黒羽が毎朝作ってくれた、美味しかった朝食の数々を思った。
工藤が入る風呂を用意するのは俺の趣味だ、などと言いながら、いつも心地よい温度の湯を作ってくれた。気を失った新一を、いつだって綺麗にして、ベッドまで運んでくれた。
セックスだって、新一の身体が本当にダメージを受けるような酷い抱き方は、しなかった。
(いつだってお前は……優しかった)
そして、今も。
……そっと、新一も黒羽の手を握り返した。
「じゃぁ、取るぜ。Three,two,one...」
やがて、声かけと共に黒羽が、新一の頭に被せていたタオルケットを取り去った。
「……あ……!」
暗闇に十分に慣れた新一の眼前。
鮮やかに浮かび上がってきたのは、絶海の孤島が魅せる夜の、祝福だった。
新月の、闇夜。
雲一つなく澄み渡った漆黒の南天に、溢れんばかりに輝く、幾万の星が瞬いていた。
「──っ!」
全身の皮膚が軽く興奮で粟立つ。
胸の詰まるような星空のマジックが、そこにはあった。水平線まで光は無数に散りばめられていて、それは凪いだ海にも煌めきの欠片を落とし込む。さすがに鏡面に映したような光ではないから、海そのものは黒々としていたが、穏やかな波頭は無数の星明かりに燦めいて、星の光が橋渡しをする海と空は、まるで境目を失うように水平線で溶け合っているのだった。
「……す、げぇ……」
自然に、喉奥から感嘆が零れ出た。
思えば、こんな風にゆっくりと星を見ることもない日々だった。夜間は大体書斎にいたのだ。
「今日が新月……一番、星が綺麗に見える日だ」
黒羽が言い、真南の天を斜め上に指さした。
「あの辺りに光るのが、エリダヌス座のアケルナルという一等星だ。オリオン座の足元から流れるエリダヌス川の終着点にある。川の果て、という意味の名前さ。そして、少し南東のほうに見えるひときわ輝く星があるだろ」
左手の空を指す黒羽の指先に従って視線を流せば、アケルナルより少し低い位置に強く輝く星があった。
「あれが、カノープス」
「あぁ、あれがそうか……じゃぁ、そこにりゅうこつ座があるのか」
「そ」
新一にも知識は断片的にあるのだが、やはり南半球で見る星空は馴染みが無い。ただただ圧倒的な星数に、背筋がそっと痺れるような感動が押し寄せてくるばかりだ。
「アケルナルとカノープスを繋いで、下向きに正三角形を作ってみな。その正三角形の頂点あたりにあるのが、天の南極だ」
「そのあたりは確か、北天と違って暗いんだっけ。北極星みてぇな星は無いんだったよな」
「あぁ。この時間はやっぱり南東の辺りが賑やかだよな」
その言葉に誘われ南東に目を向ければ、東の空に輝くシリウスから、南南東の水平線に向けて、斜めに乳白色の星の河が流れ落ちていて、滲むように光り輝く星々は本当に美しかった。
「さて工藤に問題です」
悪戯っぽい声で、黒羽が囁いた。
「今の時間、いわゆる『南十字星』は何処でしょうか」
「む」
問題だの暗号だのを出されると、生来の負けず嫌いがむくりと頭をもたげる。必死になって空を見つめるが、結局それらしき星は南東のあたりで輝く十字架に見える輝きぐらいのものだった。
「……でも俺は知ってるんだぜ……?」
新一は低く呻いた。
「南半球に旅する旅行客はかなり『みなみじゅうじ座』を間違えてんだよな、確か……思い出したぜ。ニセ十字ってのがあったはずだ」
「さすが名探偵。博識でいらっしゃる。で? 本物は何処にある?」
闇の中、傍らの黒羽がニヤリと笑う気配がする。
りゅうこつ座のあたりに燦めくコンパクトな十字が怪しい、とは思う。いかにも粒ぞろいで目を引く輝き方だ。だが──
ふん、と口角を上げ、新一は傍らの黒羽を見上げた。
「答えは──何処にも無い」
一瞬の沈黙の後、黒羽が溜息をついて天を仰いだ。
「……ハイ正解」
「やりぃ。オメーがわざわざ『今の時間』って聞いてくるんだもんな。つまり今の時間帯にはねぇんじゃないかと思ったんだよ。あの南東で輝いてる怪しい十字架が、ニセ十字だな」
「そ。夜の11時半ぐらいに、本物は多分、南南東あたりから昇るな」
乳を夜空に零したように広がる、美しい星の川を右手で指さし──そして黒羽はその手を、空中で何かを掴むように、ゆっくりと握りしめた。
その手が、不意に力を失ったように、すとんと下に落ちた。
「さすがに騙されては、くれねぇか……」
黒羽が小さく笑った。
それは何かを諦めるような笑顔だった。ふとその表情に胸を衝かれ、新一は息を呑んだ。
片膝を立てて座っていた黒羽はもう星を見ていなかった。その隻眼は、今はただひたすらに新一だけを映し、瞬いていた。
「……くろ、ば」
声が、掠れた。
黒羽はふと目を細め、首を少し傾け、やさしく囁いた。
「……どうしても、この星空だけは、見せておきたかったんだ……綺麗だからさ」
告げる黒羽の言葉に、新一の胸の奥が静かに鳴いた。
闇に溶ける眼帯と、星明かりを映して静かに瞬くタンザナイトの瞳。
喪った瞳と、今も輝く瞳がそこにあって、黒羽が見せておきたかったと言った星空がその背後に広がっていた。
刹那、それはもう止めようもなく、溢れた。
新一の両目から、音もなく熱がこみ上げた。瞬きもせず見つめていたい世界が潤んで、涙に揺れる。ぱたりと瞬きすれば、涙は瞼の堰を越えて、静かに、頬へと細い河を作り流れた。
「……! く、どう?」
まさか泣くとは思っていなかったのだろう。絶句した黒羽が、背を正した。おろおろと動揺した表情を隠しもせずに、空いていた右手を伸ばしてくる。まるで壊れ物に触れるように、頬を下から包み込んで、親指で涙の河を拭った。
「……工藤……?」
「……」
「…………工藤」
「…………っ」
何か答えようとした。けれど胸が詰まって、声が出なかった。また新たな涙が溢れるばかりだった。事件現場ではただの一つも零したことの無かった涙が、黒羽相手にはもう止めどなく流れるばかりだった。
喉奥で渋滞を起こした言葉の代わりとばかりに、溢れてゆく。流れてゆく。
黒羽が息を呑んだ。隻眼が大きく見開かれる。あぁ、困らせているなぁと途方にくれたその時、黒羽の唇が僅かに震え──そして、声が零れた。
「しん、いち」
「……っ」
心臓がとくん、と跳ねて、大きく新一の呼吸が乱れた。
黒羽の声は、戦くように震えて、けれど大切なものを呼ぶかのように、どこまでも温かかった。
もう一度強く瞬きして涙を追い出し、新一は、声を絞り出した。
「なぁ、……快斗」
「……うん」
名を呼んだ新一を、黒羽が──否、快斗が自然なことのように受け入れてくれるのが、嬉しかった。喉奥を締め付けていた力が少し緩まって、呼吸が楽になった。
「ずっと、怖くて……聞けなかったことが、あった」
「……」
快斗の穏やかな眼差しが、新一の言葉の先を許していた。
「俺のこと……恨んでるか、って、聞くのが怖かった」
「……」
「恨まれても当然だと思っていたのに、口に出して聞けなかった。怖かったんだよ。心の中で10年、ずっと、お前にひとり問いながら生きてきた」
「……」
「昨日、思ったんだ。これは、罰なんだと。お前のマジックが、無残にダウングレードされて譲渡される……お前がどうしても俺に見せたくなかったあの光景は、俺への、罰なんだと」
「……!」
黙ってそれまで聞いていた快斗の肩が、ぴくりと突如跳ねた。
「それは、それは違う──!」
「うん、解ってる」
こくりと頷き、新一は快斗を宥めるようにもう一度手に力を込めて、握り返した。
「お前がそんなつもりで見せたわけじゃないってことは、解ってる。ただ、受け止めた俺が、勝手に苦しかっただけだ」
「……新一……」
新一は小さく笑って、空を見上げた。
瞬 く『音』がしないのが不思議なほどの星々が、視野を埋め尽くす。人が手を掛けて地中から掘り出し、磨き上げた宝石ですら敵わぬ輝きを放つその夜空を見上げて、新一はそっと呟いた。
「『黒羽快斗』の謎が、なかなか解けなかった。今も……全部解けてはいない。でも、少なくともこれは解るよ、快斗」
「……」
「お前が、この島で、俺にみせてくれたいくつもの綺麗な光景、沢山の思い出、美味い飯……全部、全部、お前が、俺にくれたものだ。今、本当に、解った」
「……しん、いち……」
「全部、お前からの、ラヴレターだった」
溜息のように囁いた。
茫然と目を見開いている快斗の方を向いて、少し笑って見せたけど、上手く笑えたかどうかは自信がなかった。また、涙が勝手に零れていった。
うつくしいものを、快斗は本当に沢山、見せてくれた。
理解も許しも求めぬ悪役の顔で笑いながら、その裏でそっと、ため込んだ宝箱の中身を見せてくれた快斗。
新一が口に出せない想いを抱えていたように、快斗にも、口に出せぬ想いがあったろう。あの隠し部屋で見せられた光景が新一への罰で無かったというのなら、あれを見られて苦しかったのはむしろ──快斗の方だ。
そんな、言えぬ想いの代わりに、快斗が見せてくれた幾つもの煌めきが、
この溢れんばかりの星空が、
恨みや怒りであるわけが、なかった。
「って、違ってたら、はずいな……」
「……」
快斗は、何も言わなかった。いつもは無駄に饒舌なくせに、今日は何処にポーカーフェイスを取り落としたのか、ずっと泣きそうな顔をしている。
急に恥ずかしさが喉元までこみ上げてきて、新一はぐっと耳まで上気した顔を背けた。
「んぁぁぁ! もう、なんか言ってくれよ笑っていいぜ! 違ってたんなら笑えよ、もー!」
「違わねぇよ」
震えながらも、強い声が響いた。
痛いほど手が握り直された。背けた顔を追い掛けてくるようにして、快斗が顔を覗き込んできた。
「違わねぇよ、新一」
淡い星明かりに浮かんだ快斗の隻眼が、確かにいま、薄い水膜に揺れていた。
「今、ここにこうして新一といられて、俺はもう……このまま死んでもいいと、思ってる」
「……っ、バーロ……」
突然の重い告白を小さく笑ってたしなめたけれど、それでも快斗の目が怖いぐらいに本音だと叫んでいる。重いぜと茶化すのは止めた。
多分、自分の想いだって、十分重い。
ここに辿り付くまで、10年、かかった。
「なぁ。快斗」
ずっと言えなかったことは、まだあった。そっと胸から掘り起こし、新一は囁いた。
「俺さ、お前のマジックが、本当に好きなんだ」
* * *
快斗は、息を詰めた。
星明かりに透けてしまいそうな睫を伏せ、新一がゆっくりと快斗の左肩へ身体を預けてくる。
もう幾度となく抱いた身体だというのに、初めて触れたような気さえする。預けられた身体の重さが、気が遠くなるほど愛しかった。
「俺が……お前の目を奪った俺が、言えた義理じゃないことは痛いほど解ってる。腹が立つなら、今ここで俺を殴って、俺の目でも何でも潰してくれて構わない。だから、言わせてくれ」
「──何」
そう尋ねるには少しだけ、勇気が必要だった。
「もう、お前のマジックを、安売りしないでほしい」
「……!」
新一のまっすぐな言葉は、まるで水晶の矢だ。射貫かれた心臓が、どくりと震えた。
きっと昨日の光景は、新一を傷つけただろう。快斗の目を奪ったことに責任を感じ苦しみ続けた新一だ。ましてや怪盗のマジックを愛してくれていた新一にとって、昨日、快斗が見せた光景は何より苦痛だったはずだ。
だから、だからこそ見せたくなかった。
(いや。それも結局、取り繕ってるだけか)
小さく、快斗は自嘲した。
自分だけは騙せない。結局自分は、己が誇ることのできない己の姿とマジックを──世界中でたった一人、この男にだけは見られたくなかったのだ。
最も出会いたくない好敵手 とは、よく言ったものだと思う。
誰よりも認めた相手だからこそ、今の自分の仕事だけは、見られたくなかった……。
「……安くは、ねぇんだけどな。少なくとも相手の人生が傾くぎりぎりの、法外な金額ふっかけて売り渡してるんだが?」
苦笑交じりに囁けば、肩に寄りかかる新一の頭が、小さく横に揺れた。
「それでも安い。値段なんて、つけられねえよ」
「……!」
「オメーの手は魔法の手なんだよ……その魔法の手が生み出すマジックは、観客にとって『幸福』そのものなんだ。それは金に換算なんか出来ねえよ。オメーのマジックは、そんな、安くない」
至極真面目に、新一が言う。聞いているうちに胸の奥がくすぐったくも熱くなる称賛に、どんな顔をすればいいのだろう。
暗闇で良かった、と快斗は思う。身体の芯から深く湧いてくる喜びをひっそりと噛みしめながら、小さく笑った。
「随分、俺のマジック買ってくれてんだな」
「そりゃな」
当然だ、と言わんばかりに、新一が頷いた。
「自称・世界で二番目の、お前のファンだからな」
「……二番目?」
「そう、二番目」
肩に頬を擦りつけるようにして、新一が微笑った。
手がかりも無い中、10年ものあいだ快斗を追い求め、ついに世界の涯まで飛んできた熱烈な追っかけよりも強烈なファンが他にいるというのか。全く心当たりはない。
そんな思わせぶりなことを言われて、一番目を確認せずにいられるはずもなかった。
「一番目は、誰だよ?」
思わず問いかけた快斗をちらりと仰ぎ見て、新一は、空いている左手をふらりと上げた。そのすらりとした指先が、斜め上を指す。
新一の指さす方を見上げ──快斗は、ゆっくりと目を見開いた。
そこには空があった。息が詰まるほどに瞬く、無数の星空があった。
天の一角を指し示し、新一が目を細めた。
「どの辺りにいるかな。こんなに星が輝いてちゃ、探すのも大変だな? お前の、親父さん」
(……!)
とくん、と心臓が揺れた。名探偵の言葉が体内に隠されたスイッチに静かに触れたのだと、解った。ざぁっと全身の血が熱く燃え、駆け足になって身体中を巡り出す。
(親父……)
それはこの10年、あえて思い出さぬようにしてきた存在だった。
父から譲り受けた、マジックという尊い光。
それをこうして歪めながらも手放せず、醜く切り売りし続けた自分を見れば、父はどう思うだろう。それをまともに考えるのは苦しすぎたから……ずっと、胸の奥に封印し続けてきた。
触れずには済まされぬところを、この名探偵は必ず見逃さない。10年という重い月日の精算は、あまりにも強い痛みを連れてくる。
それでも、新一はその泥濘 に手を入れ、白く輝く石を探るのだ。
そこに光在れと、祈るように。
「父親の一番のファンが息子なら、息子の一番のファンは、父親って相場が決まってんだよ」
「──」
「親父さんから授かったマジックを、金で売ることを一番嫌がってんのは、他でもないオメーだよ、快斗。だから俺は言うよ。もう、止めろ。マジックをやめろって言ってんじゃねぇよ。オメーのマジックは、オメーのものなんだ」
嗚呼、と肺から絞り出した快斗の溜息が、大きく震えた。瞳の奥が燃えるような熱を帯びて、どうしようもなくこみ上げてくるものがある。必死で堪えようとして──けれど、途中でその努力を放棄した。
遺された左眼から静かに頬へ流れてゆく涙は本当に久しぶりだった。斜めにそれは流れて、己の肩に頭をもたせ掛けている新一の髪へ、吸い込まれていった。
「だから……見せたくなかったんだよなぁ……名探偵には……」
見られたら最後、何もかもきっと隠しきれなくなると、解っていた。
「10年だ……10年、『工藤新一』を……夢見た」
「……」
「新一から、友人も家族も何もかもを全部奪ってしまいたくて、狂いそうだった。怪我をしたことで、黒羽快斗としてそしらぬふりでお前に近づく道も途絶えた。新一を助けたことには、一つも悔いはねえよ。恨んだことだって、一度も無い。お前は俺の目を奪ったと言うけど、それは違うぜ。俺が勝手に手放しただけだ。ただ……お前と会えなくなることが、俺には耐えがたい絶望だった。みっともねぇって、笑ってくれよ」
「……笑えるかよ、ばーろ……」
優しい言葉が返ってきて、代わりに快斗が思わず笑った。
「だから、新一との絆を魔女にまで頼んで、切ったんだ。もう二度と会えないなら、徹底的に望みを潰してしまおうと思った。そうすれば諦めきれると思ったんだ……思った、のに」
「……」
「何一つ、諦めきれなかったな。新一のことも、マジックのことも」
新一の艶やかで癖のない髪に己の頬をすり寄せ、快斗は静かに涙を流しながら微笑んだ。
「この世界の涯で、それでもファントムマジックを売り続ければ……必ず、お前は俺に辿り付くと、解ってたんだよ……」
見苦しいまでの、それは狼煙 だった。
世界でたったひとり、工藤新一に向けて焚き続けた、快斗の狼煙だったのだ。
マジックから離れなければ、必ず名探偵は絶海のPhantomに辿り付く。解っていたから──どんなに苦しくても、見苦しくても、醜くても、縋り付くようにやめられなかった。
けれど、狼煙は狼煙でしかなかった。煙に価値はあっても、遺 る燃え滓 のような自分は、ただ醜いだけだった。
誰よりも念入りに遠ざけながらも、誰よりも胸の奥で求め続けた想い人が、本当にこの絶海の孤島まで降り立ったあの日のことを、快斗は一生忘れないだろう。
今この瞬間に息絶えても構わないほどの歓喜と、いっそ彼の慧眼をここで潰してしまえたらいいのにとさえ思うほどの絶望が胸を焦がした、あの日を。
誰より逢いたかった。
そして誰よりも、今の自分を見られたくない相手だった。
背反する二律を、強すぎる欲と澄んだ祈りががんじがらめにして、自分でもどうにもならなかった。喘ぎ、足掻いて生き続けた……10年だった。
「ホントに来ちまうんだもんなぁ、新一は……」
呟いた声は不覚にも震えて、泣きが混じった。
「仕方ねぇだろ。……逢いたかったんだ。俺だって10年、お前に逢いたくて、逢いたくて……追っかけてきたんだよ」
やはりくすぐったくなるほど真っ直ぐな言葉をくれる新一に、胸が、尚更切なく疼いた。
「は……告白、みてぇ」
「告白だよ。バカ」
「──っ」
「……まだ、信じてもらえねぇの?」
新一がぽつりと呟いた。途方にくれた、迷子のような声だった。
吸い込んだ息を吐くのも忘れて──時が、止まった。
06 鞭と鈴
窓の外では、賑やかに鳥が鳴き交わす声が響いていた。
朝の光の中、新一はゆっくりとベッドから起き上がる。足首で鎖がじゃらり、と音を立て、アンクレットの鈴の音と重なった。
快斗は仕事だろう。もう部屋にはいなかった。今日は、船が着いて観光客を港に下ろしてから3日目だ。4日目の明日、再び船は近くの島からこの島に戻ってきて、短い滞在期間で帰る観光客を乗せて本格的に出国する。
つまり、今日は快斗にとって、一ヶ月に一度巡ってくる3日間のマジック譲渡期間、その最終日なのだった。
新一は枷の嵌まった己の左足首をしばらくぼんやりと眺めつつ、昨夜のことを思い出していた。
『自分の気持ちに気付いたのは、お前とこうなってからだ。でも、だからっていつまでもつまんねぇレッテル貼られるのはごめんだ。それとも、お前の気持ちもリマ症候群なのかよ?』
震える声で、昨日、やっとのことで想いを告げた。
始まりは確かに贖罪だ。けれど、いつまでも贖罪だのストックホルム症候群だのと言われ続けるのは、耐えがたく辛かった。
ただありのままに、受け取って欲しかった。
快斗が想ってくれるように自分も快斗を想っているのだ、と。
けれど──何処か痛みを堪えるような表情で新一を抱きしめた快斗は、宥めるように、背を何度も撫でた。その手はひどく優しくて、けれどそれ以上、深く新一に触れようとしなかった。
『新一。俺は……謝らない』
長い沈黙の末、快斗は囁いた。やはり凪いだ海のように静かな、静かすぎる声だった。
『だから、俺を許さなくていい。お前に酷いことした俺を、一生……許さないで、新一』
告白に対する答えも、これからどうするつもりなのかも、快斗は口にしなかった。
(快斗……)
辺りを見回し、サイドチェストの上のメモをみつけた。クリスタルの水差しとグラス、その横に流れるような筆跡のメモが置いてあった。
──食事は冷蔵庫
夜まで、どうか待っていて
「ばーろ……」
人に足枷を嵌めておきながら祈るような文面をしたためた快斗を想うと、胸が静かに軋んだ。
* * *
「ふん……ったく、なんもねぇ島だな……」
男は質素なホテルの軒先で、流れる汗を拭い呟いた。
アメリカ国籍のその男は、この絶海の孤島に上陸して3日目の朝を迎えていた。
南国の島というから、少しはリゾートライフを楽しめるかと思ったが、現実は甘くなかった。タヒチのように観光客受けするスポットは、ここにはない。その上、携帯が入らないのだ。
完全に携帯が通じなくなるのは、滞在期間の3日と、最寄りの島とこの孤島を結ぶ航路をゆく間ぐらいだからと、衛星携帯電話をレンタルすることもなくこの島まで来てしまったが、心の底から後悔していた。
絶海のPhantomと呼ばれるマジシャンとの面会は、あいにく初日と2日目はもういっぱいで、3日目にしか予約できなかった為、島に上陸して2日の間、本当にやることが何もなかった。
日がな一日、海を眺めているしかない。あまりにも退屈して朝の散歩をしてみたが、いくら不快指数が一年のうち最も低く爽やかな時期といっても、動けば汗を掻く。日差しは強いのだ。
午後にはファントムに会いに行く。少し汗を流しておこうと、ホテルの従業員を呼び止めた。
「シャワー、今貸してほしいんだけど」
「いいけどシャワーは1日1回だよ。今使うなら、夜は無しだね」
要望を告げたが、従業員は愛想もなくそう返してきた。
「えぇ? 嘘だろシャワーぐらい使わせてくれよ。金ならある」
「アンタに金があっても、島の水源は限られてんだ。1日1回。ルールは守って頂戴。そもそもアンタ夜にもシャワー浴びるつもり? 凍えちまうよ? 今浴びればいいじゃないの」
浅黒く健康的な肌をもった女将はふんと鼻を鳴らし、軒先から見える島の山上を指さした。南国の深いレガッタ・ブルーの空を背景に、そそり立つ古城が強いコントラストを描いている。
「アンタもあそこに行くんだろ? マジシャン」
「あ、あぁ」
「あの城は元々、うちらのご先祖様の城だったのさ。今はファントムが買って、島にちゃんと金を落としてくれてるけどね。水源もあそこにある。皆で管理がしやすいよう、ファントムがちゃんと整備してくれたんだ」
「へ~ぇ……」
「でも今の時期、夏期より雨は少なめだから、水はあまり無駄遣いできないんだよ。今使うなら夜は我慢しておくれ」
仕方なく昼間にシャワーを借り、面会のために着替えるしかなかった。この島、乾期は基本無いと聞いてきたのだが、水に関しては厳しいようだ。
(ふん……古城に住む絶海のPhantomねえ)
濡れたタオルを洗面器にぽいと放り込みながら、まるでこちらが王に謁見する他国の使者といった構図だなと皮肉に笑うしかない。この島の住人にはどうやら上手く取り入っているらしく、誰もファントムのことを悪く言う者はいないようだが──渡航費用も馬鹿にならないこんな僻地 へ、客にわざわざ出向かせる気位の高さと偏屈度合いは、相当なものではないだろうか。
(まぁいいさ。金はある)
マジシャン達が裏で絶賛する、絶海のPhantomマジック。買った者の運命すら鮮やかに変えるというその奇術を手に入れさえすれば、こんな退屈な島も、不当に評価されぬままぱっとしない己の人生ともおさらばだ。マジシャンはほくそ笑み、山に登る準備をし始めたのだった。
* * *
一流のマジシャンは、道具と身だしなみを大切にする。
己のマジックに使う道具を、決して粗末に扱わない。良いモノを長く、大切に使う。一方で消耗するアイテムはさっと買い換えて常に美しく保つ。
そして、所作は美しい。身体の使い方をよく知っているからだ。1ミリも狂わぬ正確さで奇術を繰り出すためには、己の身体の動きを完全にコントロールできている必要がある。たゆまぬ努力は、必ず洗練された優雅な動きへと実を結ぶ。
……この男には、その美しさが無かった。
慇懃 な笑みを浮かべ挨拶をするその男のファーストインプレッションは、凡庸というより粗野で下品、というものだった。
男は、名をクライヴと名乗った。口ひげを生やした大柄な男で、快斗よりは年上だ。
いやここまで遠かったよ、ファントムマジックを拝むのは楽じゃないねぇ、と汗をハンカチでひっきりなしに拭きながら恩着せがましくぼやく。
もう相手のマジックを見る前から、その男の力量が知れる気がして、快斗はうんざりしていた。たまにこういう客が来る。実力以上に醜く肥大したプライドが腐臭を漂わせているような客が。
結局こういう客にマジックを売っても、ファントムマジックをしている間しか名声は保 てない。凡庸な男が自力で出来ることにはやはり限界があって、一時的な人気を不動のものにする実力は所詮無いのだ。
そんなことは重々承知で、それでも快斗は客にマジックを売ってきた。結局それはファントムの名に傷をつける結果にはならない。
あんな三流マジシャンでも一時 の夢は見られたのだから、ファントムマジックは流石だね。
ファントムマジックを手にしても結果的に消えていったマジシャンの背を見送る者たちは、皆そう囁く。金と引き替えに絶海のPhantomが授けるマジックは、多くのマジシャンたちを魅了し、確固たるブランドを築き上げていた。
今日のような客だって、何も初めてではなかった──けれど。
「しかし、こんな世界の涯では、娯楽の一つも無いでしょう。まだ貴方はお若い。退屈じゃぁありませんかね? 酒場もロクにないこんな島にわざわざ引きこもることもないでしょうに」
不躾なその台詞に、ぴくりと快斗の睫が震えた。
「別に、幸いにも多趣味ですので。島の暮らしは退屈しませんよ。皆さんも親切にして下さいますし、私にとっては日々の料理すら趣味の一つですので」
クライヴの前方を歩いてフロアへと案内しつつ、素っ気なく快斗が答えれば、鼻白んだクライヴの薄笑いが後方で響いた。
「なるほどなるほど。まぁ、そうですなぁ。この島は女性は奔放だと聞きますし、ファントム殿は色男でいらっしゃる。楽しげではありますな」
「……」
快斗は、強く肺腑から息を絞り出した。どうやらとんだ曲者を招き入れてしまったらしい。経歴を洗った方が良さそうだ、と元怪盗の勘が囁いた。
『匂う』のだ。
それはかつて、幾人もの犯罪者たちと向き合ってきた快斗の嗅覚が捉えた、過去に後ろ暗いものを持つ者特有の匂いだった。
フロアへ着き、実際にクライヴにマジックをやらせてみると、懸念は現実のものとなった。
(……酷い)
稚拙という域を超えている。
それはマジックへの冒涜だった。
確かに技術的には、客の前で大きなミスを犯さずになんとか基本のマジックを行うだけの技量はある。だが、男のマジックには愛も夢も、そして美しさもなかった。
鼻持ちならぬほど肥大したプライドが服を着て、醜い芸で人の関心を惹こうと必死になっている。
己の技量を厳しく磨く気もない男だと、すぐ解った。動きの荒さはあと一歩でミスになるギリギリだ。本人はその危うさに気付いていない。
それが不器用なりの努力の果てにある拙い動きなら、快斗にはすぐに解る。
マジックを愛する気持ち、足掻 いて涙する執念、そういったものは動きに全て出るからだ。
この男にはそれが無かった。人を幸せにするマジックは、この男の手からは一切産み出されることがないのだろう、今までも、そしてこれからもだ。
やがてマジックを一通り終えたクライヴが快斗に向かって一礼する。しかし、快斗は椅子に座ったまま微動だにしなかった。にこりともせず、能面のような表情でただクライヴを見つめた。
「……どう、でしたか。ファントム殿」
静まりかえった石造りのフロアに、クライヴの戸惑った声が響くまで、快斗は押し黙っていた。
もう自分も青二才ではない。最初の頃は、客にマジックを売るたびに吐いていた快斗だが、そんな青臭い感情も4か月もすればおさまった。今では気に入らぬ客にも、眉ひとつ動かさずダウングレードしたマジックをその場でアレンジし、譲渡することもできる。
その、はずだった。
……だが今日、快斗の胸は、いつになく荒れていた。
泥濘に手を差し入れ、名探偵がつかみ出し見せてくれた、白く輝く小石。
それはもしかしたら、エトルタの海岸で捨てたはずの小石かもしれなかった。思いのほか強く輝く己の石が、昨夜からずっと囁きかけてくるのだ、盗一の声で。
快斗、己に恥じぬ生き方をしなさい、と。
『オメーの手は魔法の手なんだよ……その魔法の手が生み出すマジックは、観客にとって「幸福」そのものなんだ。それは金に換算なんか出来ねえよ。オメーのマジックは、そんな、安くない』
熱く囁いた新一の声が……今も胸奥で、消えぬ灯火となり燃え続けている。
もう、お前のマジックを、安売りしないでほしい。
10年の疼痛を越えて、やっとの想いで口にしたのだろう新一の言葉。
(……お前が好きだと言ってくれた……俺の、マジック)
両の掌を、快斗は見つめた。
この掌に、他でもない新一が再び価値を灯してくれた。命を、灯されてしまった。
ずっと殺してきた想いがあった。新一への思慕と共に葬った想いがあった。
もう一度、その想い、呼び覚ましても赦されるだろうかと快斗は自問する。いや、誰に赦されなくても構わないと言い切れる覚悟は、できただろうか。
己に問いかけて──ふと笑った。
(もう、答えなんか、とっくに出てるよな……)
美しく生きたい。強く、強く思った。
己に恥じない、そして工藤新一に恥じぬ『マジシャン』で、在りたかった。
「……ファントム殿?」
眼前まで歩み寄ってきたクライヴが、眉をひそめ呼びかけてくる。
一度硬く瞼を閉ざし……そして、快斗は深呼吸ひとつして、椅子から勢いよく立ち上がった。
「申し訳ない、クライヴ殿」
「?」
隻眼に強靱な意志を湛え、黒羽快斗は目の前の男に対峙した。
「実に残念ではありますが、貴方に、私のマジックを譲渡することはできそうにない」
* * *
クライヴは、城を睨み付けた。
冗談ではないと大声で喚き立てたが、半ば追い出された形となった。
絶海のPhantomはきっぱりと告げたのだ──貴方に譲渡するマジックは無い、と。
「貴方のマジックには愛が無い、だと? ふざけるな……!」
がんっ、と腹立ち紛れに落ちていた小石を靴で蹴り飛ばす。閉ざされた城の木製ドアにそれは大きな音を立てて当たり、そして跳ね返った。
愛? 愛がなんだというのだ。この世は所詮金だ。絶海の孤島に辿り着くまでにどれほどまでの犠牲を払ったと思っているのだろう。必ずどんな客にも満足のゆくマジックを譲渡する。それが絶海のファントムではなかったのか。客をバカにするにも程がある。
結局、ファントムが自分に突きつけたのは、アメリカまでの往復分の渡航費用を上回る充分な金額を書き込んだ小切手だった。
『これでお帰り下さい』
憤然と、クライヴはその小切手をファントムの手から奪った。
『タダで済むと思うなよ若造が! 私がマジック界にこのことを広めたが最後、こんな世界の涯にわざわざマジックを買いにくるマジシャンなんか一人も居なくなる。お前は干されて終わりだ!』
啖呵を切ったクライヴに、だが最後までファントムが折れることはなかった。
『ご自由に』
冷然と告げたファントムの瞳を忘れない。塵屑 を眺めるような眼差しだった。城壁の大門まで見送りに出ることすらせず、自分を外に放り出したのだ。こんな無礼が許されるわけがない。
(…………くそ、手ぶらで帰れるかよ……!)
この世の涯 とまで言われる孤島まで来たのだ。得るものもなく打ちひしがれて帰国するなど我慢ならない。
(ヤツが一体どういうマジックをやってるのか……少しでも盗んで帰りたい……)
テクニックでもいい。小道具でもいい。世界中のマジシャンが畏怖と尊敬をこめてその名を口にする絶海のPhantom──その華麗な手技の片鱗だけでも、持ち帰ることは出来ないだろうか。
怒りと執念にとりつかれ、クライヴは近くの茂みに己のアタッシュケースを隠すと、城の周囲をそっと歩き始めた。先ほど放り出された戸はもう施錠されてしまったらしいし、まだ戸の近くにファントムが居る可能性もあった。他の出入り口を探すべきだ。
悔しさに歯ぎしりしつつ、城の外壁に沿ってジリジリとクライヴは歩いた。
やがて、敷地のより奥まった場所まで歩いてくると、先ほどクライヴたちが居た城の母屋とは別の尖塔が眼前に現れた。
何に使われているかは知らないが、尖塔の一番下にあるドアの錠は、遙か昔の閂錠 だった。
(これなら俺でも開けられる……)
手持ちの道具を使って少し弄れば、ぎぃ、と小さな音を立てて木製のドアが開く。尖塔の上に向けて、螺旋を描く細い階段が眼前に現れた。
* * *
陽の傾きからして夕方4時頃だろうか。窓際の丸テーブル横に置かれた深紅の椅子はここ1か月、新一の定位置だ。かけ心地のよいその豪奢 な椅子に腰掛け読書に没頭していた意識が、しかしふと逸れるのを感じ、新一は息を呑んだ。
書斎のドアが、小さな金属音を立てている。しかし、仕事中の快斗が来るにはまだ早い時間帯だ。その上、鍵穴から漏れ聞こえる金属音が妙に長く響いている。まともな鍵を使って快斗が開けるなら、一瞬のはずだ。
警戒し、ゆっくりと新一は本をテーブルに置いて椅子から立ち上がった。
ここの錠は内側からは開けないが、基本単純な錠だ。新一が中から脱出する危険については快斗も考えたのだろうが、生憎、外からの侵入者を想定した作りにはなっていなかった。
まさか平和すぎるこの島で、事件体質と言われる自分がついに侵入者を迎え撃つことになろうとは、新一だって思っていなかった。
やがて、ドアが控えめな音を立てつつ開いた。
現れた男は最初、死角に近い場所にいる新一に気付かぬようだった。一見して書庫である部屋に侵入し、辺りをゆっくりと見回している。
(物盗りか?)
しかしこの島の住人ではなさそうだった。肌の焼け方が島民にしては甘いし、顔立ちが違う。第一、服装がマジシャンのそれだ。
普段なら気付かれぬ間に飛びかかってケリをつけたいところだが、片足が鎖に囚われている状況では、音もなくこちらから先手を打つことなど不可能だ。それに残念なことに、主な部屋に設置されている緊急連絡用トランシーバーは書斎の入り口横の壁につり下げられていて、ちょうど犯人の隣だ。今すぐこちらから快斗に連絡を取ることは、位置的に不可能だった。
新一は動いた。じゃら、と重めの鎖が鳴る音と、アンクレットの鈴の音が折り重なるように書斎に響き渡る。
はっとしたように侵入者はこちらを見やり、そして驚愕したようだった。
「……Who are you!?」
書斎中央まで一気に歩んでいきつつ、新一は油断なく視線だけは男に投げて、誰何 の台詞を鋭く放った。お呼びでない侵入者に払う礼儀などない。
「おや。これは失敬」
怒る様子も見せぬ男からは、すんなりと癖の少ない英語が返ってきた。ひょいと眉を上げ、男が嗤う。その濁った瞳が、動く新一を追い掛ける。蛇のような粘着質の眼差しに思わず嫌悪で毛が逆立ったが、新一は止まらなかった。
しゃん、とアンクレットを鋭く鳴らし、書斎中央でようやく立ち止まる。ここまで来れば、書斎の至る所に設置されているのであろう監視カメラの死角にはなり得ない。
360度、何処からだって新一の姿は捉えられるはずだ。
おもむろに、新一は男に向き直った。
「これはこれは……」
下卑た笑いを貼り付かせ、大柄なその男は新一をじっとりと眺め、口を開いた。
「驚いた。貴方はどうやらここに囚われの身のようだ。幽閉された姫君といったところかな?」
「バカも休み休み言え。こんな女が居てたまるか。お前こそ何だ? マジシャンのフリをした、唯のコソ泥か」
鋭く尋ねれば、上は白いシャツ、下は黒のスラックスといった格好の男は、一瞬ひゅぅ、と口笛を吹いた。
「なかなか度胸もおありのようだ。結構結構」
「お前もなかなかふてぶてしいな。この城の主はお前が思うほど甘くないぜ。不法侵入などじきにバレる。どう申し開きするつもりだ?」
冷徹な新一の声にも、だが男は動じなかった。
「まぁ何かマジックの糧になればと思って来たが、ははっ……想像以上の収穫だ。幸運の女神はどうやら私に味方したようだな」
男は顎に手を添え、厭らしい笑みを浮かべた。
「絶海のPhantomは、裏でこんな薄倖の美青年を囲っていたのか……これは驚きだ」
「……どういうつもりだ」
「いやぁ? こっちは数十万かけてこんな辺鄙 な島までやってきたってのに、客をえり好みする高慢なファントムにマジックの譲渡を断られたんでね。こちらとしてもただ大損じゃぁ帰るに帰れませんよ。見れば貴方、尋常じゃない。その首輪に足枷。ファントムにそういう趣味があったとはねぇ……面白い」
一歩、また一歩。近づいてくる男に半身の構えを取りつつ、新一は油断なく睨み据えた。
「ファントムをゆする気か……お前」
「ゆする? 人聞きが悪い。高慢なファントムに、きちんとお仕事をして頂きたい、ただそれだけですよ。それに貴方もまさか足枷で繋がれている現状に満足していらっしゃるわけじゃぁ、ありませんよね?」
男がついに目の前に立った。上背のある男へ、新一は射殺す眼差しを投げた。
「……何が言いたい?」
「もし上手くファントムと私の取引が成立すれば、ついでに貴方をここから出して差し上げることも可能だと申し上げているのですよ。それにしても……お美しい」
男の手が、新一に伸ばされる。腕を掴み、さらに空いた手で頬をも触ろうとしたその不躾な手を、だが新一は一撃で撥 ね除けた。
「汚らしい手で触れるな下種が!」
「なっ……」
「俺がここに居るのは俺の意志だ!」
叩きつけるように叫び、新一は乱れた前髪の合間から男を見据えた。
一拍遅れて、心の中に熱いものが湧き出てきた。
(快斗、お前……!)
この客に、快斗はマジックを売らなかった。少なくとも今日、確実に守られたものがあったことに、新一は震えるような喜びを感じていた。昨日の会話は、無駄ではなかったのだ。
己の愛したマジシャンの選択を、心から誇りに思った。
ならば、自分も守ってやらねばなるまい。この下種 にくれていいものなど、何一つ無いのだから。
「ファントムマジックは、お前のような恥知らずの下種が扱えるほど安くはない。今すぐここから去れ。警告は、したぜ?」
「……ほう。鎖に繋がれた囚われの身でありながら高慢だ。この城の住人は誰一人、客人へのまともな口の利き方を知らんようだな」
「客人? お前が?」
思わず新一は失笑した。客人だと。本当に馬鹿も休み休み言えとはこのことではないか。
「コソ泥が客人を名乗るとは、片腹痛いぜ!」
「フン、男娼ごときがでかい口をほざくな!」
下卑た嗤いで口を歪め、男が掴みかかってくる。
(……!)
流石に怒りで全身が総毛立った、その瞬間だった。
空気が、裂けた。
ヒュッ……と一瞬にして何かが空を裂いて飛来したかと思うと、彼の背で鋭い打撃音が弾けた。
「ウアァァァァッ!」
男が突然苦悶 に顔を歪め、新一の腕を放した。そのまま後方に身体をねじ曲げ、撃たれたように2、3歩よろけながら戸口を振り向き、男は絶句した。
戸口から吹き付けてくる、冷涼なその気配。
(来たか……)
新一が顔を上げれば、そこには片眼を漆黒の眼帯で覆った、絶海のファントムが立っていた。
その、右手。
(……鞭 、かよ……!)
予想外の獲物に、新一は目を剥いた。
彼の手に今握られているのは、黒革で編んだ長い一本鞭だった。相当長い。扱いの難しいそれはもはやSMプレイなどで紹介されているようなレベルの鞭ではなかった。
はっきりと──武器だ。
「クライヴ殿、アンタの穢らわしい言動の全ては録画済みだ。さて」
ファントムの鞭が再び唸りを上げた。黒い蛇が激烈なスピードで飛ぶ。それは正確に男の膝を捉え、無慈悲に痛烈な打撃を加えた。
「ぐぁっ!」
膝を砕かれ、男がガクリとその場に頽 れる。
数メートルの距離を保ったまま、ファントムはそんな男を絶対零度の瞳で見下し、低く告げた。
「今、俺の聞き間違いでなければ、男娼と聞こえたな」
「ぐ……っ、何を、する……っ」
「俺のサフィールに跪いて許しを請え、屑が」
さらに鞭が唸った。床にへたり込んだ男のすぐ右横を鋭く打つ。
ひっ、とクライヴが身を竦ませた。
あれだけの長さの鞭だ。下手に打てば思わぬ所に当たったり、鞭を揮 った本人に跳ね返ったりもするのに──ファントムの一打一打はゾッとするほど正確無比だった。
肌を凍らせる怒りが、ファントムから放射される。気配だけで人の気道をも詰まらせるその気迫は、氷の刃そのものだった。
見えぬ刃が、侵入者の喉にぴたり、突きつけられている。
「お前をマジック界から追放するなど一瞬で事足りる。一度退去を命じた以上、貴様がここに居ること自体、住居不法侵入だ。加えて人の大切な宝石を侮辱し、あまつさえ許可もなく触れようとした罪は重いぜ。お前に過去、窃盗罪の経歴があったことは調査済みだ」
「何っ」
ファントムは悠然と顎を上げ、男を見下ろす。仕事用に綺麗にアップしていた髪は乱れ、ばらりと長めの前髪が落ちる。その合間から、怒りに燃える隻眼が仄昏 く輝いていた。
「クライヴはマジシャンとしてのステージネームだろう。償って塀の中から出てきた人間をこれ以上追い詰めるつもりはない。ただ、覚えておけ。償ってもなお、犯した罪の名まで消えるわけではないぜ、コソ泥」
「Shit!」
「謝罪を要求する」
冷徹なファントムの声が再び鋭く飛んだ。同時に鞭が今度はクライヴの左の床に炸裂する。床のペルシャ絨毯が切り裂かれ、細かな繊維が一瞬宙に舞った。
「彼に謝れ。それで貴様の罪も無礼も不問とする。お前と取引することは金輪際無い。二度とこの城の敷居を跨ぐな」
「……っ!」
ギリギリと歯ぎしりする音すら聞こえそうな表情で、男はフン、と鼻を鳴らした。
「誰が来るか」
「……謝罪しろと言った!」
底冷えする静かなる怒声と共に、男の膝ギリギリの場所を、再び鞭が鋭く削り取った。
放射される怒りの気迫が、後方にいた新一すら圧倒する。肌が粟立つほどのそれは、蒼白い高温の炎にも似て──冷ややかな気は、一瞬で肌を灼いた。
ヒッ、と男が頬を強張らせ、その場に尻餅をついたまま後退 る。油の切れた機械のごとくぎこちなく後方の新一を見上げ、男が、震える声で告げた。
「悪、かった……」
「──」
新一は応えなかった。ただ黙って男を見下ろす。震える小者にファントムが大股で歩み寄り、力の抜けた男の腕を掴み上げると、冷然とした声音で男を刺した。
「海の向こうにお帰り願おう。俺の手がうっかり滑って、貴様を絶海の藻屑とする前にな」
鞭を片手にするりとまとめ持ち、空いた手でファントムが、男を吊り下げる勢いで掴む。つんのめりながら立ち上がらされた男が、あっという間にドアの向こうに引きずられていった。
やがてファントムが──いや、快斗が城の大門から、アタッシュケースと共に男を文字通り蹴り出すのを、新一は書斎の窓から見守った。
ゆっくりと、今まで知らず詰めていた息を、肺から押し出す。細長く息を吐ききり、新しい空気を吸いたくて、窓を少し開けた。
強めに風が吹き込んでくる。常日頃からこの島に吹く風は強いのだが、今は天気が下り坂なのだろうか。気がつけば空には広範囲に雲が現れ、風は不穏なほどに強まりつつあった。
吹き込む風に髪を遊ばせ、新一は窓枠に手をついて寄りかかると、また深く息をついた。
(サフィール、だってさ)
小さく喉奥で笑った。全く、ヤツの気障は一生治らないらしい。
「……恋人だって言ってくれたら、合わせて演技してやったのに。ばーろぉ……」
冗談めかして呟いた自分の言葉に、思いのほか深く胸を抉られ、新一はそっと己の腕を己で抱くようにして黙り込んだ。
* * *
男は呻いた。まだ鞭で叩かれた背が痛む。以前窃盗で捕まった時でさえこれほどまでの屈辱を味わったことなど無かった。
(くそ……っ!)
こんなことが許されていいのか? 俺は客だぞ。
ぎりぎりと歯ぎりししつつ、男は血走った目を辺りに走らせる。何か、何かないか? あの鼻持ちならぬ高慢で美しい男どもの鼻をへし折る、何か──
(……そういえば……)
『あの城は元々、うちらのご先祖様の城だったのさ。今はファントムが買って、島にちゃんと金を落としてくれてるけどね。水源もあそこにある。皆で管理がしやすいよう、ファントムがちゃんと整備してくれたんだ』
ホテルの従業員が聞きもしないのに喋った内容が、ふと脳裏に蘇った。
「……ふん……それだ」
ニヤリと嗤い、山上を振り返る。しばらくこちらの背を睨み付けていたファントムも、さすがに城内へ引き返したようだ。この距離ならば、もう城門付近の監視カメラにも映るまい。
怒りで我を忘れた男は行き先を変え、城の外壁に沿って飢えた熊のように歩き始めた。
* * *
城から男が離れ、山道を降りてゆくのをしっかりと見届け、やがて快斗は大門に背を向けた。
深く息を吐いても、鉛を飲んだように、胸が重い。
(不覚だぜ……)
新一を危険に晒すところだった。最初から大門の向こうに叩き出しておけばよかったのだ。
この城は古いし、基本は住民との信頼関係で成り立っているから、全ての通用門が堅牢なセキュリティというわけではない。大体は新一の暮らす尖塔と同じく、至極単純な錠である。しかし大門とその横の通用門、また機密が多い快斗の私室については、素人でもそう簡単にピッキングできぬ錠に取り替えてあったのだから、叩き出してさえしまえばコソ泥程度のテクニックでは歯が立たなかったはずだ。他の通用門はみな森の中だから、目で見回せる範囲内に、他の出入り口は無い。
快斗の、落ち度だった。
その上──己がクライヴに投げた言葉は、そのまま自分に深く突き刺さっていた。
そうだ。檻の中で罪を償ってもなお、罪の名は一生自分について回るというのに。
(……俺ときたら、償ってもいねぇんだからな……)
コソ泥に偉そうに言っておきながら、自身はこのザマだ。
──過去は、消えない。父の名誉を守るためにも、この罪悪感も真実も、全て秘めたまま墓場まで持っていく覚悟は出来ているけれど、それでもさすがに今日は堪えた。
母屋にある己の自室に鞭を置き、重い足を引きずって尖塔へ戻ろうとしたが──微かに手が震えていることに気付いた。昂ぶりすぎた感情は、少し落ち着けるには時間が必要なようだった。
拓 けたように思えた、光射す未来も希望も……やはり、この汚れた手が望むには過ぎた望みなのだろうか。
ハッ……と小さく自嘲が漏れた。
あのコソ泥と自分、別に何ら変わりは無い。いや、一度は捕まって塀の中におさまった分、まだ人としてヤツのほうがまっとうな罪人人生ではないか。
(罪人にまっとうもクソもねぇけどな……)
そう思うと、果てしなく気分は落ちた。もう自分たちには残された時間がないというのに、こんなことに時間を取られて、情けないことこの上ない。
少し自分を落ち着けたくて、快斗は尖塔に戻ると、書斎のドアを外から叩いた。
「……新一」
呼びかければ、内側から近づいてくる鎖の気配がした。やがてドアの内側から、「快斗?」と声が聞こえてくる。ドアそのものは先刻コソ泥に解錠されたままだから簡単に開くのだが、鎖は未だ新一の足首に纏わり付いていて、ドアまでは届かないのだ。
胸は、再び疼いた。
新一は鎖に対して最初こそ激しく嫌悪を見せたものの、この生活が本格的にスタートして以後、一言も鎖を外せ、と言わなくなった。鎖で自分を引いて歩くな、とは言ったが、こうして快斗の不在時に部屋に繋がれることに対し、不服を口にすることは少なくとも無かった。
自由を、諦めているのではない。
全ては、この手に託されているのだ。もう、痛いほど解っていた。
「怪我は、無いか」
先刻ざっと安否を確認して、擦り傷一つなさそうだと安心はしていたものの、それでも声を掛けた。内側からは、小さな苦笑と共に声が返った。
「ねぇよ。掴まれた瞬間、オメーがすげぇ物騒なモン持って派手に登場したからな」
「ま、剣や銃よりは遥かにマシだろ? 自衛手段は持っておかねぇとな」
「どこの中世だよ、ったく……ある意味剣より恐ろしいっつの」
しばし言葉が途切れた。やがて、部屋の中から新一が静かに声を投げてきた。
「……入らねぇの?」
「もう、夕方だ。飯作ってくる」
答えつつも、見透かされているだろうなと快斗は苦く笑った。新一に合わせる顔がない。
あんな小者に新一の書斎まで侵入されたこともそうだが──そもそも、新一がもし足枷に繋がれていなかったなら、もっと新一にだって自衛手段があったはずだ。
常に新一を繋いでいなければ気の済まない己の怯懦 こそが、新一を危険に晒したのだと思うと、手の震えが止まらない。くそ、と内心毒づいて、己の左手を右手できつく掴んだ。
「待ってて。部屋まで、持ってくるから」
「……あぁ」
頷く気配を扉越しに感じ、快斗自身も少し落ち着きを取り戻した。踵を返し、階段を下りかけたその時だった。
「快斗!」
強い声が、突然書斎の内側から再び響いてきた。
「お前が今日、マジックを売らなかったって聞いて……俺、すげぇ嬉しかった!」
「……!」
2段ほど石段を下りたところで立ち止まり、快斗は思わず振り向いた。
「安売りせずにいてくれて、嬉しかった!」
なおも扉越しに降る、力強い声。
「……っ」
瞬間、ぐっとこみ上げるものがあった。歯を食いしばり、その熱いうねりに快斗は耐えた。
(礼を言うのも謝るのも……全部、こっちの方だぜ……名探偵……っ)
たった一言で、膿んだ胸を清い風のように攫ってゆく新一の言葉に、目頭が熱を持つ。反射的にこのまま扉を開け放って、新一を抱きしめたくなってしまう。
強く息を吸い、そして吐き出す強さで──快斗は声を放った。
「……おう!」
身体の奥から湧き上がる青臭い衝動をどうにかしたくて階段を駆け下りながら、快斗はくっと顔をしかめ、苦く笑った。
「言ってみたかったなぁ……恋人に手を出すな、ってさ……」
* * *
新一はその後も、ずっと窓際にいた。さすがに冷えてきたので窓自体は閉じたが、窓枠に寄りかかるようにして、黄昏時から宵闇に染まりゆく城の庭を眺め続けていた。
何かが、新一を呼んでいる。それはこの状況では実に残念なことだが──久方ぶりに己の嗅覚を刺激する、事件の匂いだった。肌がざわつき、ずっと落ち着かない。
(杞憂ならいいが)
己の腕を抱くようにして、新一は陽が落ちてゆく中、庭を眺め続けていた。
やがて──ふと新一は目を瞠った。
庭の片隅にある、作業小屋。ガーデニングに必要な材料や、土、鍬 などの資材や機材、そして殺菌剤・殺虫剤などの農薬が収納されている小屋のあたりに、薄らと人影が見えたのだ。
(……!)
遠目でかなり光量は落ちていた。もともと今日は夕刻から天候が下り坂、空は暗い上に、陽も落ちかけている。急激に陰る視界の中、しかしその人影は確実に小屋の扉を開けていた。
上は白いシャツ、下は黒いズボンのようだ。
直感が告げている。あれは快斗の背ではない。第一、快斗はいま調理室のはずだ。
小屋の中から、男は何かを持ち出している。それが白っぽいポリタンクだと気付いた瞬間、新一は舌打ちした。目は片時も男から外したくなかったが、入り口のトランシーバーまで今走るべきか、と足に力を入れた瞬間、軽やかなノックが響き、ドアが軽い音を立てて開いた。
快斗が料理のトレイを持って、中に入ってくる。
「快斗!」
窓から目を逸らさぬまま、新一は叫んだ。
「あいつだ! いま庭に居る。作業小屋から何かを持ち出した。多分、農薬だ」
「何っ……!」
快斗が足早に円卓へ歩み寄り、大きなトレイをいささか乱暴に置いた。トレイの上では美味そうな料理が湯気を立てていたが、残念なことにそれにありつくのは後になりそうだ。
「移動中だ。恐らく行き先は大門じゃない。あれは──」
その瞬間、これから起こる惨劇を予感し、ぶわりと髪の毛までもが逆立った。
「──行ってくる!」
格子越しの窓からちらりと見ただけで状況を把握した快斗が、鋭く告げて駆け出そうとする。だがそんな快斗の襟首を掴んで、新一は引き留めた。
「待て」
「新一!?」
「俺を連れていけ、快斗!」
叫んだ新一を見つめ──快斗が、凍り付いたように一瞬固まった。
* * *
一刻の猶予もならなかった。だがそれでも一瞬、身体が強張るのはどうしようもなかった。
ぐっと奥歯を噛みしめ、快斗は新一を見つめた。
「快斗!」
新一の声が、凍った空気を再び斬った。
「時間がねえ。ヤツが持ち出したのは農薬だ。向かう先は、恐らく貯水池に繋がる通用門だ!」
「……っ!」
皆まで言われずとも解っていた。そうだ。完全に陽が沈めば状況は厳しくなる。時間はないし、追う者は多ければ多いほどいい。
「俺を連れていけ、快斗!」
再び叫んだ新一が、快斗の襟元を掴み上げ──そして不意に顔を寄せた。
(……っ)
唇に、柔らかな感触が触れた。二度、三度。唇の表面を啄 むだけの控えめなものだったけれど──それは確かに、新一からの、キスだった。
目元を美しく染めた新一が、小さな吐息を漏らして、ゆっくり離れた。
「──かいと」
ただ静かに目覚めを促した彼の声に、全身が震えた。
「……っ!」
ぐ、と歯を食いしばり、その場に跪く。一瞬で袖口から取りだした薄い鍵で足枷を解き放った。
からん、とアルミ製の足枷が離れ、床に転がる。ついでに立ち上がりざま、首枷にも手を伸ばした。1秒もかからず首枷を取り去る。
床にそれを捨て、快斗は新一の全身をもう一度見つめた。
シャンデリアが落とす虹色の光が、細かく新一の肌に落ちては彼を彩る。
ああ、と快斗の胸奥が小さく震えた。サフィールとは思いつきで口にした言葉だが──本当に、気高い光を纏うサフィールが、そこに居た。
鮮烈に輝く蒼の双眸が燦めいて、その瞬間、小さく頷いた。
言葉は要らなかった。快斗も小さく頷いた。
即座に走り出した快斗の背後で、新一が叫んだ。
「携帯は!?」
「持ってる!」
仕事中や一人で動く時は、大体腰のホルダーに衛星携帯電話は装着している。ぱん、と片手でそれを叩いて叫び返せば、
「よし、先に行け!」
再び背後から、新一が叫んだ。
「了解」
意図を理解するのも一瞬だった。新一を置いて先に尖塔の階段を駆け下りる。西の地平線にはブラッドオレンジに似た陽の残り火が光の帯となり広がっているのに、藍色に変わりゆく空には気の早い星たちがひとつ、ふたつ、瞬き始めている。足元は既に暗く、闇に支配される寸前の庭へと猛然と躍り出ながら、快斗は歯を剥いて小さく笑った。
きっと、ずっと解っていたのだ。
あれほどまでに清廉な輝きを放つ慧眼。その瞳は決して、世界の歪みを見逃さない。
所詮、欲と弱さで編んだ鎖なんかで、繋ぎ止めておける人ではなかった。
それでも、一度たりとも新一は、足枷を解けとは言わなかった。ただひたすらに、俺を連れていけと叫び続けたその優しさが、いま、強く強く快斗の胸を叩く。
こんな緊急時ですら、新一は快斗に選ばせたのだ──未来を。
(くそ、完敗じゃねえか……!)
好きだ、と唐突に叫び出したくなる衝動を堪えて、快斗は走った。全速力で駆ければ、この10年ものあいだ胸を巣くい続けてきた澱 が剥がれ落ちてゆく気がして──胸が、ひどく熱かった。
新一の枷をこの手で解き放ったら、まるで自身の枷も共に霧散したかのようだった。
身体が、ひどく軽い。植栽を飛び越え、快斗はトップスピードで駆けた。
と、腰のホルダーで、携帯が震え始めた。掴みあげ、画面を確認すれば──それは寺井の端末からの着信だった。迷わず、通話ボタンを押す。
『俺だ』
前置きもなく即座に耳に響き渡った新一の声に、あぁ、とだけ頷いた。
知っていた──そんなことは、とっくに。
いつだって、あの携帯を使おうと思えば使えたはずだ。だが今日この瞬間まで、新一は結局、寺井から託された衛星携帯電話を一度も使わなかった。
『今、俺はお前の後方を走ってる! 貯水池に着いたら、お前は右を行け! 俺は左に回る!』
その声にちらと後方を確認する。50mほど後方を、携帯電話を耳にあてがったまま黒い人影が迫ってくるのが見えた。もっと引き離してると思ったが、相変わらず機動力がある。
一か月、鎖に繋がれ続けていたとは思えぬ脚力だった。
『了解! 気をつけろよ名探偵!』
『オメーもな、元大怪盗!』
威勢の良い台詞と共に、一旦、通話が切れる。
城内部と貯水池を繋ぐ通用門に辿り付いたが、案の定開いている。恐らく犯人がピッキングで開けたのだろう。半開きになっていたその扉をぐいと開き、暗く沈みかけた森に猛然と身を躍らせながらも、この一か月が走馬灯のように脳裏を巡った。
濃厚で、けれど飛ぶように過ぎ去った、一か月だった。
(あーあ……短かったな……)
明けない夜は無く、止まぬ雨は無い。
そして、醒めぬ夢もまた、無いのかもしれなかった。
* * *
打ち合わせ通り、新一は左周りに池の周辺を回り始めた。それほど大きな池ではないといっても、森は深く、ここに辿り着くまでにも小径はカーヴしているため、暗くなってからまったく地理感覚のないはずの男が池に辿り着くには、苦労するはずだと踏んでいた。
案の定、池のすぐ側を左回りに走り始めて少しした頃、前方に小さな光が見えた。おそらく自分の携帯のフラッシュライトを使っているのだろう。まだ暗闇の中、池の水辺がどのあたりにあるかすら解っていないようだ。
新一の推理が正しければ、男は一度麓のホテルに帰ったフリをして、この貯水池を確かめたのに違いない。ついでに貯水池近くの通用門も探し当て、再度侵入し、暗くなるのを待って動いたのだろうか。雨でも降れば痕跡は全て消せると思ったのかもしれなかった。
(腹いせに農薬を水に投入しようってか……それが腹いせで済むと思ってんなら頭おかしいぜ!)
運悪く、麓の村用の汲み取りパイプ付近に農薬が投入されでもしたら、真っ先に倒れるのは快斗や新一ではない。麓に住む何の関係もない村の住人たちなのだ。いずれにせよ嫌がらせではすまない。病院も無く、倒れたら最後、ヘリで最も近い島の診療所に運ぶ以外に無い孤島なのだ。
数十名が一気に中毒を起こしたりしたら──最悪のシナリオが幕を開ける。
助かる者も、助けられない……!
(殺させるかよ……っ!)
新一は声を上げなかった。息を殺したままその光に向かって突き進み、シルエットを確認した瞬間、地を蹴った。
その背を強く跳び蹴りしてやる。もんどり打って倒れた男が怒号を上げた。地面に転がったポリタンクをなんとか掴まえようとしたが、男の手が伸びるのが一瞬早い。
裏拳でがんっと首元を打たれ、さしもの新一も激しく咳き込みながら夜の草むらに倒れ込んだ。
「……っ!」
だがタダでは倒れてなどやらない。咄嗟に男のシャツの裾を引きちぎる勢いで掴み、共に倒れる覚悟で引いた。後頭部から地面に身体を打ち付けた男が、一瞬息を詰まらせ地面に倒れ込む。
「うあっ」
足首にその瞬間、鋭い痛みが走った。強く捻ったのだ。
お互いもんどり打って倒れ込み、押さえつけるも形勢逆転され、こっちが押さえ込まれた。
瞬間──空が突然耐えきれなくなったかのように土砂降りのスコールを降らせてきた。
一気に肌を切り裂くような冷たい雨が二人を叩く。スコールに慣れず驚いたらしい男の股間を蹴り上げたが、こちらも狙いが逸れた。不覚にも相手の太腿を蹴ってしまったらしい。
へっ、と犯人が新一の身体を押さえ込み、醜くせせら笑った。
「残念だなぁ?」
瞬間、腹に重い一撃を食らわされた。
「ぐ、ふっ……」
刹那、眼球の奥が赤黒く明滅した。それでもなお気を失わなかった自分を褒めてやりたい。
寝たままの姿勢で、ぐっと足首へと伸ばした左手 を再び引いた。指先でひっかけた細い鎖を断ち切ると同時に、新一を置いて離脱しようとする男のベルトに右手を掛け、男の力を利用しながら気力一つで起き上がる。
「離せ!」
怒鳴る男の拳を躱しながら、左手でそのシャツの襟首を掴んだ 。
足に走る激痛を堪え、再び襲ってきた拳を避け、新一は遂に地面に倒れた。男がポリタンクを奪って再び駆けてゆく。新一はズボンポケットに突っ込んでいた携帯を握りしめ、快斗へかけた。
『工藤! 何処だ!』
咄嗟に、長年馴染んだ名字呼びで回線の向こうから快斗が怒鳴る。池の対岸にいるはずの快斗に見えるよう、新一は己の携帯のフラッシュライトを操作し、点灯した。
「ここだ! まだ犯人はこの辺りに居る! 俺のアンクレットを犯人のシャツの中に投げ込んだ! 俺は動けない。アンクレットを追え、黒羽!」
『……っ!』
息を呑んだのも一瞬──解った、通話は切るな! と快斗が叫んで再び走り出す。
豪雨の雨音と、荒い呼吸音、草を蹴り進む雑音が流れ始めた携帯を握りしめたまま、新一は痛みを堪え、前のめりに腹を押さえて肩で息を繰り返した。
足も激痛だ。悔しいがもう動けない。脂汗と雨で目が酷く痛んだが、不安は不思議なほど無かった。ただ、男はどうやら自分の位置が悟られるのを嫌がって、自分の携帯ライトは消し去ったようだ。位置は掴みづらくなったが、土地勘のない犯人も同時に動きづらくなったに違いない。
もう30センチ先も見えぬ漆黒の闇が、辺りを浸してゆく一方だ。
甘い岸辺の蜜香すら、今は叩きつける雨粒に打ち消され、感じ取ることも出来ない。後は例のアンクレットが仕事をしてくれるのを祈るのみだ。
(快斗……っ)
新一はせめて、己の身体より高い位置で携帯のフラッシュライトを掲げた。
闇夜をも貫く、灯火になれとばかりに。
* * *
降りしきる雨の中、快斗は大股で歩きつつ、IP67準拠の防塵防水性能を誇る衛星携帯を操作した。仕込んだアプリが立ち上がる。
光点が、画面上の地図と重なり明滅しながら移動中だ。
瞬間、弾かれたように走り出す。もう位置は把握できた。快斗にとってはここは勝手知ったる庭である。対岸で新一の掲げるフラッシュライトもこちらから微かに見て取れる。そこから脳内地図を組み立てれば、闇の中でも水辺の位置、障害物の位置は大体把握できた。
(……新一、知ってたのか……)
ハッ、と乾いた笑いが唇から漏れた。やはり工藤新一に隠し事はできない。
あのアンクレットには、一つだけ特殊な鈴を仕込んであった。小型発信器が鈴の中に搭載されていて、端末と連動し、新一の場所が解るようになっていたのだ。
それは快斗が新一に着けた、文字通り──『鈴』だった。
『まぁ、虫除けのまじないみてぇなもんだよ』
かつて新一にそう告げたが、虫除けには結局ならなかったな、と小さく笑った。万が一の時にと仕込んだ鈴だったが、結局あのアンクレットが守ったものは、新一ではなかったのだろう。
(俺の、弱さだ……)
どうしても新一を失えないと怯える快斗自身の心をこそ、今日までアンクレットが守り続けていたのだろう。今なら、解る。
どうしようもない怯懦 の象徴だったが──
(最後の最後で、少しは役に立ったな!)
猟犬のごとく暗闇を駆ければ、すぐにターゲットは捕捉できた。暗闇の中、恐る恐る手探りで動いていたらしい男の後ろ姿を認めた瞬間、快斗は口端をニッと引き上げた。現代人には豪雨に閉ざされ一歩先も見えぬようなこの闇、相当恐ろしいに違いない。
南国のスコールが味方だ。敵はこちらの足音すら聞こえない。
即座に距離を詰めた快斗に、やっと直前で気付いた男が身体を強張らせたが──
「遅いぜおっさん!」
逃げる間など与えない。腕を振り上げ、快斗は獰猛に歯を剥いた。
己が巻いた、弱さの種ならば。
(砕いてやるさ……!)
その首筋に、鋭い手刀を一発、撃ち込んだ。
「う……っ」
かはっと息を吐いて、男が意識を失い、あっけなく地面へ倒れ込む。男のシャツの中で、引きちぎられたアンクレットが、しゃん……と鈍く鳴った。
脇に転がるポリタンクを確認した。蓋は開いていないし、中身は減っていない。ふぅっと鋭く安堵の息をつき、快斗はホルダーに突っ込んでいた携帯を取りだし耳に当てた。
「新一、聞こえるか」
『おう。仕留めたか』
「ああ。被害はない」
池の岸辺まで、あと5m──緊迫の夜は、そこでカウントを止めた。
07 サフィールに捧ぐ
雨は、そこから20分ほど降り続け、やがて小雨になった。
快斗の連絡を受け、麓の駐在所から三輪バギー2台を操り、所員ともう一人が駆けつけてきた。
「快斗様! 工藤様! お怪我はありませんか!?」
それは出国したはずの、寺井だった。
合羽のフードをばさりと取り去り、命が無事で良かった、と快斗と新一の手を掴んでぶんぶんと握りしめながら、寺井は泣いた。
寝間着のまま合羽だけを羽織って麓から駆けつけてきた寺井の登場に、快斗はさして驚いた顔を見せなかった。かといって、最初からそれが打ち合わせ通りというわけではなかったらしい。
「寺井ちゃん、今まで何処にいたんだよ……? 心配したんだぜ?」
優しく問いかけた快斗に、顔をくしゃくしゃにして詫びながら、寺井は麓の知り合いの家にしばらく居候していたのだ、と告げた。この島では電話の呼び出し音が各家ごとに割り当てられたモールス信号となっており、真夜中だろうと何だろうと、一旦電話が鳴れば、全家屋の電話が鳴るし、全ての回線が繋がっているのだ。ザルなシステム故に傍聴もやり放題で誰も咎めない。
故に、今回の事件はあっという間に駐在から島民へ広がったのだった。
事件を知った寺井は、それで駐在にバギーでの同行を申し出たのだった。
バギーと徒歩組に別れ、事情聴取のために一旦皆で麓に降りた。駐在所の簡易牢にマジシャンは繋がれ、この島と同じくフランス領である最寄りの島へ移送されるのを待つこととなった。こうなるともう無罪放免というわけにはいかない。
派出所近くの民家は、この1か月、寺井が身を寄せていた家だった。快斗と新一はその家の厚意によりシャワーと着替えを借り、温かな飲み物も貰ってひとまず落ち着いてから取り調べに応じた。新一は足の手当も受けた。腹部の殴打痕については、うっすら青あざの滲んでいる肌を写真に撮られた。証拠にするのだという。
正式な医療機関での診療については辞退した。ヘリで移送されるような大げさな怪我ではない。腹部の痛みはもう引いていた。
ようやく諸々 が終了し、借り物のシャツとジャージ姿でバギーを駆り、城に戻ることになったのは、もう明け方近くになってからだった。
二台のバギーで寺井を伴って城に帰り、借り物の衣類を着替えていつもの部屋着を身に纏うと、冷えた食事を温め直して、三人で分けて食べた。
冷えた身体をいい加減、芯から温めなければ、そろそろ限界だった。
「皿は私が片付けますので、快斗様は工藤様を」
寺井の言葉に、快斗が頷いた。
「風呂沸かすよ。行こう、新一」
「おう」
手を差し伸べられ立ち上がったものの、ずきりと右足首に痛みが走る。この足では尖塔の上まで歩くのはなかなかしんどいな、と密かに溜息をついた瞬間、新一の足元で快斗が当たり前のように背を向けて、身を屈めた。
「……っ、ちょ、えっ?」
「ほら。おいで」
ちらと肩越しに振り向き、快斗が微笑う。
横抱きされるのも背負われるのも、もはや初めてではない。しかしもう二人きりではない。
(寺井さんの! 目の前!)
あわわ、と真っ赤になって慌てる新一から、寺井はさりげなく視線を逸らせて皿の後片付けをしてくれた。快斗は全く頓着せず、ほら、と新一におぶさるように指示し、待っている。
仕方なくその背に身を預ければ、危なげなく快斗は身を起こし、尖塔の上へと階段を上り始めた。
ランタンは、快斗におぶさる新一が手に持って、足元を照らした。
「わりぃ……重くね?」
「軽い軽い、といいたいけど」
尖塔の中程まで登ったあたりで、はは、と快斗は笑った。
「ま、ちょっと疲れたよな、今夜はさすがに」
わずかに快斗の息が切れている。お互い一睡もしていない。
「降りる」
即座に告げた新一だったが、快斗は首を振った。
「だめ」
「おい。別に足が折れてるわけじゃねえんだから、歩ける」
「でも、だめ」
どこか優しい声音で、快斗は繰り返した。背中から体温と共に沁みてくる快斗の優しさに、不意に喉が詰まり、新一は黙り込んだ。
「新一の重みを、覚えていたい」
快斗が、噛みしめるように囁いた。
(……快斗……)
夜明けと同じ速度で迫る予感を抱いて、新一はただ密やかに瞳を眇めた。
快斗の首筋に、鼻先を押し当てる。深く息を吸い込めば、華やかな南国の香と、一段上るごとに体温を上げる快斗の汗が深く混ざりあい、新一の鼻腔を満たす。それは新一にとって、意識の奥がそっと蕩け出すような、官能の香りだった。
この一か月で、随分と馴染んだものだと思う。
快斗の呼吸が、少しずつ荒くなる。それでも快斗は新一を背負ったまま、螺旋階段を一段一段、しっかりと登った。新一も、降りるとは言わなかった。
まだ夜明けは遠く、階段に一定置きに現れる小窓から見える空は深い藍色を湛えている。けれど、鳥の鳴き交わす声は一秒ごとに折り重なるように厚みを増し、響いてくるのだった。
目には見えぬ世界の夜明けを、自然界の生き物は誰に教わらずともきちんと知っているのに、人は本当に不器用な生き物だと、新一は思った。
こうして、体温さえ分け合うほど近くにいて幾度となく身体を重ねた相手の心さえも、時に感じ取れなくなる。長い夜の終わりだって、もっと確かな力で感じ取れるのなら、人は希望を絶やさずに済むかもしれないのに。
「……いつ、新一が出ていくだろうって、考えてた」
切れる息の合間に、快斗が呟く。
「やっぱりオメー、寺井さんが俺に託した携帯のこと、知ってたんだな」
「そりゃな」
一段、また一段。
徐々にゆっくりとしたペースになりながら階段を踏みしめ上る快斗が、頷いた。
「あの歳の老人が、こんな若造の非道を黙って許容できるわけねえよ。宝石を盗むのと、人の人生そのものを奪うことを、同列にはできない。当然だ。……俺が暇を出したあの日──きっと携帯を新一に託すだろうって、解ってた」
「……」
そうか、と新一は目を伏せた。
通報しようと思えばできる手段を新一が持っていると知っていて、快斗はそれでも、あの寺井の携帯を最後まで取り上げようとはしなかったのだ。
ずっと、あの携帯は、ベッドの下にあり続けた。
「寺井を、責めないでやってくれ」
ぽつんと、快斗はそう告げた。
「今回のことは本当に、俺が一人で決めて、一人で実行した。当たり前だけどこんなこと、寺井にいちいち細かく説明したわけでもねぇよ。寺井はただ、俺の行動を見て、いろいろ察しただけだ。それだけは……信じてほしい」
「……あぁ」
新一は頷きながら、最初に寺井に出会った時のことを思い出していた。
『私は私のお願いをするのみです。ここでお引き取り頂くわけには、いきませんか、工藤様』
苦しげにそう告げた寺井。
きっと精一杯のあれが警告であり、懇願だったのだろうと、今なら解る。
『それが、貴方個人のお願いだとおっしゃるのであれば、答えはノーです』
己が身に何が襲いかかろうとしているのかも知らずに、それでも新一が躊躇いも無く寺井の懇願を退けた、あの時。
おそらく寺井はこれから起こることを、ほぼ正確に察していたのに違いない。
そうですか、そうですよね……と何度も何度も己に言い聞かせるかのごとく頷いた老人の背が、少し、丸く小さくなって見えたことを……今も、覚えている。
「オメーのことが、心配だったんだな、寺井さん。だからお前に暇を出されても、日本に帰らなかったんだろう」
「……うん……」
階段を上る快斗の首筋に、汗が滲んでゆく。
「俺だけじゃない。多分、新一のことを一番心配してたよ、寺井は……」
「……申し訳ないこと、したな」
「寺井には、一生をかけて、俺が償う」
快斗の動きが、止まった。
最上階──バスルームへの扉前に、辿り付いたのだ。
ドアを開き、壁際のスイッチを手探りで快斗が押せば、まだ肌寒いバスルームがセピア色の灯りに浮かび上がる。
いつもなら先に新一がシャワーを浴びる間に快斗が湯を用意するのだが、今日はもう麓の民家でシャワーは借りてしまった。
快斗は、何も言わずに湯船に水をバケツで汲み入れ、薪に火をつけた。
ぱち、ぱちん……
細やかな炎の音が、浴室内に満ちて眠気を誘う中、快斗と二人、湯船のある石造りの高床に腰掛け、湯が温まるのを待った。この風呂は排気が床下を回って塔の外へ出て行くから、火を燃やすと湯船だけではなく、この高床全体の温度がじわりと上昇する。岩盤浴のようなものだ。
座っていると、それだけでほんのりと太腿の裏から温まってくる。新一は漸 く、骨の髄から身体が緩むのを感じていた。
鳥の声が、島全体に溢れんばかりに響いている。朝を呼び寄せる囀 りだった。
風の音と、絶え間ない波の音がそれに重なり、夜明け前の世界は豊かな鼓動に満ちあふれているというのに──それでもバスルームは今、互いの鼓動すら聞こえそうなほど静かに思えた。
快斗の左腕が、新一の肩に触れる。控えめな力で抱き寄せるその腕に逆らわず、新一は快斗の左肩に己の頬をもたせ掛けた。
「……もしもさ」
ぽつり、快斗が囁いた。
「俺に会えて、生存を確認したら、新一はどうなるだろうって……よく、そんなことを考えたよ」
「……快斗」
「きっと新一は、ほっとするだろう。そして日本に帰るんだ。そのうちお前の中で俺を思い出す頻度が減って……俺の存在がだんだん過去のものになって、限りなく希薄になるのかと思ったら、気が、狂いそうだった」
「……」
「そんなことになるぐらいなら一生、俺の生死も、所在もわからないまま、苦しんでくれればいいとも……思った」
胸の闇を絞り出すようにして語る快斗の声が、掠れ、少し震えた。
「そうすれば、新一ともし二度と逢えなかったとしても、一生、新一は俺のものだ……そう、思えたんだ」
「──」
新一は、ただ瞳を細め、その狂気に耳を傾けていた。
お前の傷になりたいのだと、快斗は確かに何度も言った。ひとたび肌を合わせれば、奥を貪欲に貪るそのセックスは限りなく情熱的で、苛烈だった。
常軌を逸した劣情だった。新一が受け止めてもなお、その熱情は荒れ狂う嵐だった。
受け止める者が不在だった10年もの間、一体、その嵐はどれほどの強さで快斗自身を傷つけたのだろう。どれほど激しく、その胸を荒らし続けたのだろう。
新一には、想像もつかない。
「何度も……お前が本当に島に来ちまったら、どうしようかって……それも考えた」
「……」
「新一に守るものがあればあるほど、俺は憎まれるだろうと思ったよ。それで良かった。罪の意識に苛まれてる新一につけこんで、抱いて、抱いて……俺じゃなきゃダメな身体にして、生涯忘れられないほど憎まれて。そうして日本に返せば、新一は一生俺を忘れない。そんなことを、いつか夢見るようになった」
「かい、と……」
「俺はね、お前の傷になりたかったんだ。お前の一番になれないなら、せめてお前の中に生涯遺 る、傷になりたかったんだよ……新一」
狂ってるだろ、と快斗は笑った。
「……でも、本当は最初から、解ってたさ」
肩を抱く快斗の手に、力が籠もった。
「工藤新一が、工藤新一であることが、なにより俺の望みだった」
「……かい、と」
「探偵として生きるお前のその輝きに、その目に、かつての俺は……魅入られたんだ」
「……!」
思わず顔を上げた新一の視線と、左眼で微笑む快斗の目線が、間近で絡み合った。
「どんなに穢 しても、名探偵は穢せないし、どんなに枷をつけても名探偵を縛り付けておくことなんて……無理だった。だって、お前は俺の、光だから」
「……」
そんな良いモンなんかじゃねぇよと、言いたかったのに、喉奥で言葉は重く詰まった。
快斗の眼差しは優しかった。今はただただ、凪いだ岸辺のように、静かに唄う瞳だった。
「目を撃たれた直後、別れ際に、新一に生きろって叫んだろ。あれは本心だよ。俺は新一に、生きて、生きて……どこまでも生きて、幸せに輝き続けて欲しかった。あの瞬間、何を喪っても、何を引き替えにしてでも、願ったのはお前の幸せだった。それだけが、泥水みてぇな俺の中で、たった一つ、誇れるものだった」
快斗が、澄んだ声音で、囁いた。
「お前の目を、守れて良かった」
「……っ」
吐き出す呼気がその瞬間、どうしようもなく乱れた。
遠くで、海鳥が鋭く鳴いた。
快斗は立ち上がった。湯の熱さを確かめて、火消し壺に薪を入れて消火した。そのあとで、バケツに再び水を溜めると、少しだけ水で湯船を埋めた。
そうして新一の眼前まで再び歩み寄ると、部屋着のズボン左横にあるポケットから、見覚えのあるものを差しだした。
工藤新一の、パスポートだった。
もう一度快斗が新一の目の前で、右手をくるりと翻した。今度はその手の中から、新一自身がこの島に持ち込んだはずの衛星携帯電話が現れた。
パスポートは寺井が国外に持ち出したと快斗は以前話していたが、きっと最初から城内にあったのだろう。
二つの品を、黙って快斗が両手で差し出す。
新一は高床に座ったままそれを受け取り、膝に乗せて快斗を見上げた。
「……今日の朝、船が来る。鞄や他の貴重品は、もう、下の部屋にある」
新一を見つめ、ひそりと快斗が囁いた。
(嗚呼……)
快斗の気配が今はただただ澄んでゆくのを、新一は感じていた。
真昼の青い空に浮かぶ、真白 な月のように──それは孤独で優しく、澄んだ色をしていた。
新一の横隔膜が、予感にひくりと震えた。
「二度目はないぜ、名探偵。手放すのは、これが最後だ」
「……!? 待てよ、お前……っ」
謎めいたその台詞に戸惑いながらも、嫌な予感がして咄嗟に伸ばした新一の手は、空を切った。
ひょいと一歩飛ぶように後退った快斗が、からりと笑って、言った。
「なぁ新一。俺のマジック、見たい?」
「…………っ」
腹の奥が、またふるりと震えた。
酷いタイミングで聞くヤツだと思った。だって断れやしない。断れる、わけがない。
誰よりもこの男のマジックを見たいと願ったのは……自分なのだから。
「見たいさ……見たいに、決まってる」
震えを押し殺すように声を絞り出した新一に、快斗はとても嬉しそうに笑った。
「結構。では、我がサフィールに捧げるマジック、とくとご覧あれ……」
気取った口調と共に、快斗はすっと爪先を揃え、背を正した。美しく左手を腹のあたりへ添えて右手は背後に回し、その場で新一へ一礼する。
起き上がった瞬間、背後に回していた右手がふわりと翻った。
白い艶やかな布がその指先から見る間に広がる。一瞬快斗の姿がその布に隠れ、ばさりと布を引いた後に現れた快斗は、もうマジシャンの装いだった。
洒落た白のシャツは袖を折って7分袖で着こなし、黒のベストとズボン、襟元はクロスタイでシンプルに決めた、マジシャンの黒羽快斗がそこに居た。
(……!)
冷涼かつ華やかな気配を纏い、ちらりと小首を傾け、快斗が口元を綻ばせる。瞬間、新一が背を向けている浴室の窓から溢れるような光が射し、眼前に立つ快斗が光の中に浮かび上がった。
──夜明けだ。
漆黒の眼帯を飾るシルバーの装飾から垂れ下がるスペードのモチーフが、不意に眩しく燦めいた。
光彩の奥に甘いアメジストを忍ばせた隻眼は、今、新一だけを焦がれるように映していた。
「かい、と」
「目を、閉じて……」
優雅に歩み寄ってきた快斗が、新一の顎に手を添え、そっと上向ける。
(狡い)
新一の吐息が強く震えた。
狡い。本当にこのマジシャンは狡い。また拒めない時に拒めないことを言うのだ。目を閉じたらどうなるか痛いほどもう、知っているのに。
目を閉じることの出来ない新一を促すように、口付けが降る。唇を唇で優しく潤し、下唇をどこまでも甘く食むその口付けに、負けてやらねばいけないことは、解っていた。
ゆっくりと、瞼を閉ざした。
唇が、離れてゆく。顎に添えられていた指先までもが、離れていった。
「Three,two,one...」
パンッ、と高らかに何かが鳴った。きっとそれは快斗の指先だろう。見なくても、解る。
それきりバスルームから気障で冷涼なその気配は消え失せた。肌で、解った。
新一はそっと瞳を開いた。
眼前には、もう誰もいない。まるで全てが夢のように、黒羽快斗は音もなく消え去っていた。バスルームの石壁が、朝の白い光に細かく燦めいているのみだ。
感情すら決められぬまま、新一はただその事実を受け止めた。
ずっと、快斗は辛そうだった。新一が告白めいた本音を吐露してもなお、眼差しの奥に苦しげな影が消えることはなかったように思う。
一生離せないといいながら、最後にはパスポートも全て返して、快斗はこの手を離した。
手離されて、しまった。
(……共に生きることは、出来ないのかよ……?)
身体中の力が抜けていくようだった。
これは、結局、フラれたということなんだろうか。深い脱力感に言葉もなく、震える吐息を絞り出した……その時だった。
ふと、新一の鼻腔に、華やかで上品な、澄んだ香りが飛び込んできた。
(……!)
覚えのある芳香──息を呑んで振り向いた新一の目に、その光景は飛び込んできた。
丸い湯船に入りきらず、その周囲の高床にまで広く散りばめられた、無数の薔薇。
そこは、赤い薔薇の海になっていた。
「な……っ」
真っ赤な薔薇たちは、全て萼 で切り取られ、高床と湯船に平たく敷き詰められていた。まだ温室から摘まれたばかりなのだろうか、ハリのある瑞々しさを湛えている。温まった高床の上に置かれたそれらの薔薇は驚くほど強く豊かな甘い芳香を放ち、このバスルームを今や華やかに満たしていたのだ。
そして──湯船の脇に、それとは別にラッピングされた薔薇の花束も置いてあった。
よく『抱えきれない花束』というが、実際抱えきれないほど巨大な花束を見ることは、そうはない。しかし高床におかれてあった薔薇の花束は、確かに『抱えきれない』ほど大きな花束だった。
新一は目を瞠り、茫然と立ち上がってそれらの薔薇を眺めた。やがてラッピングされた薔薇の花束を恐る恐る抱え上げてみた。
「……重い……」
自重で撓 るほどの重さだ。茎も相当長さを保って切っており、丈が長い。抱え上げれば己の爪先が花束で見えなくなる。両手で支えていなければ持つのが不可能なほどの花束は、全て深紅の薔薇だった。香りに酔いそうなほどだ。
少し迷った末に、新一は床に敷き詰められた薔薇たちをそっと手で退けて花束を再び置き、ラッピングを慎重に解いた。その中から一本ずつ、高床の上に置くようにして、新一は地道に薔薇の数を数えていった。
「一輪、二輪……」
丁寧に数え上げ、やがて最後の薔薇の茎を床において、新一は小さく笑った。
「……はっ……99輪、かよ……」
噎せ返るほどの薔薇の香りを深く深く吸い込み、溜息にして水面へ落とす。そうして見上げた視線の先、燦めく朝がそこにあった。太陽は水平線からその光を世界中へと放ち、海には光の梯子を鮮やかに投げかけてくる──それは城へ、真っ直ぐに伸びていた。
新一は、白い光の中、部屋着の腰紐に手をかけた。するりと結び目を解いて上着を脱ぐ。そして下も脱ぎ去り、薔薇を退けた高床の端に衣類を置いた。
一人きりの湯浴みだ。
湯の中の薔薇もいったん高床に掬い上げるようにして置いてから、腰を湯船に沈めてゆく。湯をできるだけ零さぬようにゆっくりと身体を沈め、足を高床の上に組んで、両の腕も高床に置いた。
そうして、朝日に照らされた薔薇たちを眺めた。
ぬくもりが、身体の芯まで沁みてゆく。
「……ばーろぉ」
空は雲一つ無い晴天だ。陽の煌めきが眩しすぎて、燃え立つ薔薇が胸を焦がす。
新一はやがて目を閉じた。それでも閉ざした瞼の奥が真っ赤に染まるほどの光線から逃げるように、両手で顔を覆った。
頬が、熱い。このまま自分も静かに燃えてなくなってしまいそうな、そんな心地がした。
99本。
その昔、何度も優作から薔薇の花束を貰ったことがある有希子が嬉しげに教えてくれたから、その意味はよく知っている。
99本の薔薇、その花言葉は──『永遠の愛』。
有名すぎるこの本数の薔薇には、けれどもう一つの意味がある。
「……『ずっと、好きでした』……ってか」
はっ……と口端から零れた吐息は、泣き笑いのように新一の裸身をおおきく震わせた。
「ばっかじゃねえの……ホント……気障な大馬鹿野郎だよ、オメーは……」
新一は溺れそうなほど深く、首元まで湯に埋めた。
湯船の中で、膝を抱えて小さく小さく、丸くなった。そのまま、暫 く動けなかった。
* * *
風呂から出ていったん部屋着を纏い、ポケットに携帯とパスポートを入れた。
再び大雑把にまとめ上げた花束を両腕で抱きしめるようにして抱えつつ、指先でノブを引っかけ、苦労しつつドアを開ける。すると、階段の踊り場に一人、寺井老人が佇んでいた。
「寺井さんっ……あっ、そのっ……」
溢れんばかりの薔薇の花束を抱えている自分を見られて、一瞬新一は激しく動揺してしまったが、寺井は最初から解っていたのだろうか、大して驚いたそぶりも見せず、深々と頭を下げてきた。
「このたびは、ご迷惑をお掛け致しましたこと、深く、お詫び申し上げます」
「いや……その、頭を上げて下さい、寺井さん」
思わず懇願したが、寺井は深く腰を折ったまま、頭を上げようとしなかった。
「工藤様」
「……はい」
「快斗様は、ずっと、お一人でした。一途に、貴方様を想っておられました」
苦しげな声で、寺井が告げた。
「この島に移住すると決意なさったとき、快斗様は仰いました……こうでもしなければ、貴方を守れない、と。貴方は、幸せになるべき人だ、と」
「……っ」
「ずっと、ずっとあの方は工藤様を想い焦がれておられた……お許し下さいとは言いません……ただ、どうか……どうか……お汲み取り頂ければ、と……」
「……顔を上げてください、寺井さん」
再び、新一は寺井へそっと呼びかけた。
「俺も、外部へSOSを出すために貴方が下さった携帯を、最後まで使わなかった。ここに残ったのは、あくまで俺の意志です、寺井さん」
「工藤様……」
ようやく頭を上げた寺井は、とても小さく見えた。
「今更、申し上げても信じては頂けないかも知れませんが……快斗様は恐らく、どれほど長引いても、工藤様がオーバーステイになる前に、この暮らしを終わらせるつもりだったのです」
「……そう、だったのですか」
それは初耳だった。
あまりにも刹那を生きようとする快斗の行動そのものが、終わりを何処かで予感しているからなのだろうとは……思っていたけれど。
「私を日本に帰そうとした日に、快斗様が私に告げたのです。2ヶ月経っても自分から、もしくは工藤様ご本人から連絡がなければ、その時は、日本からでもいい、自分を各機関に拉致監禁容疑で通報しろと」
「……!」
「それが、快斗様なりのけじめだったのでしょう。私に託された最後の仕事は、快斗様の暴走のストッパーでした。2年前にも、快斗様は私に仰いました。我慢がならないと思ったら、私の判断でいつでも引導を渡してくれて構わない、と」
「……そんな……」
愕然と、新一は立ち尽くした。
(そう、なのか)
本当に、最初の最初から……終わりに向かって、快斗は突き進んでいたというのか。
最初から、いつか手放す覚悟で、この首に首枷を掛けたというのか。
「しかし、きっと私が居ても居なくても、遅かれ早かれあの方は貴方にパスポートを返却されたはず。そうでなければ、このような非道を、世界で一番幸せになってほしい方に出来るはずもなかったのですから」
薄暗い踊り場に、寺井の声が静かに反響した。
「工藤様から、家族を、友人を、人生を。その全てを未来永劫奪い続けるなんて非道なことが……あの方に、出来るはずが無かった。快斗様は、よくご存じです。理不尽という名の運命に、家族を奪われることが、どれほど苦しく哀しいことなのかを……」
「……っ」
心臓がその一瞬、つきりと鋭く痛んで、新一は思わず強く目を閉じた。
(そう、か)
怪盗キッドの白い衣装。父のものだったその衣装を息子の快斗が纏わねばならなかった理由は、キッドの現場で謎の組織との交戦に顔を突っ込んでいるうちに、少しずつ新一の知るところとなった。
表向き快斗は、マジックショーの事故で父を喪ったことになっているが、現実にはそこに組織の陰謀がちらついていたらしい。彼の父の死がおそらくは組織の手の者による他殺であった、という裏の真相がもたらした衝撃は、どれほど快斗を苦しめたことだろう。
(そうだな……そうだよな、お前は……)
黒羽快斗は、運命を歪める『理不尽』をこそ、誰より憎んだ男だったのだ。
新一は、閉ざした瞼を開き、大きく息を吸った。胸に抱えた薔薇の芳香が、肺の隅々まで満ちてくる。鮮烈なその香りに後押しされるようにして、顔を上げた。
「──寺井さん、すみませんが、これを」
巨大な薔薇の花束を小柄な寺井に託せば、寺井はもう花束に埋もれて見えなくなるほどだった。目を白黒させる寺井に、新一はそっと笑って囁いた。
「この薔薇、水につけておいて頂けませんか。お願いします」
* * *
手放さなければいけないことは、最初から解っていたのだ。
快斗が愛したのは、憎しみや怒りに囚われるよりも何よりも、ひたすら真実を欲しがる瞳だった。あの瞳は、不思議なほどに人を信じることを止めぬ瞳でもあった。誰より人の深淵を覗き込んできたくせに、彼は人と世界を憎まない。
世界の輝きを、決して諦めない蒼の瞳は、誰より美しかった。
望まぬセックスで夜に突き堕とされてもなお、工藤新一は何処かで黒羽快斗を許し続けてくれていた。本当に、つくづく懐の広い男だと思う。そしてそんな度量のある男を、縛り付けることのできる鎖など、この手は持ち合わせていなかった。
運命を歪め、奪う『理不尽』を誰より憎みながらも、
自分こそが工藤新一の運命に襲いかかる『理不尽』となることを決めた時から、
手放す覚悟は、決めていた。
鎖で縛れるのは、敵意と嫌悪ぐらいのものだ。
そんなことぐらい、本当は最初から……解っていた。
──朝がきた。
南国の陽は完全に水平線から離れ、東から北天へとカーヴを描きつつ空を悠然と渡り始めた。
強い風が吹いていた。轟、と唸りを上げて岩にぶつかり、風が鳴く。海鳥たちが甲高い声で鳴き交わす中、エメラルドグリーンに輝く岸辺の岩礁地帯から目の覚めるような群青へと急激に移り変わってゆく海を、ただ眺めていた。
やがて背後で、荒い息使いが聞こえてきた。不規則に地面を蹴る、凄まじい気迫を伴ったその音。
「黒羽快斗ぉ!」
絶叫といってもいい大声にさすがに驚く。振り向けば、数メートル後ろに仁王立ちになった新一が立っていた。ここに来たときと同じ服を着て、けれど手ぶらでこちらを睨み付けている。
怪我しているというのに、足を引きずりながら走ってきたらしい。
「ふっざけんなよ、これで幕引き出来ると思ってんのか! 俺は、俺はめちゃめちゃ怒ってんだからな!」
癖の無い黒髪を振り乱して、新一が叫んだ。
「俺は! 半分なんて言わず全部……お前が望むなら全部差し出せる覚悟だった! なのに、オメーは最初から期間限定同棲ゴッコで終わらせるつもりだったってか。しかも結局たった1か月で終わらせやがって! ふざけんな!!」
「……っ」
「俺が知りたい真実はまだ残ってんだよ! 過去はもう充分だ! 今のオメーの気持ちはどうなんだよ! 黙って聞いてりゃ『欲しかった』だの『狂いそうだった』だの『夢見た』だの、過去形ばっかだ! 俺に対する気持ちが過去形でしか語れねえのにオメーは俺を抱いたのか!」
「──しん、いち……」
かつてないほど怒鳴り散らす新一なのに、その目元が少し擦れたように紅いのがこの距離からでも見えてしまって、快斗の胸は詰まった。
あぁ、また、泣かせてしまった。
「この俺が、真実も聞かずに満足してのこのこ帰る男だと思われてんなら心外だ! オメーが本当に俺を……俺を」
懸命に絞り出す新一の声が、ふるりと震えた。その顔が何かを堪えるようにしかめっ面なのに、さぁっと紅く染まってゆくのが──本人にそれを言えば殺されそうだが、とても愛らしかった。
「俺を、好きなら! 薔薇なんかで済ませんな!! お……っ、俺には、ちゃんとオメーの口から聞く権利があるはずだ!」
それは眩しいほどにまっすぐな、情熱の発露だった。
絶海の涯 から焦がれ続けた、光がそこにある。
ぎゅっと眉を寄せ、快斗は痺れるような想いで嘆息した。
「……やぁっと、死ぬ思いで手放したのに、戻ってきちゃうんだもんなぁ、名探偵は……」
「うるせー! 何が戻ってきちゃうんだもんなぁ、だ! どんだけ勝手なんだよオメーは!」
すかさず怒鳴り返す新一の表情を、少し伸びた彼の前髪がはらりと零れ、影に隠した。
やがて息を弾ませていた新一が、ゆっくりと俯いた。怒気が急激にその身体から引いてゆく。代わりに届いた声は、今度は風に掻き消されそうなほどか細かった。
「……それともオメーはまだ、俺が罪の意識だけでここに居るとか思ってんのか」
「……新一」
「俺が……俺が同情やら贖罪でお前に抱かれてたなんて、つまんねぇことまだ思ってんなら、もう、いい……」
その、瞬間──新一の肩が、大きく揺れた。
大きく息を乱し、新一がしゃくり上げた。まさか、と思った時にはもう遅かった。
新一の足元に、濃い染みが、ぱたぱたっと数滴落ちた。
(あっ……)
快斗は思わず固まった。ここでこれほど派手な泣かれ方をされるとはさすがに予想外だったのだ。ぎょっとして一歩踏み出した瞬間、新一の身体が、逃げるように半歩後ろに下がった。
「えっ、いや、ちょっと待ってくれ、しんい──」
「くそ……もう知らねぇ! オメーみたいな分からず屋なんか、あと5秒で捨ててやる!!」
だんっ、と子供のように地面をよりによって痛めた右足で踏みならし、痛ってぇ! と腹立ち紛れに叫びつつ、天下の名探偵が泣きわめいた。
* * *
もう、自分では壊れた涙腺をどうにもできなかった。
どうしてオメーはそんなに意固地なんだ。島に引きこもってる間に性格ぜってー悪くなったぞ自覚しろよ。こっちがこんなに好きだって言ってんのに手放しやがって、元怪盗が笑わせんな。
そこまで考えて、そういえば、と思う。はっきり好きだと言っただろうか、自分は。
(だって! オメーが言わねえから!)
大体10年間だ。10年も世界中から最も遠いと称される孤島なんかに引きこもりやがって。俺にこんな場所まで来させやがって。身体の芯に消えない熱まで灯し、散々振り回した挙げ句にもう帰っていいだと?
俺ばっかりだ──途方もない片想いの果てに99輪の薔薇とともに取り残される身にもなれと、新一は歯を食いしばった。
瞳が溺れたように涙で霞む。鉄の涙腺とまで宮野に言われたこともあるほどの己の目が、何度瞬きしても乾かない。ありえない。おそらく一生分の涙だ。全部、全部快斗のせいだ。
「狡い……オメーは狡い! この期に及んで薔薇なんかで格好つけやがってぜってー許さねえ! 本当に、本当に捨ててやっからな!」
ぐっしょりと涙に濡れた顔を上げ、キッと眦 をつり上げ、岬の先端にいる男を睨んだ。
「5……っ!」
吠えるように、カウントする。
「4!」
もうその瞬間には眼前の男が走り出していた。馬鹿野郎こちらを殺すつもりかと、新一は思わず気圧され瞠目した──凄まじい形相で迫る男に、抱き留められるというよりはね殺されされそうだ。
「3!」
そこまでだった。
「……っ!」
快斗が、ぶつかりながら新一を抱いた。そのまま両者とも体勢を保っていられない。踏ん張りはしたものの、結局暴風に引き倒されるように、二人で地面に倒れ込んだ。
固く新一を胸に抱き込んで衝撃から庇った快斗が、ぐっと呻く。
「……! 大丈夫か快斗っ?」
マジシャンの腕に何かあったら、と咄嗟に青ざめて起き上がり、快斗の具合を確認しようとした瞬間、ニッと笑った快斗に肩を掴まれた。地面に引き倒され、気がつけば上下が逆転している。
澄んだ青空を背に、快斗が顔を寄せる。声をあげる暇もなく唇を塞がれた。頭を腕で包むようにしてぎゅぅぎゅうに抱きしめられる。切迫した口付けは、もう次の言葉は紡がせないとばかりに性急だった。舌を搦め取られ、快斗の香りにのぼせながら、新一はゆっくりと全身の力を抜いた。
岬の断崖に砕け散る波頭の響きが、地面に接する背中から低い子守歌のように伝わってくる。心地よい大地の唄に身を任せ、新一はそっと快斗の身体に腕を回した。
「……っ、は……」
ただそれだけで、快斗が切なげに息を乱した。
そっと唇が離れてゆく。濡れた睫を震わせ瞼を開けば、泣いていたのは自分のはずだったのに、目の前の男のほうが泣き笑いを浮かべていた。
「捨てないで……新一」
困ったように眉を下げて囁く快斗を見上げ、ばーろ、と小さく新一は呟いた。
「うるせぇ。オメーなんか嫌いだバカ……」
「ごめん」
でも、返さなきゃいけなかったんだよ、と快斗が頬に口付けを落として囁いた。
「贖罪で新一がくれた人生の半分は、一度はちゃんと返さなきゃ、駄目だろ。それは本来必要ないもので、俺が貰いたかったものでもないし、貰っていいものでもなかった」
「……っ!」
まだそんなこと言ってんのか、と一瞬怒鳴りかけた新一の唇は、快斗がそっと左手の人差し指で触れ、やさしく閉ざした。
アメジストの瞳が、甘く瞬いて新一を搦め取った。
「でも、愛で新一がくれる人生なら、もう、二度と返さない」
「──」
「全てを、奪うよ……」
その声こそ震えはなかったが、新一の唇を押さえていた指先をずらし、頬をくるむ快斗の手全体が細かく震えているのに、ふと気付いて新一は静かに息を呑んだ。
触れてはいけないものに触れるように、焦がれてやまぬものに触れるように……快斗の手は新一を求めて強く震え、そのかたちを確かめるかのように頬を包んだ。
「言ったろ。もう二度目はないって。新一を俺が手放すのは、あれが最初で最後だ。この強欲な俺が新一を二度も手放すなんて、出来るわけがない。あんな思い、人生一度で十分だ」
噛みしめるように、快斗が囁く。
「……っ」
きゅぅ、と心臓が甘く軋んで、全身が言うことをきかなかった。指先まで痺れるように甘い痛みが走ってゆく。さざ波のように骨を伝い四肢へ広がるその切なさが、悔しかった。もうこの男に触れた瞬間に、離れられないと全身が叫んでいる。
また呆れるほどに涙が溢れて、耳に流れてゆく。快斗がそんな涙の川辺に口づけては優しく吸ってくれる。やっぱり狡い男だと、思った。
再びしゃくり上げれば、快斗が情けなさそうに慌てた顔で頬を寄せた。
「新一……ごめん、ね、泣きやんで……?」
「誰、がっ……泣かせてんだよっ……バーロ……オメーなんかっ……世界一の、馬鹿野郎だ……」
「そうだな。馬鹿でごめん」
「この俺を一度でも手放そうとしただけで! 大馬鹿野郎だよわかってんのか!」
「うん。強欲な大馬鹿野郎だからさ……今度こそ、全てを頂戴します、工藤新一さん」
濡れた目尻へ何度も口付けを落としながら、快斗が祈るように囁く。温かなその声に、頬がふわりと染まった。
「……っ、くそ、それ言うのにどんだけ時間かけんだよバーロー……」
「ごめん」
まだまだ文句は言い足りない気もするのに、快斗が泣き笑いを浮かべながら何度もキスの雨を降らせてくるから、心が甘く解れてどうしようもなかった。
泣かないでなんて言いながら、快斗の瞳にも薄い水膜が張っている。まぁこのあたりで赦してやるか、と新一は小さく笑った。
もう一度唇を重ね、優しく吸った快斗が、身を起こす。差し伸べられた手を、新一も素直に取った。起き上がって服についた砂埃をぱんと払えば、それは強風に瞬く間に攫われていった。
ぐいと腕で涙を拭って、新一は空を見上げた。
海鳥が鳴き交わし、大空を舞う。燦めく蒼の海はどこまでも広がり、緩く弧を描く水平線のその果てに、蒼天と溶け合っていた。
「なぁ、快斗……」
「ん?」
「……いい、島だよな、ここ」
観光地の華やかさは一切ない土地だった。けれど、ここに在る自然はただそれだけで美しいものだった。快斗が新一に一つ一つ宝物を取り出すように見せてくれた輝きは、きっと快斗のこの10年を癒 したものでもあったはずだ──ファントムとして生き、苦しみ続けた快斗を。
此処 でなければ、快斗は快斗で居続けられなかったかもしれないと、新一は思う。
うん、と快斗が頷いた。
「いい島だよ……なんだかんだ言っても、好きだった」
涯のない蒼が奏でる朝に、肩を並べ、手を繋いで立つ。見上げれば、快斗の精悍な隻眼もまたこちらを見つめ、柔らかく笑んでいた。
とても澄んだ、いい瞳をしていた。
「でも、俺さ。この島を出るよ」
水平線に視線を再び投げて、快斗が囁いた。
凜と伸びた快斗の立ち姿は、朝日の中で見惚れるほど美しかった。
「世界でたった一人、お前だけが、ファントムではない俺を見つけ出して、俺のマジックを望んでくれた。好きだと……言ってくれた。だからもう一度、一からやってみるよ。小さなステージで構わない。俺は俺の手でマジックを魅せて、新一と、見てくれた人を幸せに出来るマジシャンになる。もう……絶海のファントムは、終わりだ」
うん、と新一は頷きながらも、言葉にできぬ熱い何かが湧き上がってくるのを感じて、そっと微笑んだ。
それは、快斗が言わなければ自分が言うつもりの言葉だった。
夜の世界では、人の感覚は鋭く美しく研ぎ澄まされるのだと、オペラ座の怪人は言った。ならば、まさに夜の夢を見せるこの城の中で、きっと快斗の感覚は存分に研ぎ澄まされたはずだ。
(もう、充分だ)
時は満ちたのだと、新一は思う。地下水道の隠れ家で音楽を作り続けたオペラ座の怪人 のような生活を、終えるときがきたのだ。もう、怪盗キッドの記憶は人々の記憶から十分に薄れ、過去のものとなった。
とはいえ、陽の当たる場所で快斗がマジックをすれば、世界が自 ずと快斗の煌めきを求めるだろうから、やり方は模索しなければいけない。
そして──罪は消えない。それは快斗自身が言うように、真実だ。
それでも、きっと世界の懐は思うより深く、人の記憶は思うより儚いから。
「なら、お前がお前らしく生きる道を探す旅に、俺も付き合うぜ、快斗」
「……!」
弾かれたように快斗がこちらを向く。新一は少し上背のある快斗を見上げ、笑った。
「俺は探偵だしな。失うもんなんかねぇ。探偵としてせいぜい何処でだってしぶとく生きてやる」
「……名、探偵……」
「全部、奪うんだろ。もってけ泥棒。その代わりオメーの人生も俺が頂くんだよ。解ったか」
「……っ」
隻眼を瞠る快斗の表情が、じわりと紅潮してゆく。ポーカーフェイスは何処かに取り落としたままらしい。
「わざわざこっちから事細かに情報開示する必要はねえよ。謎めいた無冠のマジシャンとして経歴もステージネームも変えて、マジック界の表舞台でやってみろよ。無冠の帝王ってやつだ。お前にならそれが出来る。俺が、保証する」
「……っ!」
「それとも、俺が証人じゃ、心許ないか?」
「…………ま、さか」
喉につかえた掠れ声を漏らし、快斗が遂に目を伏せた。
少し陽に焼けた左頬へ、燦めくものが一筋──流星のように流れ落ちた。
「誰よりも、心強い、証人だぜ……」
「お前をこんな場所に送り込んだのが俺なら、ここから連れ出すのも俺の役目だし、お前と生きるのが俺の幸福だ。これが、俺の結論だ」
どうだ、参ったか。
ふふん、と不敵に笑んで見上げれば、快斗も釣られたようにくしゃりと顔を崩した。
「……ったく、つくづく男前だな名探偵は……!」
くそ、と湿った声で囁き、突然快斗が新一の脇の下に手を入れた。
「うわっ!? えっ、うあ!」
脇の下を持ち上げられ、ふわりと爪先が地面から浮いた。思わず慌てて快斗の首筋に腕を回してしがみつくが、今度は「おりゃぁ!」と笑いながら快斗がぐるぐる回り出したからたまらない。
「うそだろ! うぁぁああぁっ!!」
下半身が遠心力で綺麗に浮いた。新一を高く抱え上げたまま、馬鹿みたいにぐるぐると回り始めた快斗が笑い出す。
(マジかよ!)
釣られて新一も笑い出してしまった。まさかコナンの身体でもないのに、いい歳した大人の自分が完全に持ち上げられて振り回されるなんて思いもしなかったけれど──
見たかった、快斗の屈託無い笑みがそこにあった。
(オメーが、笑ってる……!)
それが嬉しくて、新一も声を上げて笑った。
と──
「てか、快斗、快斗! 海! 海ぃぃぃぃ!!」
さすがに回りすぎた。岬の先端までぐるぐる回ってきてしまっている。慌てた新一の叫びに、快斗もうわっと大声を上げて急制動をかけた。
「ちょっ! やっべ!」
「うあああああっ!」
快斗が落ちてくる新一の身体を強く抱きしめ、そのまままたぐるりと回転しながら地面に倒れこむ。砂埃を上げてなんとかお互いの身体が止まったものの、崖まであと2mだった。
「オメー落ちるところだったじゃねえか!」
「わりーわりー」
なおも笑い続ける快斗に呆れながらも、二人で半身を起こす。また砂まみれじゃねえか、とぼやいた新一の背や髪から埃を優しく払い、快斗が両腕で新一をゆるりと抱きしめてきた。
「驚かせてごめん、新一」
「…………いーけど」
額をお互いに擦りつけるようにして見つめ合えば、また自然に微笑みが零れた。
落ち着かないのも、馬鹿みたいに浮かれているのも、きっとお互い様だ。
快斗の隻眼が、愛しさをもてあますようにそっと細められ、燦めいた。
「今さら、これを口にすることが赦されるとは、思ってなかったよ……」
風が吹いた。
強い、強い風が吹いて──
「……愛してる、新一」
愛が、ほろりと零れ落ちてきた。
「……うん」
「好きだよ……愛してる……新一、俺と、生きて……」
言い募るその声に、胸がじわりと温かく染まる。さすがに本人へは言わないが、ほんの少し、このまま死んでもいいとも思った。思っただけだ。
生きて、生きて、これからもこの男の側で、笑ったり叱り飛ばしたりしていくんだろう。
満たされた気持ちで、新一も微笑んだ。
「……あぁ。俺も。……すきだ……」
ずっと憧れていた。追い続けていた。存在の全てが、己を魅了してやまなかったこの男の存在を、これからも──全力で追いかけていく。隣を、歩いてゆく。
「好きだ、快斗……愛してる」
己の存在、その全てをかけて。
* * *
歩いて城に戻れるから肩だけ貸せよ、と言った新一をまたも有無をいわさず抱き上げて、快斗が向かったのは朝の温室だった。
ちょっと寄り道しような、などと言われたが、温室に寄り道してちょっとで済んだ試しなどない。この一か月間、温室は二人にとってのセカンドハウスならぬセカンドベッドだった。
「おい……徹夜明けだぞ……俺、なんかほっとしたから今すげー眠いんだけど……」
「ごめん。優しくするから……さ」
微笑んだ快斗が、横抱きにした新一へ顔を寄せてくる。いつになく甘く微笑んだその表情に目を奪われた瞬間、唇に柔らかな口付けが降った。
「オメーは王子様かよ……」
思わず呟いてしまう。悔しいが──何をしたって見惚れるほど格好いいのがこの男の恐ろしいところだ。なのに今はこちらがこそばゆくなる程に宿す空気が甘く、包容力の大きさも沁みてくる。
肌が、触れられた端からこの男が好きだと震えて、全身がふわりと体温を上げてゆくのが解る。
(これで惚れるなっていう方が無理だろ……)
思えばこの城にきてから、常に快斗との関係はどこか緊張を孕み続けていた。触れれば、ちりっと肌の灼けるような痛みを伴う関係──快斗の心はいつも何処かが閉じていた。
それが、今はどうだ。
掛け値無しの優しさが、これでもかと……波のように寄せてくる。
(くそ……)
真っ赤になった頬を隠す場所もない。思わず快斗の肩に顔を押しつければ、頭上で快斗がくっと喉奥で笑った。
この一か月で運ばれるのに慣れた身体は、時折ひょいと抱え直す快斗の動きに合わせて、しがみつき直すのも上手くなってしまった。途中からはほとんど縦抱きに抱えられた状態で、岬からの分かれ道から温室へ向かう。快斗の髪に頬を埋めつつ、新一はそっと吐息した。
セックスするのは構わない。もう自分の下腹だって快感を期待してじわりと重苦しく疼いてしまっている。けれど、温室でと言われてしまうと、思い出す苦い記憶があった。
「……なぁ」
「んー?」
「その。あのさ、もう、今日は……」
しどろもどろになった新一を抱えたまま、肘を上手く使ってノブを回し、快斗が温室のドアを足で蹴る。するりと中に入った快斗の動きが、一瞬そこで止まった。
二人の背後で、ドアがスプリングの力でひとりでに閉じてゆく。ぱたん、と小さな音を最後に、薔薇の香が満ちるガラスの鳥籠が、二人をそっと閉じ込めた。
「……嫌?」
低い声音でぽつりと問われ、新一は慌てた。そうじゃない。
「ち、ちが……そうじゃねえよ。そうじゃなくて!」
「……うん……?」
縦抱きに抱き上げた新一をそっと見上げる快斗の眼差しが、とても真摯に言葉を待ってくれている。そんな真面目に待たれたら逆に言いにくいじゃねーか、と嬉しさと恥ずかしさがこみ上げた。
「あのさ……今日は、例の薬は……無しな?」
耳までぐっと紅く染め、新一は囁いた。
たった一度、薬無しで抱かれた記憶が、今も新一の中に強く残っている。あの時快斗は、二度目のセックスを薬漬けにして酷く攻め立てたけれど、薬無しで行った最初のセックスは、今思えば本当に気持ち良かった。薬を使われるより、何倍も良かったのだ。
(快楽よりも何よりも……お前が)
狂おしい眼差しで、甘く、どこまでも優しく触れてくれた。そのことが、全てだ。
あの時、快斗が全身で捧げてくれたものは、きっと愛だった。媚薬よりも何よりも、強くこの身を蕩かすそれが、もう一度欲しい。
「それに……俺だって、ちゃんとオメーを、愛したい……」
死にそうな恥ずかしさを堪え、やっとのことで囁けば、
「……っ」
その瞬間──こちらを見上げる快斗の顔もさぁっと朱に染まっていったのが、可笑しかった。
「あーもう……! 殺し文句だろそれ……煽りやがって……」
「……バーロォ……本心だ」
「くそ、俺の心臓止める気かよ……」
呻いた快斗が、温室中央のガゼボに歩み寄る。柔らかなラグの上に新一をそっと下ろすなり、性急に襲いかかってきたその身体の重さに、新一の肺から軽く空気が押し出され、甘い吐息になった。
「ちょっ……ぁ……っ、んっ、ふ……」
待ての出来ない犬のように襲いかかってきた快斗の口付けに、唇をぴったりと塞がれる。
頭を抱え込まれ、じんわりと頭の裏が痺れてくるようなキスで吐息ごと盗まれれば、下肢で擦れあっているお互いのものが痛いほど張り詰めて、もどかしさがこみ上げた。
(や、ばい……)
キスされる度に、快斗から温かい何かが流れ込んでくるのが解る。それは多分、今まで快斗が強く堪え続け、己の裡に押し込め続けてきたものに違いなかった。
(もっと……欲しい)
嬉しかった。心ごと流れ込んでくるようなこの口付けが、寝不足でふらつく自分をどこまでも甘やかしてくれる予感に、鼓動が走り出す。蕩けた瞳を細めてそっと快斗を見上げれば、こちらを見つめてくる快斗の眼差しが、どこか苦しげに細まった。
「俺の全部を、注がせて…新一」
低いその声が、ただそれだけで、新一の下腹をぐっと重く痺れさせた。
* * *
カウチソファーに快斗が背を預け仰向けになり、その太腿の上に跨がるようにして抱きしめ合う。服はお互い全て脱ぎ去ってしまった。黒とグレーのボクサーパンツだけをお互い身につけて向かい合い、新一が身を倒すようにして快斗の胸に寄りかかり、ゆったりとキスを交わした。
「腹、痛くない? 大丈夫?」
キスの合間に労られ、大丈夫だと頷いた。
「ったくあいつもっとボコボコにしてやりたかった……」
悔しげに呻く快斗に、ばーろ、もう十分だと新一は笑って快斗を抱きしめた。この男の素肌に触れるのが、新一は本当に好きだった。
ボクサーパンツ一枚になった快斗の身体は見惚れるほど美しい雄のそれだ。獲物を前にした野生の獣にも似て、引き締まった体躯と適度に焼けた肌が眩しい。その肌はけれどとても滑らかで熱く、いつも新一をうっとりとさせた。
何度も唇を離しては、またどちらからともなく接吻 を交わす。舌を緩く搦 めては愛し合うけれど、何度もいったん引いては角度を変えてキスすることを愉しむ新一に、快斗が喉奥で笑った。
「……新一さん、えっちだなぁ」
「オメーが……悪い」
「そう?」
さらりと笑みを浮かべてとぼける快斗だが、右手は先刻から新一の胸の尖りをゆったりと弄り、左手は新一の腰をなで回しながら快感を煽り続けている。
「ここ、さ。随分エロい乳首になっちゃったよね、新一……」
乳輪のあたりを、綺麗に手入れされたマジシャンの指腹が、甘く絶妙な力加減でなで回す。
浅い呼吸を繰り返し、新一はくい、と喉を反らした。じわじわと痺れにも似た快感が胸に溜まって、それは勝手に新一の身体をくねらせる。
最近綺麗にぷっくりと勃つようになった胸の尖りは、もう強い刺激でも快感として受け取れるほどいやらしい性感帯に作り替えられてしまったというのに──わざと、快斗が直接尖りには触れない。甘く焦らされるのが堪らなく切なくて、余計にキスばかり何度もねだってしまう。
そのたびに、口の中を優しく舌で乱されて、興奮ばかりが募った。
先刻から、ボクサーパンツの内側で痛いほど張り詰めた己のものと、快斗の屹立が布越しに擦れ合っている。身体を震わせるたびに、それがお互いを圧迫しては揺らし、もどかしい気持ちよさにまた煽られてゆく。
「いーにおい……」
反らした喉へ、快斗の舌が這う。
「あ、ぅ……」
触れられたらどこもかしこも気持ちよくて怖くなるほどだ。舌の舐め上げる動きに誘われるように、更に喉が反った。れろ……と舐め上げ、快斗が柔らかく吸い付いてくる。
やがて、喉表面に強めのちりりとした痛みが一瞬走った。
「んぁ……っ」
ぶるっと全身が興奮に震える。痕を見えるところに残したことを咎める気はなかった。
何をされても多分、今日の自分は許してしまうんだろう。紅い華がひとつも咲かぬ己の裸身を鏡に映して、ひどく寂しいと思ったあのときの記憶が一瞬、頭の中を過ぎる。
あんな寂しいセックスをするぐらいなら、今はひたすら、肌が紅く腫れる程に愛されたかった。
「新一、すげぇ良い匂いする……」
酔うような眼差しで、快斗が囁く。
「……そりゃ薔薇だらけの温室だからじゃねえの」
朝から噎せ返るような甘い匂いに満たされた温室だ。当然だろうと思ったが、快斗は首を振り、今度は鎖骨へと唇を這わせた。
「違うね。これは、お前が誘ってるんだよ……俺を」
「……!」
「お前が全力で、俺を誘ってる……」
「そ、れは……っ」
声が喉奥で痞 え、ひくりと快感に震えてしまう。寄りかかる新一の身体を腕で支えて少し起こし、快斗が今度は胸の尖りまで唇で辿りながら降りてきた。
焦らすように乳輪を濡らし、柔らかく食まれる。けれどやはり欲しいところに強い刺激は貰えぬままだ。ちゅ、くちゅ……胸から響く微かな水音にすら、脳内を煽られた。
(ま、だ、焦らす気かよぉ……)
ゆっくりと胸を反らして、快斗の唇に押しつけるようにしながら、新一は喘いだ。
誘ってる? そうかもしれない。
目の前の男を、全力で、誘惑したいと思っている。
「かい、とぉ……」
薄い胸を揺らし、快斗の頭を軽く抱く。どうしたら誘惑できる? 解らない。ずっと薬漬けでわけもわからないうちに絶頂に突き落とされてばかりだったから、この男と何度もセックスしたのにまだ、上手く誘える気がしないのだ。
匂いなんて自覚できないものではなく、きちんと、自分で誘いたいのに。
しかも疲労感が既に凄かった。持続し続ける興奮が息を切らせて、ただ椅子に座ってキスしていただけだというのに、もうずっと小走りに駆け続けているような体力の消耗具合が酷い。一睡もしていない頭は、薬を飲んだわけでもないのに段々思考が鈍りつつあった。
快斗の与えてくる緩い快感が、どろどろの脳内ではもう既に飽和状態だ。それなのにもっと欲しいと全身が鳴いた。欲しい。
快斗の与えてくれる、愛が……死ぬほど欲しい。
「む、ね」
たどたどしく声を漏らす。
ちゅ、と乳輪に口付けを落として、快斗が顔を上げた。その蒼紫の瞳が、悪戯に笑んだ。
「胸? どうして欲しい?」
「……っ!」
カッと頬を羞恥に染めた新一の視線を受けて、快斗が唇を開く。半開きの唇から見せつけるように舌を覗かせ、れろ……と新一の胸板を舐めた。
そこじゃない。
腰がびくりと震えて、快斗の腹に己のふくらみをまた押しつけてしまう。もう既にパンツの中で蒸れたそれは、先端をとろとろに蕩かし悶えていた。
「ち、が……」
「違うんだ? じゃぁ、ここ? このいやらしくぷっくり勃起してる、新一の可愛い乳首?」
「なっ……ばーろぉ……」
思わず恥ずかしさに身もだえる。悔しいけれど本当にこの一か月で自分の乳首は変わってしまった。すぐに興奮して、くっきりと勃つようになってしまった自覚はある。
今だって……もう、きゅっと痺れが走るぐらいに、かたく勃ちあがっていた。
背を伸ばし、伸び上がるようにして新一の耳元まで唇を寄せた快斗が、優しく新一を抱きしめながら囁いた。
「おねだり、出来る?『────』って」
「……っ」
快斗が小声で囁いた台詞に、思わず瞠目してしまう。んな破廉恥な台詞言えるわけねぇだろ、と抗議しかけた声は、けれど喉奥でぐっと詰まった。
快斗の眼差しが思うより切迫した熱を湛えて、新一の心臓をとくんと揺らしたから。
「俺を誘惑してよ……新一」
「ゆ、ぅわく……?」
「うん。俺のこと求めて。……今までずっと……俺ばかり、だったろ」
頬を擦りつけるようにして、快斗が小さく笑った。少し苦しげなそれは、きっと偽らざる本音なのだろう。
「無理やり薬飲ませて。取引でお前を縛る……そんなこと、ばかりだった」
「……っ」
「だから今日は、新一の望むことをしたい。俺を望んでよ。素直になってよ。望むことは全部口に出して、気持ちいいならいいって囁いて。何も隠さないで……俺もそうする。やらしいこと全部口に出して、沢山……叶えよう?」
耳にそっと口付けが降る。唇に己の耳たぶが吸い込まれ、たっぷりと唾液を塗しながら食べられる水音に、ゾクリと背筋が甘く痺れた。
(そっ、か……)
自分ばかり求めているような気でいたけれど──それは快斗も、同じだったのかもしれない。
嫌がる新一へ強引に薬を飲ませ、正気を失わせては快斗の一存で身体を貪る。お互い何度も果てるほど快楽を得てはいたけれど、それはきっと、快斗にとっても本当に欲しいものではなかったのだろう。そんな当たり前のことに、今更気付いた。
快斗の右手が再び新一を煽るように、誘 うように、優しく胸を弄 う。腰は抱き寄せられ、お互いのモノが布越し、じんわりともどかしい熱を伝え合った。
息をのみ、新一はとろりと熱に浮かされた瞳で快斗を見つめた。自然に自分から唇を寄せて、快斗の唇をそっと啄む。
どう誘惑すればいいかも解らなかったけれど──ただ、素直になればいいのかもしれない。
羞恥を捨てるのが多分一番難しいのだろうけれど、今ならできる気もした。ちょうど疲労でいい具合に脳が限界だ。ただでさえ下半身に血が集中して、もうぼんやりと頭が快感で霞んでいた。
もう一度、快斗の頬を両手で包み込んで口づける。今から自分が告げる言葉を脳内で巡らせると、ぶわりと頬が爆発するように上気してゆく。それを堪えて、目線を合わせた。
「じゃぁ……俺が望んだこと、全部……叶えろよ?」
「勿論。なんなら朝まで……じゃなかった、夜まで寝かさねえよ?」
ふふん、と不敵に快斗が笑う。俺をころす気か、バカ、と小さくたしなめ、新一は微笑った。
「かいと……」
「うん?」
「お、れの……やらしーぼっきちくび……いっぱい、なめて……」
「……っ!」
瞬間、ぐっと食いしばった歯の隙間から思い切り息をふーっと吐いた快斗の隻眼に、甘い劣情が過ぎった。
「最高、かぁいい……新一……っ」
快斗がぐっと身を屈める。新一の反らされた白い胸に、快斗がむしゃぶりついてきた。痛くないようにたっぷりと唾液を塗しながら、左の尖りを唇で包み込んで扱きたててくる。
「あ、んぁ……っ」
欲しかった刺激に、もう声が堪えきれなかった。甲高い声を上げ、新一は髪を振り乱した。胸がじんと痺れて、細やかな電流が全身を駆けてゆく。快斗の頭を強く抱きしめて、もっともっと、と言わんばかりに胸へ押しつけるのを止められない。
そんな動きに答えるように、快斗が強めに吸い立てる。
「ひぁ、あ、やぁぁぁ……っ、ふぁ、あっあぅ……っ! や、やぁ……も、イキ、そ……」
強すぎる快感に、もう瞳が潤んだ。左は唇で愛され、切ない力で吸い付かれる。右は滑らかな指腹できゅっと乳首を潰され、柔らかく摘ままれては扱かれた。
(それ、すき……)
もうそれだけで腰が重く痺れて、今にも勝手に達してしまいそうだ。
(おれ、おかしい……)
薬を飲んだわけでもないのに──興奮が止まらない。
「きもち、い、かい、とぉ……」
口に出して告げれば、なおさら脳が蕩けた。きもちいい。きもちいい。なぁ、かいと、おれ、とっても、きもちいい……。
「今日の新一すげぇな……全身で感じてるんだ……?」
乳首から唇を外し、快斗が小さく笑った。
「でも新一、疲れてるから、あんまり射精 させるとあっという間にへばるな……?」
「う……」
潤んだ瞳をぐっと歪ませ、新一は情けなさに喘いだ。残念ながら否定できそうにない。もっと感じてドロドロになりたいのに、多分2回ほど射精したら限界だろうと解っていた。快斗の方はおそらくいつも通りなのだろうが。
「……大丈夫、あと一か月、たっぷりやれるよ。まぁ一生やるんだけどな?」
背を宥めるように、撫でられた。
「今日の船。諦めて、新一」
「……あ」
もとより今日、乗るつもりはなかったのだが──
めでたくこの暮らし、CONTINUEとなるようだ。
「でも、今日はなるべく、最後まで我慢しな」
優しく囁かれ、腰がまたじんわりと痺れた。
「……どんな焦らしプレイだよバカ……全部叶えてくれるっつったろ」
む、と唇を尖らせれば、快斗が「あー」と声を漏らして突然天を仰いだ。
「あー待って待って……俺の嫁が可愛すぎてヤバいな……股間の息子が暴発しそう……」
「何いってんだ……」
鼻先を軽く囓 ってやると、ふふ、と快斗が笑った。
「叶えるよ……叶えますとも。でも寸止めするつったら怒る?」
「怒る」
「それは困るな……」
言葉遊びでじゃれながら、ちっとも困っていない顔でちゅっと唇を啄 んだかと思うと、舌先で誘うように唇をつついてくる。まんまと誘われて新一の唇は緩んだ。
唇はもう少しで重なるギリギリのところで留めて、舌先だけで愛し合う。
こうしていると、ひどく自分が淫乱になってゆくようで、ぞくぞくと背筋が甘く痺れてゆくのを止められない。悪い遊びに嵌まるように、密かに溺れている遊戯だった。
薄目を開き、このたまらなく淫蕩な遊戯を快斗とするのが、好きだった。
気持ちが通じると尚更気持ちが良かった。恥ずかしさや罪悪感より、いやらしいことを二人で選んで演じる快感が、身体を痺れさせている。
「んぁ……」
腰を揺らしてお互い、布の内側で熱く蒸れたものを擦り合わせながら、舌先でセックスする。快斗の手が甘く肩を撫で、胸を撫で、また胸で熟れ頃の果実をきゅっと摘まんだ。
「ひぅ……っ」
疾る快感に、一瞬びくんと背が震え、舌先が離れる。
快斗がほくそ笑み、まだ舌先を唇から覗かせたままの新一に熱を孕んだ視線を注いだ。
「蕩けた顔、そそるね……あんまり可愛い顔してると……俺のをエロいお口に突っ込んで泣かせたくなる……」
強い欲が、隻眼の奥でゆらゆらと蒼紫の炎になって、燃えていた。
* * *
一か月、確かにありえないほど濃厚な性戯で新一を快楽に叩き堕としてきた快斗だったが、それでも快斗が己に強く制限をかけていたことは、いくつかあった。
新一の身体に本当にダメージを与えるような抱き方はしないこと。後孔が切れるような、そういう苦痛は一切与えたくなかった。
もう一つ──フェラも、禁じていた。新一を口で愛したことは何度もあるが、己のモノを新一に無理やり咥えさせることは、あえてしなかった快斗だ。
「むしろ……なんで、しねーの……? 今までも一度もさせなかったよな?」
頬を染めつつ尋ねてくる新一に、思わず快斗は苦笑した。
「犯したかったんじゃない。……堕としたかったんだよ」
白くすべらかな頬に口づけて、囁いた。
「俺だけ気持ちよくても意味がなかった。新一が気持ち良くなって、俺を忘れられなくなるようなセックスで……新一を、堕としたかったんだよ……」
俺に堕ちて……そう何度胸の奥で囁きながら犯したか知れない。抱いている瞬間だけ、永遠を見られるような気がしていた。
熱が引き、朝がくれば、苦しさがこみ上げてくる日々だった。終わりを常に見据えながら、刹那を貪るようなセックスを繰り返した。新一の中に、一生抜けない棘のような快楽を打ち込むことに、思えば必死だった。
間近で瞬く新一の瞳が、ふと、滲むような輝きを増した。
「今は……? したく、ねぇの?」
もぞ、と腰が揺らめく。新一の張り詰めたものが、快斗の雄を控えめに圧迫してくる。ただそれだけで、己のものが切なく疼いた。
「したいよ……喉の奥まで……犯したい……」
低く囁く。
その瞬間、緩く新一が瞬きをした。喉の奥どころか身体の芯まで犯されているような、陶然とした瞳だった。
新一が自分からカウチソファーを降りた。快斗もソファーに掛け直す。床に下ろし広げた両足の合間に新一がするりと身体を納め、腰へ抱きつきながら顔を寄せてくる。
快斗の黒いボクサーパンツを焦らすかのようにゆっくりと押し下げてゆく様は妖艶で、いつの間にこんなにやらしい手つきができるようになったんだと、心の中で快斗は呻いた。
興奮して赤黒く張り詰めたそれを露出させて、新一がどこか満足げに微笑む。
もうその表情だけで、疼痛のような幸せが下腹を重く締め付けた。淫靡な光景に腹の奥がずくりと疼く。新一が母親譲りの綺麗な唇を開いて、そっと亀頭の先端に口づけた。
「──っ!」
唇の粘膜だけを使って、新一がぬるぬると唇を滑らせ亀頭を圧迫してゆく。添えられた右手が優しく竿を弄り、左手は大切そうに快斗の玉袋を下から包み込んだ。
新一が快斗の亀頭を溢れる唾液で濡らしてゆく。カウパーと混ざり合ってねっとりと濡れる先端に小さく吸い付かれれば、びくんと大きく屹立が跳ねた。
「……っ……ふ」
快楽のあまり、呻きにも似た声が漏れてしまう。上目遣いにこちらをちらりと見やり、嬉しそうに笑って、また新一が吸い付いた。
(くそ……反則だっつの……)
気を抜くと、その目つきだけですぐにでも射精してしまいそうだった。興奮がお互い強く先走りすぎて、最初の一発はそう長くは保たない。
快感を逃がしたくて、さらりと零れる黒髪に指を這わせ頭を撫でてやれば、新一の唇はさらに開いて、快斗の屹立をゆるゆると飲み込んでいった。
雁のくぼみを、れろ……と舌が横滑りしながらなぞりあげてゆく。淫靡な水音がくちゅ、とその口淫と共に漏れ出して、真っ白な朝の光に輝く温室は一気に淫らな色へ染まった。
同じ男同士でツボが解るのもあるのだろうが、今まで快斗が新一に施してきた記憶も辿っているのだろう。似たような動きで追い上げられていくのが、愛しくてならない。
「……ぐ……、ん……っ、んッ……」
口に入りきらない快斗の剛直を、それでも出来るだけ喉奥まで導こうとしてくれる新一の奉仕に、時折、快斗の腰がびくりと跳ねた。
嘔吐 きをこらえて喉をそっと開いては、快斗を奥まで呑んでくれるその動きは頭がおかしくなりそうなほど健気で、このまま無茶苦茶に喉奥を突いてしまいたくなる。新一の喉粘膜にじわりと亀頭が押しつけられ、脳天まで震えるような快感が奔るたび、快斗は全身を硬直させた。
ほとんど快感の暴力だった。
「ん、ふぅ……んぷ……っんぅ……」
口を窄めるようにして新一が唇で扱き、しゃぶる。ごっそり腰が抜け落ちそうな快楽を与えてくる唇に、頭が痺れるように酔いしれた。
「ぐ……っ!」
欲に負けてたまに腰をぐっと突き入れれば、新一の喉奥を己の先端が一杯に塞いで、粘膜に当たる瞬間がゾクゾクと射精を促す。苦しげに嘔吐く様までも雄の征服欲を煽るのだから、困る。
噛みしめた歯の合間から、獣のような吐息と共にぎりぎりの快楽を逃がそうと、快斗はもがいた。
このまま口の中に出したい気持ちは勿論あった。喉奥まで白濁で犯せたらさぞ気持ちいいだろう。けれど、深く己の劣情を咥え込んで口淫に耽る淫らな恋人を見ていたら、どうにももう一つの欲望が抑えきれなかった。
「……しん、いち……」
その頭に少し力をこめて、両手で支えながら抜き去る方向へ引っ張る。ずる、と熱く濡れた剛直を口から引き抜いて、新一が潤んだ瞳でこちらを見上げた。
「良く、なかったか?」
少し不安げに陰る瞳が、また愛しさを連れてくる。紅く目元を染めた恋人の頬に手を添えて、快斗は囁いた。
「良かったぜ……良すぎて……さ……」
そっと己の新たな欲を告げれば、新一が潤んだ瞳を伏せて、小さく笑った。
いいぜ、と頷かれて、また己の屹立がぐっと膨らんで跳ねた。
本当にいいの、と尋ねかけて止めた。そんな言葉、今更必要もないほどに新一の瞳が快斗をひたすら待っている。底なしに受け入れられていることを感じて、ぞくりと全身が総毛立った。
ラグに二人して降りて、新一を押し倒す。柔らかく毛足の長いラグに埋もれるようにしどけなく横たわり、熱っぽい表情でこちらを見上げる新一の胸に大きく跨がるようにして、膝立ちした。
腰を反らし、己を前へ突き出す。キスや口淫のせいで少し紅く腫れぼったくなった新一の口元へと、己の竿に手を添えて支え、狙いを定める。
浅ましい体位だった。人として最低なことをしている自覚はあったが、止められなかった。脳髄を沸騰させる興奮のままに、熱く滾る己の竿にかけた手を動かして己を扱いた──その時だった。
新一が、緩く唇を開いた。
「んぁ……」
籠もった声とともに、紅い舌先がそっと控えめに伸びてきた。
──はやく、出せよ……
せがむような瞳が、蕩けて甘い。
伸ばされた舌先が、そっと己の赤黒い先端をつついた。
「ぐ……!」
堪らず歯を食いしばり、さらに己の剛直を前へ突き出した。扱きながらその唇に押しつける。
新一が快斗の腰に手を回した。柔らかな唇が待っていたように先端へちゅっと軽く吸い付いて、潤んだ新一の瞳が細まる。
「ぐ、ぁ…………っ!」
限界だった。暴力的な欲望がどっと根本からこみ上げて、爆発する。半開きな唇に、鼻に、桜色に染まった頬に、喉に──己の白濁をこれでもかと叩きつけて、快斗は全身をおおきく震わせた。
「んっ……んんんっ……!」
同時に新一も目を閉じ、悶えるように身を震わせた。
ぞっとするほどの快感が、身を貫いて射精されてゆく。
「……っ、く……ぁ、はぁ……はぁ……」
吹き出る白濁が、新一の顔を更に汚し、ぱたぱたっ、と水音が立った。
目を閉じたまま、新一が大きく口を開けた。その中へも白濁が飛び込んでゆく。
……この10年、何度か劣情が見せた妄想の一つだった。
その綺麗な顔を汚したい。己の白濁で思うさま汚して、擦りつけて、青臭い匂いごと染めてしまいたい──そんな、下劣なほどのこの欲が、よりによって新一自身に赦されて叶うなんて、そういえば今の今まで思いもしなかったなと気付いた。
赦されて合意の上であっても、強烈な欲求が去ると、罪悪感がこみ上げる。
ひくん、と新一の身体が震える。
「……わりぃ……待ってて、拭くから」
「……ん」
跨がっていた体勢を解いて、ガゼボの中に置いてある小さなチェストからタオルを引き出しつつ告げると、目をとじたまま軽く頷いた新一が、唇を閉じ、向こうを向いた。
思わず──その瞬間から目が離せなかった。
こくん、と新一の喉が鳴った。二度に分けてぐっと喉を反らして口の中の白濁を飲み干してゆく新一の姿に、また叫び出したいような興奮がこみ上げて、呼吸が乱れた。
新一の顔の横に座って優しく顔を拭ってやれば、やがて開いた新一の瞳は官能に煙り、恥ずかしげに瞬いた。
その身体が、ぴくん、と小さく震えることを繰り返している。
「新一……ありがとう……ごめんな、辛く、なかったか」
添い寝しながら囁けば、新一がゆるゆると首を振った。
「大丈夫だって……それより」
ぐっとその頬が真っ赤に染まってゆく。恥ずかしそうに視線を逸らし、新一が向こうの方をむいて、ぼそりと零した。
「おれも、……イッた……」
「え」
慌てて新一の下肢を見て、驚いた。グレーのボクサーパンツに、深い色の染みが広がっている。
自分が射精するときに新一の胸に跨がって顔を見つめていたから、さすがに気付かなかったのだが──もしかして、同時に達したのだろうか。
「……すげぇ」
「すごくない」
新一が恥ずかしそうに呻いて、己の顔をついに両手で覆ってしまった。
いやいや凄いだろ、と胸の中で途方にくれて叫ぶしかない快斗である。
(凄いって! 凄く、たまらなく可愛いだろ、そんなの……!)
* * *
なんてこった、と胸の中で途方にくれた。
興奮が抑えきれなかった。快斗が顔射したいと告げてきたとき、腹の奥がきゅうっと強く軋むように痺れて、堪らなくなった。
快斗の欲をぶつけて貰えることが嬉しかった。とはいえ顔射にここまで興奮した自分の方がよっぽど恥ずかしいし変態だ。まさか触れられもしないで射精してしまうなんて自分でもびっくりで、言葉もなかった。パンツの内側に漏らしてしまった白濁が、ぐちゅぐちゅと気持ちが悪くて、余計に情けなさが募る。
もう快斗の方を向くこともできず、逃げるように顔を覆ったが、
「新一、新一……ね、こっち向いて」
甘いボイスが追い打ちをかけてくる。
(くそ~!)
声まで非の打ち所のない色男なのをどうにかして欲しい。似ているようでいて、こんな時の雄の声は全然自分とは違う、と新一は思う。
同じ雄ながら、屈服していいと思わせるだけの魅力は声にすら滲んでいて、逃げられない。
「……俺、嬉しかったぜ」
「…………」
「新一に嫌がられたらと思うと、口にするのも結構勇気が必要だったしさ……新一が俺と同じくらい興奮してくれたのすげぇ嬉しいんだけど?」
「…………」
「顔、見せてよ……俺の愛しのサフィールさん」
「……人の顔にかけといて何がサフィールだ、ばか。変態。