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【期間限定再録】モイライの糸【中編】/ベティ的小说

【期間限定再録】モイライの糸【中編】

19,745字39分钟

中編です。

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結局、凛は帰ってこなかった。彼が帰るまで待ち続けたかったが、そういうわけにはいかない。仕事がある。潔は後ろ髪を引かれる思いで、飛行機に乗った。その間も凛に連絡を取り続けたが、彼は一向に応じなかった。凛のその行動は嫌がらせをしたいわけでも、焦らせたいわけでもなく、単に潔とどう接したらいいか分からずに途方に暮れているからだと、潔は知っていた。
 ひと月が経った。その日潔はバスタードミュンヘンのクラブハウスのロビーで、スマートフォンを眺めていた。もうどれくらいこうしているだろうか。五分程度の気もするし、三十分以上の気もする。もっと時間は有意義に使うべきだ。しかし身体は理性とは真逆の行動を取っていた。
 潔は溜め息をついた。こんなに長い間凛と連絡を取らずにいるのは初めてのことで、途方に暮れていた。それでも、彼が自分から離れていくとは欠片も思わなかった。この関係が終わるわけがないと、断言できる。自分でもなぜ根拠もなくそう言い切れるのかは分からない。ただ、そう感じるのだ。

「景気が悪そうだな、世一ぃ?」
「ただでさえお粗末な顔が、更に残念なことになっていますよ。ご愁傷さまです」

 この世で最も癪に障る声その一とその二が聞こえ、潔は自分のこめかみに青筋が浮かぶのを感じた。

「あっち行け、疫病神ども」
「酷い誹謗中傷だ。なぁ、ネス」
「ええ、まったくです」
「ここ数年おまえらと過ごしてみて、いい加減俺も学んだんだよ。平和に過ごしたければ、バカ二人に関わらなければいいってな」
「今のはチームメイトに言う言葉では無いな」
「イエローカード一枚です」

 ミヒャエル・カイザーとアレクシス・ネスは、なんの断りもなく潔を挟んでソファーに座った。潔は、こんな場所で感傷に浸ってしまった自分をぶん殴りたくなった。

「悩み事があるなら相談に乗るぞ、世一」
「カイザーに相談できるなんてとんでもない幸運ですよ。さっさと話しなさい、世一」
「世一世一連呼すんな!」

 潔はスマートフォンをジャージのポケットに突っ込んで立ち上がろうとしたが、左右から腕を引っ張られてあえなく着地した。こんなところでも息がぴったりなのだから、大概しょうもない主従である。

「勝手にいなくなろうとするな」
「カイザーの許しが出るまで、この場から動くことは許しません」
「おまえらマジで百回は死んだ方がいい。もしかしたら奇跡的にそのバカが治るかもしれねぇ」

 潔はこめかみを揉んだ。潔はカイザーアレルギーの持ち主なので、すでに頭痛が起き始めている始末だった。

「なんでそんなに俺のプライベートが気になるんだよ」
「単純に興味があるし、嫌がるおまえの顔が見たい」
「明日朝起きたら、その尻尾が無くなってる覚悟をしてから物を言えよ?」

 半眼で唸る潔に、カイザーはちょっとばかり顔を顰(しか)めた。だが引く気は無いらしい。無言で圧をかけて来る。潔は事実を言ってしまうことにした。知られたところでどうと言うこともない話だ。

「恋人と揉めた。それだけだ」

 ドイツ主従はそっくり同じ表情で固まった。ニヤケヅラが引きつっている。先に口を開いたのは、意外にもネスだった。

「別れたらどうです?」

 潔は呆れ返った。

「雑なアドバイスをどうも。クソの役にも立たねぇよ」
「だって、相手はどうせ糸師凛なんでしょう。だったら悩むだけムダです。あんな男は今すぐ廃棄処分にするべきです」
「俺も同意見だ」

 遅れて立ち直ったカイザーが言った。潔は、なんでこいつはこんなにショックを受けていたんだろうか、と思った。

「こう言うのは癪だが、あいつはおまえに相応しくない。もっと良い相手が近くにいるだろう。例えば、選手として類まれなる才能と実力と実績があって、顔がすこぶる良くて、名声も富もある男が」
「ノアのことは尊敬してるし好きだけど、恋愛対象ではねーよ」

 カイザーは再び沈黙の森に帰った。ネスが同情もあらわに主を見つめる。潔は首を傾げた。

「前から思ってたけど、おまえらって異常に凛を毛嫌いしてるよな。何でだ?」

 ネスは、心底バカを見る目をした。

「あのですね、曲がりなりにもチームメイトがレイプ魔と付き合っていれば、苦言のひとつも呈したくなりますよ」
「だから、俺はレイプなんかされてねーよ」
「だったら、あれは何だったんですか」

 ネスは珍しく怒気を見せて詰問した。

「僕もカイザーも、糸師凛が君をメディカルルームに連れていく場面に遭遇したんですよ。君は酷い有様でした。当時君のことが大嫌いだった僕ですら、同情したほどです」
「当時って。嫌いなのは今もだろ」
「えっ⁉ あ、ああ。それはそうです。今のは言い間違いです」
「まぁどうでもいいけど」

 潔は膝の上で頬杖をついた。

「あれは本当に違うんだよ。逃げようと思えば逃げられた」
「DV被害者の思考回路ですね。許す理由を必死に探して、相手は悪くないと自分を納得させようとする」

 手厳しい評価だ。周りから見ると自分たちはそんな関係に見えるのかと驚いた。

「馬鹿だな」

 潔は笑った。

「全然違うよ」

 確かに凛は潔を縛っている。より正確に言えば、潔が自ら罪悪感という名の鎖に縛られている。凛を恒常的に傷つけている自覚があるからこそ、潔は凛に愛情を注ぎすぎてしまう。凛が貪欲に求めるままに応じてしまう。
 けれど、凛を縛っているのは潔も同じだった。優しさで雁字搦(がんじがら)めにして、自分の元に繋ぎ止めている。凛のすべてを肯定することで、彼にはこの愛しかないのだと思わせている。潔が凛の横暴や我儘を受け入れているのは、純粋な優しさからではない。凛を自分の元に留めておくための手段のひとつに過ぎない。結局は自分自身のためだった。酷いのはお互い様なのだ。
 ふと、気まぐれがわいた。潔は二人を交互に見て言った。

「お望み通り、話をしてやるよ。恋愛相談だ」

 カイザーとネスは嫌そうに顔をしかめた。

「それはちょっと遠慮したいですね」
「もっとマシなことを相談しろ」
「なんなんだ。聞いてきたのはそっちだろうが」

 潔は彼らの反応に呆れつつ、訊ねた。

「恋人の信頼を失いかねない秘密があるとする。おまえらだったら打ち明けるか? それとも言わない?」

 二人は間髪入れずに返事をしたが、それはまったく潔の期待したものではなかった。

「おい、秘密ってなんだ」
「どんな秘密ですか。今すぐ吐きなさい」
「おまえらに話した俺が馬鹿だったよ。二度としねぇ」
「待て待て」

 憤然と立ち上がる潔を、カイザーが押し留めた。〝二度としない〟の部分が効いたようだ。カイザーは空咳をひとつしてから、不本意そうに言った。

「秘密の内容によるんじゃないか? 例えば、浮気したなら墓場まで持っていった方がい」
「誰が浮気なんかするもんか」
「知ってるさ」
「……知ってる? どういう意味だよ」
「俺はまだおまえと寝てない」
「は?」
「僕も浮気を暴露されるのはごめんですね。でもそれ以外の秘密なら、絶対に知りたいです」

 カイザーが寝言をほざいた気がしたが、ネスのまともな回答の方に意識が行った。潔は慎重に訊ねた。

「……それがどう考えても、絶対にありえない、正気を疑うようなことでも?」
「知りたいですね」

 ネスは即答した。

「例え火星人と握手したと言われたって、受け入れますよ。まぁ相手が君だったらの場合ですが。他の人間だったら病院にぶち込みます」
「なんで俺限定なんだよ?」
「おまえだからだ」

 カイザーが、ネスの言葉を引き取った。潔はカイザーを見た。彼は薄く笑っていたが、とても真剣な眼をしていた。そんな顔をすると、彼は本当に美しい。

「おまえなら、イカれてたって欲しい。おまえにはそう思わせる、クソ忌々(いまいま)しい力がある」
「……とんでもないことですよ」

 ネスが呟いた。とんでもないことですよ、ともう一度。

「過大評価すぎるだろ」

 潔は苦笑した。なぜ二人がこんなことを言うのか、潔には分からなかった。……いや、本当は心のどこかで気づいている。でもそれを直視してしまったら、すべてが壊れると知っている。だから潔は何も気づかないふりをする。分からないふりをする。卑怯だと言う者もいるかもしれないが、それが潔の精一杯の〝今〟の護り方だった。

「……凛も、おまえらと同じように考えてくれてたらいいんだけどな」

 潔は言い、立ち上がった。
 

 その夜、潔は冴に電話をかけた。冴は三コールで出た。

『また人生相談か?』

 電話越しで聞く冴の声は、不思議と直(じか)に聞くより柔らかく響く。潔はホットワインを片手に、バルコニーからミュンヘンの夜景を見下ろした。十月の冷たい風が、髪を洗っていく。

「まぁ、そんなとこ」
『凛の誕生日はどうだった?』
「最高で最悪だった」
『案の定、揉めたわけだ』
「やらかしちまったよ」

 潔は諦観混じりに言った。冴がハッとせせら笑った。

『本当にどうしようもねぇな、おまえらは』
「……自分でも時々そう思うよ」

 情けない弱音は宙を浮き、どこにも着地できずに漂った。ホットワインの苦味が、じわりと舌先に広がる。

『どうするか決めたのか?』

 鋭い冴は、潔の電話の理由を知っていた。

「どうしようか」

 眩しいくらいに輝くミュンヘンの夜景を眺めながら、潔は苦く笑った。バルコニーに寄りかかる。ひやりとした欄干が、シャワーを浴びて火照った肌を冷やしていった。

「カイザーとネスに相談してみたんだ。恋人が正気を疑うような秘密を抱えていたとして、それを知りたいと思うかって」
『……なんでよりにもよってそいつらなんだよ。バカがバカに相談してどうする。何一つ解決しねぇだろ』
「失礼すぎてぶん殴りたいけど、今は聞き流してやる。──二人の答えは『知りたい』だってさ」
『それはどうせ、おまえ限定の話だろ』
「……なんで分かったんだ?」
『俺はおまえと違って節穴じゃねぇ』

 潔は冴の手厳しさにおののいた。けれど長い付き合いの中で冴の賢さを十分知っているがゆえに、反論できない。

『隠し事をするおまえと、正気を失ったおまえ』

 冴が言った。

『どちらを選ぶかと訊ねたら、凛は間違いなく後者を選ぶ』
「……」
『おまえはいつも凛に、常識や世界より、自分を選ばせてきた』

 冴の声には、一切の淀みがなかった。

『今回も同じことをすればいい。簡単なことだろ』

 潔は溜め息をつき、夜空を仰いだ。

「……簡単じゃねーよ、ばか」

 でもそれは間違いなく、真実だった。
 潔は強く瞑目(めいもく)した。息を吸い、大きく吐く。もう一度。
 次に目を開けた時、覚悟は決まっていた。

「俺が凛に捨てられたら、責任取ってくれよ?」

 冴は鼻先で笑い飛ばした。

『仕方ねぇから、一生面倒を見てやるよ』

 電話を終えた後、潔は凛にメッセージを送った。

『会って話がしたい』返事をどれだけ待たされても、構わないと思った。

 メッセージが返って来たのは、クリスマス休暇を間近に控えた夜だった。枕元のデジタル時計は午前二時を過ぎていた。眠っていた潔は顔をしかめながらスマートフォンを手に取り──差出人の名前を見て身を起こした。

『二十五日に行く』

 内容はこれだけだった。潔は『俺がそっちに行くよ』と返した。返事はすぐに来た。『なんで』潔もすぐに返信する。『おまえが落ち着ける場所で話したい』返事は無かった。潔はそれを了承と受け取った。スマートフォンをシーツに放り出し、寝転がる。
 凛にはやく会いたいと思った。
 逃げ出したいと思った。

「大丈夫」

 声に出して、自分に言い聞かせる。大丈夫、大丈夫。例え潔を狂人だと思ったとしても、凛は決して離れていかない。狂った潔ごと貪欲に求め、喰い尽くしたいと願うはずだ。糸師凛とはそういう男だ。そう確信しているのに、心のどこかにいる弱い自分が、恐怖に震えている。
 潔は固く目を瞑(つぶ)った。どうか俺に勇気を、と願った。その相手は冴ではなく、ましてや神でもなく、あの凛だった。潔が永遠に失った、彼だった。


 雪の降る夜だった。凛は自宅の前で待っていた。潔はタクシーを降り、急いで凛に駆け寄った。

「悪い。遅くなった」

 予定では昼頃に着くはずだった。けれど搭乗前にどうしても断れない仕事が急遽舞い込んでしまい、予約していた飛行機に乗れなかった。仕事を終えて急いでチケットを取り直そうとしたが、クリスマスシーズンだ。そう簡単に取れるわけもない。奇跡的にキャンセルが出て、予定より数時間遅れでパリに着いた。

「いつからここで待ってたんだ?」

 黒いコートを着た凛は、高い鼻梁(びりょう)の先を赤く染めていた。髪や肩が雪で僅かに湿っている。少なくとも十分以上外にいたことは確かだ。

「なんで家の中で待ってないんだよ」
「おまえを家に入れたくない」

 凛はぴしゃりと言った。潔はさすがにショックを受けた。硬直する潔に、凛は眉根を寄せた。長い前髪をかき上げる。

「……外なら、少なくともおまえを犯す可能性はないだろ」
「……なに?」
「今俺は、自分を抑え切れる自信が無い」

 とても糸師凛の口から出る言葉とは思えないセリフだった。それだけに、凛の葛藤が痛いほどに伝わってきた。らしくない事を言ってしまうくらい、彼は追い詰められているのだ。
 潔は凛の両手を取った。ぎゅっと掴む。

「やっぱり、中に入ろう」
「っ、話聞いてなかったのかよ!」
「俺は何をされても大丈夫だ。おまえにつらい思いをさせる方が嫌だ」
「どういう意味だ?」

 凛が胡乱(うろん)な顔をする。潔は大きく深呼吸をひとつしてから、はっきりと言った。

「おまえ、雪の夜は大嫌いだろ?」

 凛の目が大きく見開かれた。形のいい唇を開き、閉じ、また開く。やがて、かすれた声で言った。

「……なんで、それを……」

 口をつぐむ。潔は簡潔に答えた。

「おまえから聞いたんだよ」
「……ッ、話してねぇ!」
「ああ、おまえは話してない。教えてくれたのは、もう一人のおまえだ」

 凛は見たことがないほど取り乱していた。混乱のあまり呼吸すらままならないようだ。その目には、恐怖が差していた。

「なにを──なにを言っている?」

 潔は手を離した。玄関を示す。

「続きは家の中で話すよ」

 凛はもう、潔に入るなとは言わなかった。
 部屋の中はあたたかかった。潔は勝手知ったるキッチンに行き、ワインセラーからワインを取り出した。グラスに注(そそ)いで、立ち尽くす凛に手渡す。凛は受け取ったが、それは反射の行動に見えた。潔はソファーに座った。ぽんと隣を叩く。

「座れよ」

 凛はふらふらと従った。呆然と潔を見つめる。潔はワインを揺らしながら、苦笑した。覚悟を決めたせいだろうか。心は奇妙なほど凪いでいた。

「さて、どこから話そうかな──」

 ──潔は凛の死から始まった一連の奇妙な出来事を、打ち明けた。いったん口火を切ると、淀みなく語ることができた。できるだけ感情を排して、事実だけを話した。潔が語っている間、凛は無言だった。一度として口を挟まなかった。ただただ潔を凝視していた。その瞳に渦巻く感情はあまりに複雑すぎて、とても言葉で表現することはできなかった。

「俺は、長い長い夢を見ていたのかもしれない」

 すべてを話し終え、潔は言った。

「俺はあちらの世界の出来事を現実だと思い込んでいたけど、もしかしたら今の人生が本当の現実なんじゃないかって……前の人生こそ夢だったんじゃないかって、時々思うんだ」
「……」
「だから、答え合わせをさせてくれ」

 凛をじっと見つめた。

「あれは現実のことだったんだと、教えてくれ」
「……どうやって」

 やっと凛が発した声は、ひどく頼りなかった。潔は簡潔に訊ねた。

「おまえは昔、冴と一緒にアイスを食べるのが好きだった?」
「……」
「雪の夜に、冴と決別した?」
「……」
「〝潔世一(おれ)〟を認識した瞬間に、自分のものにしたいと思った?」

 そこで一度言葉を切り、一呼吸おいた。そして、最後の質問をした。

「Uー20日本代表の時の冴の言葉で、俺の人生を潰して、踏みにじって、俺が壊れるほど憎み抜きたいと、願った?」

 凛は瞑目した。俯く。長い前髪の先が揺れた。ほんの少し乱れた呼吸が、彼の動揺を物語っていた。
 二人は向かい合ったまま、長いこと黙りこくっていた。潔は生きた心地がしなかった。判決を待つ罪人のような気分だった。いつ凛が口を開き、罵倒の言葉を吐くかと思うと、全身から嫌な汗が噴き出した。いや、罵られるくらいならまだマシだ。狂っていると見なされ、二度と関わるなと拒絶されてしまうかもしれない。凛の人生から追い出されてしまうかもしれない。そうなったら、俺の人生は終わりだ。潔は思った。潔は一度凛が消えた人生を味わった。もうあんな思いは耐えられない。
 ……いくら待っても凛は口を開かなかった。沈黙が恐ろしすぎて、潔はたまらずに言った。

「こんな話、気味悪いよな」
「…………」
「おまえが俺を気持ち悪いとか、近づきたくないって思ったとしても、仕方ないと思う。それが当然の反応だ。……仕方ない、けど、」
 声が震えた。目頭が熱くなる。視界が潤む。俯いて、囁いた。

「離れていくな」

 涙が一筋零れた。

「おまえがいない人生なんて、生きる価値もない」

 それはプライドの高い潔に言える、精一杯の懇願だった。
 もはや涙を拭う気力も湧かなかった。凛を傷つけるくらいなら、自分が捨てられる方がマシだと本気で思っていたが、いざそれが鼻先まで迫ってくると、底なし沼に引きずり込まれるような心地がした。
──出し抜けに、足を蹴られた。

「クソくだらねぇ」

 潔は耳を疑った。唖然とする潔に、凛は憤りもあらわに吐き捨てた。

「こんなどうでもいい話を、ずっと隠してきたっていうのか」
「ど、どうでもいい?」
「だってそうだろ。おまえがイカれてようが、本当に未来の記憶があろうが、だからどうだって言うんだ? 俺に何の不利益があるんだよ」

 潔は混乱した。斜め上の反応にどう答えればいいのかと途方に暮れる。とりあえず、拒絶はされなかった。それが重要だ。

「……気色悪いとか、思わねぇの」
「元々そう思ってる」
「ひ、ひどすぎる」
「おまえがキメェのも、イカれてんのも、今に始まったことじゃねぇ。未来の記憶がある? だからなんだよ。死ぬほど興味無ぇ。むしろこんなことで、グダグダ悩まれる方が迷惑だ」

 潔は、過去に戻った日からずっと自分の正気を疑って来たが、今は目の前の男の方がイカれていると思った。未来の記憶がある云々(うんぬん)騒ぐ自分の方が、まだマシに思える。

「ああでも、害はあるな」

 凛は片眉を器用に持ち上げた。矢のような目で潔を射抜く。

「おまえが未だに〝死んだ未来の俺〟に囚われてるのが気に食わねぇ。おまえが会いてぇっつったのも、そいつだろ。俺じゃない俺だろ。クソムカつく。ふざけんじゃねぇ。死んだモンに執着するな。するなら今の俺にしろ。今生きて、おまえの目の前にいる、この俺に」

 凛は潔の顎を乱暴に掴んだ。ぐっと顔を近づけた。

「俺だけの〝潔世一〟になれ」
「凛」
「じゃなきゃ許さねぇ」

 言い終わるなり、噛み付くようなキスを仕掛けた、潔は素直に口を開いた。凛のやり方に合わせて、舌を絡める。彼の見かけよりずっと広い背中に、腕を回した。

「……そいつは無理だ、凛」

 長い口づけの果てに、潔はしゃくりあげるように囁いた。

「〝糸師凛〟を忘れることなんてできない」
「……」
「でもそれは、おまえに全部を捧げないって意味じゃない。おまえには俺の全部をやるよ。ただ、もう一人のおまえを愛した気持ちは、もう俺の一部になってるんだ。切り離すことなんてできない。だから」

 潔は凛の目を真っ直ぐに見つめた。

「〝おまえ〟を愛した俺ごと、抱き締めてくれ」

 凛は舌打ちをした。心底気に食わなそうだ。潔が見つめていると、渋々答えた。

「今はそれで手を打ってやるよ。今はな」

 潔の後ろ髪を乱暴に乱す。

「いつか絶対(ぜって)ぇ忘れさせてやる」

 そう吐き捨てて、潔の唇にもう一度噛みついた。潔は応えながら、涙が頬を伝うのを感じた。凛に拒絶されなかった。受け入れてもらえた。安堵のあまり、眩暈さえ覚えた。

「……なぁ、俺の話、どこまで信じたんだ?」

 唇を擦り合わせながら訊ねる。凛の返事はまたもや予想外だった。

「特に信じてない」
「……はぁ?」
「どうせ全部おまえの妄想だ。夢オチに決まってる」
「……。……俺、おまえしか知らないことを知ってただろ?」
「俺が話したことを覚えてないだけだ。そういうことにする」
「なんだよ、それ」

 思わず笑ってしまう。凛はうるせぇ、と唸った。

「どうでもいいって言っただろうが。イカれてようが、本当のことだろうが、おまえがおまえなら俺の知ったことじゃない。それにもう未来は変わってんだろ?」
「……ああ。全然違う人生だ」
「なら尚更(なおさら)どうでもいい」

 凛の本心は潔には読み切れなかったが、少なくとも彼は潔に忌避感(きひかん)や嫌悪感を抱いてはいないようだ。この反応は潔の想定を遥かに超える芳(かんば)しいものと言えた。だが懸念もあった。潔はたしたしとたくましい肩を叩いた。

「なんだよ」
「おまえの冷静さというかイカれっぷりは助かるけどさ、少しは真に受けて貰わなきゃ困るんだよ。おまえを殺した奴はこの世界にいないようだけど、万が一ってこともある。俺、またおまえが死んだら──」

 潔は声を詰まらせた。更に涙が溢れる。

「耐えられねぇよ。きっと、おまえの後を追っちまう」
「〝きっと〟じゃねぇ。間違いなくそうしろ」

 傲慢に後追いを命じる凛は、やはりイカれていた。

「そいつが存在しないなら、何も問題は無ぇ」
「だから万が一のことも、うわ!」

 いきなりソファーに押し倒されてびっくりする。凛はいっそ図々しいほどの乱暴さで潔の服を脱がしにかかった。首筋に何度も口付けながら、むき出しの腰を撫でる。

「どうでもいい」

 凛はもう一度繰り返した。

「別の俺がどんな風に生きて、どんな結末を迎えたかなんて、俺には関係ない。俺は俺のやり方で生きてくたばるし、おまえにはそれに付き合う義務がある」

 熱い舌が、潔の目尻に残った涙を拭った。

「おまえは俺のものだ」

 力強く、揺るぎなく、けれどどこか生々しい痛みを感じさせる声音だった。

「他の誰にも──〝俺〟にも渡さない」

 ──凛のその願いが叶うか否かは、見方によるだろう、と潔は思った。もう一人の凛への想いを抱えることを裏切りと捉えるなら叶わないし、それも潔の一部だと受け入れるなら叶うだろう。
 なんにせよ、潔世一の魂は糸師凛のものだった。他の誰でもなく、彼だけのものだった。
 これからそのことを──例え長い時間を要したとしても──教えてあげよう。そう心に決めながら、潔は凛の唇にキスをした。

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