雨が降っていた。
濡れた草の青い匂いが、鼻孔をつく。傘を持っていたはずだが、風に吹き飛ばされてどこかへ消えた。潔世一は硬い石畳の上に座り込み、ぼんやりと目の前の墓石を眺めていた。何時間も座ったままの足はもはや感覚が無かった。ぱちりと瞬(またた)けば、乾いた眼球が瞼にくっついた。
さあさあと、雨が降る。ぐっしょりと濡れそぼった身体は重く、自分のものでは無いようだった。全身の骨が溶けて消えて失(な)くなってしまったようだ。吐く息が震え、白く凝(こご)る。すいと差した影によって、雨が遮られた。大きな手が肩を掴んだ。
「潔」
潔はすぐには動けなかった。潔、と聞き慣れた声がもう一度名を呼ぶ。相手は辛抱強く待った。潔はのろのろと顔を上げた。
「帰ろう」
青白い顔をした糸師冴が、潔を見下ろしていた。自分の傘を潔にかざし、冷たい雨粒から守ろうとしている。潔は茫洋(ぼうよう)と冴を見つめた。
「帰る?」
潔はその不思議な単語を、心の中で繰り返した。帰る?
「どこへ?」
潔の帰る場所は永遠に失われてしまった。それなのに、いったいどこへ帰ると言うのだろう。行き場があると言うのだろう。
冴は端整な顔を歪めた。
「潔、立て」
「……」
「天気は荒れる一方だ。このままここにいたら、身体を壊す」
冴の声は気遣いに溢れていた。しかし潔の胸には響かなかった。荒れた天気も、体調が悪くなることも、どうだっていい。何もかもがくだらなく、ばかげたことに思えた。この世に潔が気に掛ける価値のあるものが存在するとは、どうしても思えなかった。
「来い」
しびれを切らした冴は、強引に潔を立ち上がらせた。腰を抱いて、引きずるようにして歩き出す。潔は抵抗したかったけれど、何時間も座り込んで雨に打たれた体は思うように動けなかった。そのまま車の助手席に放り込まれる。革のシートに水滴がこぼれた。
「……シートが台無しになっちまうぜ」
潔はぽつりと言った。冴は呆れたように首を振り、それには返事をしなかった。運転席に乗り込み、エンジンをかける。少しでも潔の身体をあたためようというのか、思いきりヒーターの温度を上げた。
ラジオを切った車内には、激しい雨音が響いていた。冴の言う通り、天気は荒れる一方だ。ワイパーが吹き飛ばすしずく。対向車のまぶしいライト。
「手を怪我してる」
信号待ちの沈黙を破って、冴が潔の右手を掬(すく)い上げた。
「ああ」
潔は気の無い調子で応じた。墓前で座り込んでいた時、急にこみあげた衝動をぶつけるように石畳を殴った。膚(はだ)が破れ、血が溢れたが痛みは感じなかった。
「酷いな」
冴は傷口を確かめて、眉根を寄せた。
「こいつは縫わなきゃだめだ。病院に行くぞ」
「いいよ。放っておけば治る」
「甘くみるな。些細な傷だって、とんでもない大怪我に繋がることもある」
「大怪我? 命に関わるようなものか?」
潔はせせら笑った。
「もしそうなら、ますます放っておいてくれ」
冴は道路の端に車を停めた。潔の襟首を掴んで締め上げる。
「死にたいのか?」
聞く者を凍(い)てつかせる、冷ややかな声音だった。
普段だったら、怯んだことだろう。冴は常日頃冷静沈着なだけに、激高した時はとても恐ろしい。しかし今の潔には、もう怖いものなど何も無かった。この世で一番怖いものを、もう見てしまっていたから。
「もう死んでるよ」
潔は言った。口の中で血の味がした。
「もう死んでる」
糸師凛が死んだ瞬間、潔世一の魂も死んだのだ。
冴は無言だった。噛み締めた唇が震えていた。弟を亡くしたのだ。彼だってつらいだろう。叫び出したいほどに苦しいだろう。それなのにこうして潔を気にかけてくれる優しさを思い、そんな彼に報いることのできない己の愚かさを思った。
今から一週間前の、九月九日。糸師凛は死んだ。殺されたのだ。スペインのマドリードの二人の自宅で、撃ち殺された。発見したのは、買い物から帰宅した潔だった。玄関で冷たくなった遺体を見つけた。凛は胸を何発も撃たれていた。
すぐには動けず、潔はその場に崩れ落ちた。血の海に倒れる身体に這いより、必死に揺り動かした。血まみれの手で救急車と警察に電話をした。一縷の望みに縋(すが)ったけれど、無意味だった。救急車は凛の身体を運ぶことなく、病院へ戻って行った。凛を殺した犯人は後日捕まった。男が凶行に及んだ動機を知った時、潔は自分を呪った。
それからのことは、よく覚えていない。何もかもが目まぐるしかった。潔は公(おおやけ)に凛のパートナーとして認められていたため、チームから休みを与えられた。凛の兄である冴もだ。三人は現在スペインの名門強豪チーム〈レ・アール〉に所属するチームメイトだった。チーム首脳陣から帰国を許され、潔と冴は凛の遺体と共に故郷の地を踏んだ。時間は早送りのように進んだ。葬式だの通夜だのと立て続けに事が運んだけれど、潔にはそれらがまるで遠い出来事のように感じた。潔の時間だけ、九月九日で止まっていた。泣き崩れる凛の両親にも、慰めの言葉一つ言えなかった。蜂楽廻や千切豹馬、凪誠士郎、黒名蘭世を始めブルーロック時代の盟友たちが多忙の身をおして駆けつけてくれた気もするけれど、やはりろくに覚えていない。周囲に言われるがままに喪服を着て、言われるがままに式に参列した。別れの挨拶をするかと聞かれたけれど、何ひとつ言葉が出てこなかった。式が執(と)り行われる中、ずっと棺の傍でぼんやりと座り込んでいた。そこにいたのは潔世一の抜け殻だった。
ただ呼吸をするだけのモノになってしまった潔を、両親は涙するほど心配した。一番つらいはずの糸師夫妻ですら、潔の有様を見て気遣った。誰より傍についていてくれたのは冴だ。食事も睡眠もとろうとしない潔を追い立て、半ば強引に食事や入浴をさせ、ベッドに叩き込んだ。潔が眠るまで傍にいてくれた。普段の冷淡な彼の態度を思えば、破格の待遇だ。だが潔には分かっていた。潔の世話を焼くことで、冴が何とか心の安定を図ろうとしていることを。気を紛らわすことがなければ、今にも気が狂ってしまいそうなのだということを。分かっていたから、冴のやりたいようにさせた。彼が近くにいることで発狂せずに済んでいたのは、潔も同じだった。
「おまえは生きてる」
冴が言った。
「生きなきゃならねぇんだよ」
「どうして? もう俺が生きる理由なんてない。それはおまえだって知ってるだろ」
「おまえが死んだら、いったい誰が本当のあいつを覚えている?」
弟とよく似た、けれど全然違う顔が、えぐるように潔を睨みつけた。
「おまえがくたばる時が、本当の意味であいつが死ぬ時だ」
そんな優しいことを言わないで欲しい、と潔は思った。救われてしまいそうになるから。生きなければいけないと思ってしまうから。
「やめてくれ」
血を吐くような声が出た。
「俺は救われたくなんか無いんだ。絶望したままでいたいんだよ」
凛のいなくなった世界で、彼を思い出しながら生きるなんてまっぴらだった。そのうちこの苦痛も孤独も絶望も薄れて、夜が明けて朝を迎えるように、暗闇に希望の光が差すなんて、想像しただけで吐き気がした。おまえの分まで生きるよ、なんてぬるま湯のようなセリフを口にする日が来るくらいなら、今この場で命を絶ちたかった。この血が噴き出しじくじくと膿む傷を。癒されたくなど無かった。
「凛がいない世界で、俺はメシ食ったり誰かと笑ったりなんて出来ない。したくない。俺は俺の全部をあいつにくれてやった。だからあいつが死んだ今、俺にはもう何も残ってない。俺の全部はあいつが地獄に持って行っちまったよ」
これが子どもの駄々と同じだとは分かっていた。正しいのは冴だ。いつだってそう。冴が正しくて、潔と凛が間違っている。けれどそんな風にしか生きられない者同士だったからこそ、彼らは一つになった。同じ人生を歩んでいくと決めた。彼らはフィールド上では二体の獣だったけれど、本当の姿は二人でひとつの命だった。半身を失った今、心臓はゆっくりと死へ向かっていた。
「おまえと凛が誓いの式を挙げたと聞いたとき、当然だと思った。それがおまえらの運命だと、初めから決まっていたってな」
でも、と冴は端麗な顔を苦しげに歪めた。潔の手を掴む。骨ばった大きな手は、冷たく、死人のようだった。
「こうなるなら反対すれば良かった。弟を亡くしたと思ったら、もう一人の義弟(おとうと)まで失くすなんて、冗談じゃねぇ」
吐き捨てた言葉から、暗く冷たい絶望の匂いをかぎ取る。そのことに罪悪感を覚えないわけでも無かったけれど、潔には何も言えなかった。冴の気持ちに応えられないのなら、何も言わない方が良い。それが潔なりの誠意の示し方だった。
「……ッ、なんだ?」
ガクンと車体が揺れた。急に動かなくなる。冴は何度かアクセルを踏んだが、車はゆらゆらと揺れるだけで前に進まない。冴は舌打ちし、車を降りた。少しして、ずぶ濡れの姿で戻ってくる。
「タイヤがパンクした」
冴は忌々(いまいま)しげに唸った。
「どっちも使い物にならねぇ」
潔は返事をするのも億劫だったが、全身を雨でぐっしょりと濡らした冴を無視することなどできなかった。投げやりに言う。
「……予備のタイヤはあるのか?」
「ひとつしかない」
冴は溜め息をつき、スマートフォンを取り出した。眉根を寄せる。
「嘘だろ。圏外だ」
「……こんな場所で?」
墓地は郊外にあったが、山奥というわけではない。潔は自分のスマートフォンを確かめたが、やはり圏外になっていた。
「……電話会社の方のトラブルじゃないか?」
「そうかもな。ったく、ツイてねぇ。これじゃあ、ロードサービスに連絡することもできない」
その時、後ろが光った。後続の車のヘッドライトだった。冴は面倒そうに溜め息をついた。
「仕方ねぇ。停車させて携帯を借りるか」
冴が再び車を降りる。彼ひとり雨に打たせるわけにもいかず、潔も車を降りた。激しい雨足のせいで、あっという間にずぶ濡れになる。潔は雨粒が目に入らないように、目に手をかざした。割れた傷口に、雨がしみた。
ヘッドライトがどんどん近づいてくる。冴の後に続いて、潔も車体の右側に立った。後続の車が気づくように、行く手を塞ぐように立つ。大型のトラックだった。しかし十分距離が縮まっても、トラックはスピードを落とさなかった。それどころかぐんぐん近づいてくる。
「ッ、嘘だろ」
冴が潔の腕を引いて、道路の端に寄ろうとした時だった。その瞬間、ぴかりと空が光った。雷鳴が轟(とどろ)く。目の前が真っ白に染まる。潔は反射的に硬直した。気づいた時には、もう目の前にトラックが来ていた。
「──潔!」
冴が庇うように潔を抱き込む。一拍後、激しい衝撃が全身を貫いた。電球が切れるように、潔の意識はブツリと途切れた。