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【期間限定再録】モイライの糸【後編】/ベティ的小说

【期間限定再録】モイライの糸【後編】

32,547字1小时5分钟

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 激しい目眩に襲われた。潔は壁に手を付き、嘔吐した。クラブハウスの清潔な床を汚してしまったが、耐えることはできなかった。
 口の中が酸っぱい。胃の奥が痛んで、目の前がぐらぐらと揺れる。もう一度吐いた。ぼとぼとと、茶色いシミがリノリウムの床に広がっていく。息が満足に吸えない。手足の先が痺れていく。

「潔!」

 冴の声がする。抱えるように支えられた。覚えのある体温に、少しだけ体の強ばりが解けた。

「ゆっくり息を吐け。……そう、その調子だ」

 冴は潔の背中をさすった。潔はその場に崩れ落ちるように座り込んだ。鈍器で殴られたように脳が揺れていたが、絶対に泣くまいと堪えるだけの理性はまだあった。泣くな、と潔は自分に言い聞かせた。潔が泣く場所は、世界にたったひとつしかない。

「どうして」

 潔は呻いた。倒れ込みそうになった身体を、冴が抱き抱えた。服を汚してしまうと思い離れようとしたが、冴は逆に抱きしめる腕に力を込めた。

「どうしてだ」

 潔はもう一度呻いた。子どものように、何度も。

「分かんねぇ」

 冴が押し殺した声で応えた。服越しに、冴の早い鼓動を感じた。それを聞いて、彼もまた動揺しているのだと知る。
 十年の時を遡って以降、潔は時の修正力というものを感じたことはなかった。潔の行動によって未来はいくらでも変わったからだ。ほんの些細(ささい)な選択ひとつで、潔の人生は違う道筋を辿った。潔はそれを疑問に思ったことはなかった。奇跡を授けてくれた運命の女神は、潔に自由をもまた与えてくれたのだと、信じていた。
 だが考えてみれば、あまりに潔に都合のいい話だ。神がそんなにも慈悲深いわけがない。
 潔の耳には、女神たちの高笑いが聞こえる気がした。与えられる運命をただ享受し、安穏と過ごしていた潔を嘲笑う声が。耳の奥で木霊する。辿る道筋が異なるだけで、行き着く結末は最初から決まっていたと、声がする。

「おい! 何やってんだよ!」

 顔を上げると、凛がこちらへ向かって駆け寄ってくるところだった。密着する潔と冴に、明らかに嫉妬と怒りを募らせている。しかし潔の有様に気づくと、表情を変えた。

「クソみてぇな顔色しやがって、何が──潔?」

 潔は冴の腕の中から抜け出し、よろよろと凛に歩み寄った。広い胸に倒れ込む。反射のように、凛のたくましい腕が腰に回った。潔は凛を抱き締めた。

「俺から離れるな」
「潔?」
「今度こそ、俺が守る。絶対に、守る……!」

 うわ言のように言いながら、凛をかき抱く。その時だった。通路の奥から視線を感じた。美しい青年がこちらを見ていた。潔は身を震わせた。
 セクシーな褐色の肌、彫刻のように完璧な唇、艶のある黒髪に、チョコレートのように甘くとろける瞳。彼は一歩一歩踏みしめるようにして、歩み寄ってきた。気づいた冴が、青年から潔を隠すように立ちはだかった。

「失せろ」

 冴は冷ややかに唾棄した。すさまじい怒りと憎しみが迸る声音だった。凛が息を飲んだ。

「そいつは無理だ。俺はメディカルスタッフなんだから、そんな具合の悪そうなヤツは放っておけない」

 青年は強い口調で言い返し、冴の肩越しに潔を見下ろした。深い色の瞳には様々な感情が渦巻いていた。困惑、混乱、不安──そして、歓喜。己は潔世一に執着していると、百万の言葉よりも雄弁に語っていた。

「世一」

 青年が──ルーカス・サンチェスが名を呼ぶ。好きで好きで、恋しくてたまらなかったと告白するような声で。

「ずっと会いたかった」

 ルーカスの瞳から涙が溢れて、頬を流れた。

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