しとしとと雨音がする。
潔世一は膝を抱え、出窓から濡れそぼるミュンヘンの街を見下ろしていた。手の中のホットチョコレートはとっくに冷めていた。前髪をかきあげ、今日何度目かしれぬ溜め息をつく。しとしとと降り注ぐ雨。つきん、と頭が痛んだ。
スマートフォンが鳴った。液晶に表示された名前に、数秒躊躇(ためら)う。大きく息を吸って、通話アイコンをタップした。
「よぉ、凛」
『出るのが遅ぇ』
不機嫌丸出しで飛んでくる尖った声に、思わず苦笑してしまう。潔はスピーカーにした。
「今日も絶好調で機嫌が悪そうだな」
『テメェのせいでな』
「相変わらず理不尽が極まってるじゃん。まぁ、そういうところが可愛いんだけどさ」
『電話だからって、ここぞとばかりに煽ってくるんじゃねぇ』
潔は笑った。数秒間(ま)が空く。膝に頬を押し付けて、ここにいない恋人の顔を思い浮かべた。
「パリの天気はどうだ?」
窓の外に視線をやりながら訊ねる。
「こっちは雨だ」
窓の向こうを流れる水滴を、指でなぞった。吐く息で、うっすらとガラスがくもった。
『こっちも雨だ』
凛はどうでも良さそうに応えた。
『天気の話をするために電話したんじゃねぇ』
「そりゃそうだろね。なんだよ、用件を言ってみな」
言いつつも、聞かなくても分かっていた。凛は予想通りの言葉を言った。
『来週、来い』
「…………」
『オフだろ』
潔が黙っていると、凛が嘲笑する気配がした。
『それとも、今年も〝用事がある〟のか?』
投げやりな中に、切実な響きがあった。潔は睫毛を伏せた。それを口にするのに、ありったけの勇気をかき集めなければならなかった。
「行くよ」
『……』
「九月九日、おまえに会いに行く」
再び間が空いた。微かに聞こえてくる凛の息遣いに、潔の胸は切なく締め付けられた。
『そうか』
凛は素っ気なく言った。でも彼はまだ、溢れる安堵と喜びを完璧に隠せるほど大人では無かった。
「誕生日プレゼント、欲しいものがあれば言ってみろよ。おにーさん頑張るぜ。あ、でも土地とかはやめてくれよ。手続きややこしそうだから」
『馬鹿を言って満足したか?』
「ンだよ。ノリ悪ーな」
『何も要らねぇ』
凛は撥ね付けるように言った。
「珍しく謙虚じゃん」
『プレゼントだけ送り付けて逃げるのがテメェの常套手段じゃねぇか。ふざけんな。物なんかで誤魔化されるのはもうごめんだ』
「……」
『おまえの一日を寄越せ。それ以外認めない』
潔は笑おうとして、失敗した。今凛が浮かべているであろう表情を想像するだけで、罪悪感で息が詰まった。
『いいな』
凛は突き刺すように言い、通話を切った。潔は役目を終えたスマートフォンを見下ろした。部屋は暖房がきいていたが、痛いほどの寒さを覚えた。凍えているのが身体ではなく心だと知っていた。
潔と凛がブルーロックで出会ってから、五年が経っていた。成長した二人は、それぞれ別の国を新たなステージに選んだ。潔はドイツに、凛はフランスに生命(いのち)を燃やす戦場を求めた。どちらもずっと同じ場所に留まっている気はない。けれど今は、この場所が潔の、そして凛の、フィールドだった。魂を賭ける場所だった。
あの運命の日を境に、潔の人生は一度経験したものとはまったく異なったものになった。早々に突出した才能を見せつけたことで、潔の名声は新世代世界十一傑を凌いだ。もちろん、糸師冴も同様に圧倒的な存在感を見せつけた。それに触発され、凛も更なる進化を遂げた。かつての人生には無かったストーリー。潔にとってはもはや、生まれ変わって新しい人生を得たも同然だった。
だが、変わらないものもあった。それは凛と求め合う気持ちだった。ブルーロックにいた頃から、それは一度たりとも揺らいだことはなかった。フィールド上で争いあっても、相手の未来の可能性を潰しかねない試合でしのぎを削りあったあとも、求めあった。キスをして、抱き合った。凛は潔の首筋に所有の証を刻み、潔は凛の髪を乱した。そうすることに、疑いを持ったことはなかった。少なくとも、潔はそうだった。どんなに滑稽でも、誰に理解されなくても、凛を愛することをやめる理由などどこにも見つけられなかった。
そうやって、五年を過ごした。凛と共にいればいるほど、彼の存在は杭となって潔の心臓に打ち込まれていく。潔を求める凛を見れば、彼もまたそうなのだとわかった。凛にとって、潔は彼の正気をこの世界に繋ぎ止めている重石なのだ。それが無くなれば、凛は彼自身の狂気に押し潰されることだろう。
凛は潔を必要としている。誰より近くに感じたいと願っている。潔は人一倍孤独を恐れているあの男を、誰より幸福で満たしてやりたいと願っていた。けれど時々、彼の幸せより自分の痛みを優先してしまうこともあった。それが九月九日だった。
九月九日。糸師凛の誕生日。そして、糸師凛が死んだ日。
あの世界で生きていた彼も、今この世界に生きる彼も、糸師凛だ。そう頭ではわかっている。わかっているけれど、理性では制御出来ない部分が〝彼らは別人だ〟と叫んでいた。普段はその声をかろうじて聞き流すことができる。けれどあの日は。糸師凛が死んだ日だけは。その声を無視することができない。
声は潔を苛(さいな)み、心に深い傷をつけた。そこから溢れ出る血は、潔を窒息させた。だから潔は、何度もその日から逃げた。凛から逃げた。世界で一番特別な男が生まれた日をろくに祝うこともせず、誕生日プレゼントだけ押し付けてやりすごした。潔はそうやって、凛を傷つけてきた。
いい加減、この傷に向き合うべきだ。そう自分を諫(いさ)め、潔は凛に会う決意を固めた。だが実際にその決断を凛に伝えて退路を絶った途端、猛烈な後悔に襲われた。怖くて怖くて、でも何が怖いのかもわからず、ただ怖かった。誰かに助けて欲しかった。
潔は冷めたホットチョコレートを一口飲んだ。それから、スマートフォンを手に取った。
「同じ魂を持ちながらも、別の人生を歩んだ人間は果たして同一人物と言えるのか」
糸師冴はエスプレッソの入ったカップをソーサーに戻し、肩を竦めた。
「ヘビーな話だな」
「……ほんと、嫌になるよ」
マドリードのとある通りのカフェだった。潔は日本の至宝と名高い男と、オープンテラス席に座り、うららかに降り注ぐ陽射しを眺めていた。凛に会いパリへ行く前日だった。彼と顔を合わせる前に、何とか勇気を奮い起こしたかった。この苦悩を誰かと共有したかった。それができる相手は、この世でたった一人しかいない。
「さすがの俺もお手上げだな」
冴は素っ気なく言った。
「断言出来ることかあるとすれば、その問いに対する答えを持ち合わせている人間はこの世に存在しないってことだ」
潔はアボカドと海老のサラダをフォークでつついた。すぐ近くに見える噴水の傍で、小さな兄弟が遊んでいる。それを眺めながら、パラソルの下で涼む両親に、噴水の縁に腰掛けてアイスクリームを食べるカップル。小さな広場の昼下がりは、実にのどかな平穏に満ちていた。
「おまえはいつだって正しいな」
潔は言った。冴は鼻で笑った。
「そりゃおまえより多少まともな脳みそを持ってるからな」
「少しは謙遜しろよ」
「恋人に会いに行く前日に他の男と二人きりで会うなんざ、並の神経でできることじゃないぜ」
しかも誕生日前日に、と冴は呆れ返ったように言った。潔は首を傾げた。
「男って、おまえは凛の兄貴じゃん」
「あいつは俺とおまえの仲を未だに勘ぐってる。恋愛感情の前じゃ、兄貴もクソもねぇよ」
「……そういうもん?」
「そういうもん」
搾りたてのオレンジジュースを飲んで、溜め息を押し流す。潔は正直冴の意見には賛同できなかったが、彼がいつも正しいと言ったのは潔だ。だからきっと、冴が正しいのだろう。
とはいえ、多少反論したい気持ちもある。確かに誘ったのは潔だが、弟の誕生日の前日にその弟の恋人と二人きりで会うと決めたのは、冴自身だ。冴も同罪である。
「でも、こんな話しができる相手はおまえだけなんだ」
潔は精一杯の弁解を試みた。
「話しを聞いて欲しいって思って当然だろ?」
「分からないでもないが、それでわざわざミュンヘンからマドリードに飛んでくる行動力はちょっと普通とは言い難い。電話で済む話だ」
「会って直接話したかったんだよ」
「おまえ、俺のこと好きすぎだろ」
「そりゃ好きだよ。何を今更」
冴はけぶるように長く濃い睫毛に縁取られた瞳を、大きく見開いた。ややあって、微かに笑う。もう笑うしかないと言った風だった。
「おまえは良い男で良い選手だが、恋人としては最悪だな」
「なっ、」
「もういい。これ以上おまえの無自覚タラシ文句聞いていたらこっちの頭がおかしくなりそうだ」
二人の間を、花の香りがする風が通り抜けた。冴は言った。
「話す気はないのか?」
何を、とは言われなくても、言わんとすることを察した。
「話したいよ」
潔は正直に言った。視線を噴水の傍で仲睦まじく笑い合うカップルに移す。しっかりと繋がれた手。凛とあんな風に過ごすためには、秘密を告白しなければならない。凛の心からの信頼を勝ち取らなければならない。分かっている。でも。
「冴はさ、未来を知ってるって誰かに言われたら、信じる?」
冴はいいや、と首を横に振った。
「イカれてると思うだろうな。そんな与太話を信じると思われたことにすら殺意が湧く」
「俺も同じだ」
潔は苦笑した。笑うしかなかった。
「凛もきっと同じだよ」
再び沈黙が降りた。潔は食べる気の失せたサラダを脇に置いた。やがて冴が訊ねた。
「おまえは凛を愛してるか?」
潔は頷いた。
「この世の誰よりも」
「きっとそれも、凛は同じだ」
冴は小さく笑みを閃(ひらめ)かせた。
「何を怖がることがある?」
そう言って、冴は伝票を持って立ち上がった。潔はしばらく言葉を失っていた。大きく深呼吸を一つしてから、立ち上がる。
シャルル・ド・ゴール国際空港に降り立った潔は、ロビーで彼を待つ恋人にすぐに気がついた。ほとんど同時に向こうも気づく。凛が大股で歩み寄ってくる間に、潔は大きく息を吐いて呼吸を整えた。
「遅い」
潔の目の前に立った凛は、仏頂面で唸った。
「おまえは何もかもとろいんだよ」
本日も糸師凛のご機嫌メーターは低数値のようだ。潔は彼の白い頬をぺちぺちと叩いた。
「まぁまぁ、カリカリするなって。俺に会いたくて堪らなかったのはわかるけど、眉間の皺が一生取れなくなるぞ」
「黙れ」
唸るように言う。だが潔の言葉を否定しない。あちらの凛だったら〝自惚れんな、死ね〟くらいは言ったはずだ。しかし今目の前にいる男は、一度潔に拒絶されたことがトラウマになっているのは明らかだった。嘘でも潔を遠ざけようとしない。むしろ、これ以上距離を置かれてたまるかというように踏み込んでくる。潔はそんな凛を可愛いと思うし、悲しいとも思う。
「寒ぃ。さっさと来い」
急かす横顔には〝今すぐ家に帰りたい〟とでかでかと書いてあった。
「……確かに今日はちょっと涼しいけど、寒くはないだろ」
雑な口実で潔を急かす凛は、やはりいとおしくて切ない。潔は凛の隣に並んだ。彼の手を掴むか否か迷ったが、結局そうしなかった。
「っおま、がっつくなよ」
自宅に着くなり壁に押し付けられ、潔はさすがに苦情を言った。
「誕生日おめでとうくらい、ちゃんと言わせろ……ッあ!」
ジーンズの上から膝で刺激されて、思わず声が出る。凛は邪魔くさそうに潔の上着を脱がせて床に打ち捨て、首筋に噛み付いた。
「要らねぇんだよ。物も、言葉も」
潔のシャツの中に手を突っ込み、背骨に沿って無でる。
「おまえを寄越せ」
愛憎がどろどろに入り交じった囁きが、焼きごてとなって潔の心臓に押し付けられる。
「おまえの全部を喰わせろ」
傲慢に命じながらも、凛はその願いが叶わないことを知っているようだった。潔は罪悪感で死にたくなる。
嵐のようなセックスだった。途中から何をやらされているのか、何をされているのかすら分からなくなった。ぐるぐると回る視界に、眩しいものを見つめるかのように眉根を寄せた凛が映った。恥ずかしいとか、みっともないとか気にする余裕も無かった。ただひたすらに喘ぎ、凛の身体にしがみついた。このまま凛の中に溶け込み、彼の血肉になりたいと思った。
目が覚めて最初に見えたものは、こちらをじっと見つめる凛の瞳だった。潔はぱちぱちと瞬き、反射的に掌で顔を覆った。凛がむっとする気配がした。
「手ぇどけろ」
「嫌だ」
「ああ?」
「人の寝顔を眺めるなんて悪趣味だぞ! どうせなら起こしてくれよ」
「おまえだって、いつも見てるじゃねぇか」
凛は苛立たしそうに言った。潔の手を掴み、強引に退けてしまう。潔は諦めて、凛を見つめ返した。澄んだ目と視線が絡み合う。凛は軽く身を起こし、潔に覆いかぶさった。そして、キスをした。
「……今、何時?」
潔は凛のむき出しの背中に手を回しながら、訊ねた。わけもなく小声になった。
「五時」
「午前? 午後?」
「午後に決まってんだろ。アホか」
「長く寝た気がするから、もっと時間が経ってるのかと思ったんだよ。そうか、まだ夕方か」
凛がもう一度キスをする。潔は彼の艶やかな黒髪に指を絡ませた。白皙(はくせき)の頬を撫でて言った。
「誕生日おめでとう、凛」
「……」
「おまえにたくさんの幸せを与えてくれますようにって、神様に祈ったよ」
凛はふんと鼻を鳴らした。
「おまえに祈られる筋合いは無ぇ」
「おまえさぁ……人の好意をさぁ」
「テメェがやれ」
凛は傲慢に命じた。
「おまえがやるべきことを、いるかも分からねぇ神なんぞに押し付けるな」
潔は、なんていとおしい命令なんだろう、と思った。
「成長したな、凛」
髪をくしゃくしゃと乱しながら笑う。
「おまえが欲しいものを欲しいと素直に言えるようになるなんて、夢にも思わなかったぜ。びっくりだ」
「殺すぞ」
「凄んだって可愛いから意味ないぜ。──分かったよ。俺がおまえを幸せにしてやる。俺がおまえの幸福になってやる」
潔は凛をぎゅう、と抱き締めた。耳の後ろで、凛の息遣いを感じた。
「おまえのためなら、俺はなんでも出来るよ」
凛の手が潔の後ろ髪を掴んだ。潔は、誕生日おめでとう、ともう一度囁いた。
潔は凛のために一応レストランを予約していたが、凛は家で過ごしたいと言った。それならせめて料理くらいはと、潔は近場のスーパーへ買い物に行くことにした。凛も黙ってついてくる。二人の手は自然と絡み合っていた。潔が見上げると、凛は仏頂面でそっぽを向いていた。潔はなんだかたまらなくなって、凛の腕に自分の肩をぶつけた。
スーパーで食材を買い、リカーショップに立ち寄って凛の生まれ年のメルローを買った。凛と並んで家路を辿っていると、足元にサッカーボールが転がって来た。見ると、小さな公園で数人の少年たちが遊んでいた。輪の中から六歳くらいの男の子が飛び出し、転がるように駆け寄ってくる。潔はぽんとボールを蹴った。ボールは綺麗な放物線を描き、少年の足元に着地した。
「懐かしいな」
少年たちのキラキラした目に少々の気恥かしさを感じつつ、潔は言った。
「俺もあのくらいの時は、こういうちっこい公園でボールを蹴ってた」
「俺もだ」
凛を見ると、彼は透明な目で少年たちを見ていた。無垢で、でもどこか痛みを孕んだ眼差し。
「……兄貴と」
凛はそこでふっつりと言葉を途切らせた。潔の返事を待たずに歩き出す。潔は、家に帰ったら嫌というほど彼を抱き締めてやろう、と決めた。
時間は穏やかに流れた。二人は潔の作った料理を食べ、ワインを飲みながら、凛の好きなホラー映画を見た。いつもなら飛んで逃げていくところだが、凛の誕生日だ。我慢して付き合った。潔が悲鳴を上げるたび凛にうるさいと叩かれたが、彼がこの状況を楽しんでいることは表情を見れば分かった。
最後にゆっくりとセックスをして、二人は眠りについた。最高の一日だった。過不足のない、幸せな一日だった。ずっと恐れ、避け続けていたことが滑稽に思えるほど、完璧だった。
──それなのに。
凛の腕の中で、そっと体の向きを変える。シーツに顔を押し付けて、唇を噛んだ。
……あちらの凛も、こちらの凛も同一人物だ。わかっているのに、違う、と嘆く声がする。二人は別人だ、と。
だって、触れる手が違う。抱き合う時の癖も違う。あの凛は傲慢で、容赦の無い、自信に溢れたセックスをする男だった。だがこの世界の凛は、ひどく哀しいセックスをする。ドス黒い支配欲と独占欲を感じさせながらも、どこか縋るような痛みに満ちた、ちりちりと心を焼くようなセックスをする。理由は分かっていた。あの世界の凛は潔のすべてを手に入れていたが、この世界の凛は違う。潔は彼に心の全てを明け渡していない。未だ隠し続けている秘密がある。潔が秘密を押し隠せば押し隠すほど、凛は潔を遠くに感じるだろう。それを分かっていながらもどうにもしてやれない自分を、潔はひどい男だと思う。だが、少なくとも今は、凛に秘密を打ち明ける勇気が出ない。どうしても、こんな滑稽な話を信じてもらえるわけがないという考えが先立つ。潔はまだ、凛の信頼を失う覚悟も、軽蔑される覚悟もできていなかった。
潔は、思い出すな、と自分に言い聞かせた。せめて今日だけは思い出すな。この大切な日の幸せな思い出を、悲しみに染めたくはない。ああ、でも、縫合した傷口からどっと血が溢れるように、否が応でもあちらの凛と過ごした記憶が蘇ってしまう。
初めての凛の誕生日は、彼の実家で過ごした。二人きりだと思っていたら、途中で冴が帰ってきて揉めに揉めた。二度目は、潔のミュンヘンの自宅で過ごした。ハイブランドの、揃いの腕時計をプレゼントした。三度目は、どうしても仕事でパリに行くことが出来なくて、代わりに一晩中電話をした。そして五度目の誕生日に、凛が指輪を渡してきた。おまえの人生を丸ごと寄越せ。そう言って、潔の左手の薬指に強引に指輪を押し込んだ。潔は凛の不器用さに呆れ、笑い、凛を抱き締めた。おまえって本当に可愛いな、と言えば、噛み付くようなキスを仕掛けられた。あの時の痛いほどの甘さを、今でもよく覚えている。
愛してた。愛してた愛してた愛してた。狂おしいほど情熱的に、泣けるくらい切実に、愛してた。ずっと一緒に生きるのだと信じて疑わなかった。いつか永遠の別れが来る日が来たとしても、遠い未来のことだと思っていた。まさか指で触れられるほどの距離に迫っているとは、夢にも思っていなかった。
十度目の、凛の誕生日。あの日の自分が何を考えていたのか、よく思い出せない。ただとても幸せな気分で、二人で暮らす家に帰ったことを覚えている。そしてドアを開け、そこにある絶望を見つけた。
光の絶えた虚ろな目、胸に空いた穴。血溜まり。そして自分の絶叫。血塗れの手で何度も繰り返し凛を揺さぶった。ずっとそうしていればいつか凛が目覚めてくれると、あの一瞬は本気で信じていた。その瞬間、潔は正気を手放していた。
あの日、潔の心は一度死んだ。人知の及ばない力が働いて起きた奇跡で、辛うじて息を吹き返したが、未だ心のどこかは壊れたままだ。きっと元通りになる日は一生来ない。どれだけ言葉を重ねて否定しようと、この身に降りかかった奇跡に縋ろうと、潔世一は糸師凛を失った。今目の前にいる糸師凛と、潔の指に指輪をはめた糸師凛は同じ魂の持ち主ではあるけれど、でも別人だった。潔は、一緒に思い出を積み上げてきた唯一無二の存在を失った。その事実は決して覆らない。
「会いてぇよ」
気が狂うような寂しさが、口から溢れ出る。
「会いたい」
「──誰にだよ」
胃の中に氷塊が落ちてきたような心地がした。潔は弾かれたように振り向いた。凛と目が合った。凛は潔に覆いかぶさった。大きな手が、手首を掴んだ。
「誰に、会いてぇって?」
凛の声は真っ黒に塗りつぶされていた。
「泣くほど、誰を恋しがってんだよ。言えよ」
「──ッ痛、」
「言えっつってんだろ」
指が食い込む。凛の顔を見て、潔は血の気が引いた。彼はかつてブルーロックで潔を犯した時か、それ以上に感情が死に絶えた顔をしていた。怒りと絶望のあまり、我を忘れている。
「凛、」
落ち着かせようとして、けれど相応しい言葉が見当たらなかった。相手を明かさなければ、凛は絶対に納得しないだろう。潔は凛のためにも真実を口にする勇気を奮い起こしたかったが、できなかった。臆病な自分に負けてしまった。
「なんで黙ってる」
凛が淡々と訊ねた。
「別に難しいことは言ってねぇだろ。ただ名前を言えって言ってるだけだ」
「……っ」
「俺に言えない相手か」
凛の目がますます暗く濁っていく。
「兄貴か」
ほとんど断定だった。潔は首を横に振って強く否定した。それだけは絶対に否定しなければならなかった。
「違う! 冴じゃない!」
「会いたい奴がいるってのは認めるんだな」
「凛、」
「言え。言わないと殺す」
潔は途方に暮れた。何を言っても凛を傷つけてしまう気がした。そしてそれはたぶん、事実だった。
「おまえの、知らないヤツだ」
それが精一杯だった。
「もうこの世にはいない。だから会うことはできない」
凛の目が悲痛な色に染まった。
「俺は死人に負けるっていうのか」
「違う!」
「だったら、俺を見ろよ! 俺だけを見ろ!」
慟哭(どうこく)にも似た叫びは、夜の闇を哀しく切り裂いた。
潔は何も言えなかった。
「……それができないなら、二度と俺に近づくな」
凛はベッドから降りた。衣服を身につけ、寝室を出ていく。潔は急いでその背を追った。
「待てよ。こんな時間に、どこ行くんだ」
凛は返事をしなかった。追いすがる潔の手を振り払い、彼は出て行った。潔は無情に閉じた扉を、ダン! と拳で殴った。それから、ずるずるとその場に座り込んだ。
もう、どうしたら良いのか分からなかった。