【期間限定再録】モイライの糸【後編】
ありがとうございました。感想頂けると励みになります。https://marshmallow-qa.com/betty_1989?t=COdR7o&utm_medium=url_text&utm_source=promotion
- 10
- 20
- 218
──なんとなく、朝から調子の悪い日だった。特に何があったわけでもないのに気が塞ぎ、身体が妙に重かった。
「風邪でも引きやがったか?」
キッチンで野菜と果実のジュースを作っていると、スポーツウェアに着替えた凛がしかめ面でやって来た。潔が返事をする前に、後頭部を掴んで引き寄せる。いささか勢いよく、潔の額に凛の額がぶつかった。
「……熱はねぇな」
眉根を寄せて言う。潔は頷いた。
「俺もちょっと疑って測ってみたけど、平熱だった」
「一応メディカルスタッフに見てもらえ。今日のロードワークは休め」
「熱は無いんだから、平気だ」
「〝一応〟っつっただろ。問題なければ普通に練習に出ればいい」
潔を離して、凛はぶっきらぼうに言った。
「俺たちは臆病なくらいでちょうどいいんだよ」
乱暴な口調だが、確かな気遣いを感じる。以前の凛なら考えられないことだ。心配はしてくれただろうが、もっと遠回しかつ冷たい言い方をしたはずだ。こいつも随分素直になったよなと、潔はこっそり笑みを零した。
凛に秘密を打ち明けて五年が経った。二人は今、スペインのマドリードで共に暮らしている。彼らはライバルであり、恋人であり、チームメイトでもあった。
潔も凛も、冴と共にスペインの強豪〈レ・アール〉に所属していた。凛が一足先に入団し、潔が昨年それを追う形で移籍した。移籍先に〈レ・アール〉を選んだ理由は幾つかあったが、一番は最も近い場所で凛を越えたいという思いだった。潔が見たいと望む世界一の景色は、凛の隣でしか見ることができない。彼を介して世界の果てが見たい。糸師凛を越えたその瞬間に、自分が世界一のストライカーの称号を得ることが出来ると潔は知っていた。そして凛もまた同じ思いを潔に対して抱いていることも、知っていた。潔も凛も、自分の夢の果てが互いの隣にしかないことを分かっていた。潔の選択は必然だった。
潔の移籍を機に、二人は家を買った。マドリードでも人気の高いエリアにある一戸建ての物件で、プエルタ・デル・ソル広場から歩いて五分もかからない。三階建ての上に地下室もあり、屋内プール、ジムに加え、広々としたルーフトップテラスも備えたこの家は、お世辞にも〝お試し同棲〟向きの物件とは言い難かった。むしろ結婚を決めたセレブカップルが購入するに相応しい家だ。潔と凛の仲は以前から世間の関心を集めていたが、その家を購入したことで噂は決定的なものとなった。二人ともプライベートについてマスコミに明かすことは一切無かったが、特に隠そうともしなかった。今ではすっかり世間公認の仲となっている。公の場でパートナー扱いされることも増えた。実際、互いの両親も承知の上の関係だ。未だ法的な条件を満たしていないだけで、婚姻が可能であればとっくの昔に籍を入れていただろう。相手の人生に対する法的な責任を負うことについて、潔も凛も躊躇いはなかった。
仕事では潰し合い、プライベートでは愛し合う。歪(いびつ)な関係だと人は言うし、自覚もしているが、潔はかつてないほどに幸せだった。毎日凛と暮らす家に帰り、彼の体温に包まれながら眠りにつく。二度と手にすることのできない日々だと思っていた。永遠に失ったはずの幸福だった。しかしそれは今たしかに潔の手の中にあり、凛と過ごす毎日が潔の人生になっている。潔の幸福そのものの日々。幸せだった。素晴らしい毎日だった。だからこそ、時々たまらなく不安になった。光が増せば増すほどに、影は暗く濃くなる。幸福は続かない。いつか必ず嵐が来る。人がそれを拒む術(すべ)はどこにもない。それが世界の理(ことわり)だ。
潔は凛の隣で眠るたび、恐ろしくなる。誰にも奪われたくない、とひりつくような気持ちで思った。凛は潔の世界そのものだった。
「なにブサイクな顔してんだよ」
凛が訝(いぶか)しげに言った。潔は凛を小突いた。
「嘘でもパートナーの顔を貶(けな)すとは、ひどいヤツだな」
「誰がパートナーだ。頭腐ってんのか」
「なら、俺はおまえの何なんだよ?」
「下僕」
「ブッ飛ばすぞ」
潔は背伸びをして凛の鼻梁にかぷりと歯を立てた。凛も負けじと噛みつき返してくる。潔は吹き出した。
「何笑ってんだよ」
「おまえがいつまで経ってもヒネたガキのままで、可愛いなと思ってさ」
「そんなに死にてぇならもっと早く言えよ」
「いたたたッ! 本当のことだろ! あと半月もすれば二十六歳になるなんて、信じらんねぇよ。十年前からまるで変わってない」
「今すぐ減らず口を閉じろ。じゃなきゃガチで殺す」
唸りながらがぶがぶと噛みつかれ、潔は声を上げて笑った。
二週間後には、凛の二十六回目の誕生日がやって来る。それが潔にとってどれほど特別なことか、きっと凛には理解できないだろう。
潔は凛の首に腕を回し、首筋に顔を埋めた。凛が少したじろぐ気配がした。
「……言いたいことがあるなら、はっきり言えよ」
「んー? 別に何もないよ」
「嘘をほざくな」
「本当だって」
潔は身を離し、両手で恋人の顔を包んだ。むっとひそめられた眉宇に、不満そうな眼差し、への字に曲がった唇。可愛げの欠片もないこの顔が、たまらなくいとおしい。
「愛してるって、そう思っただけだよ」
凛の澄んだ目が揺らいだ。潔の顎を片手で掴み、強引に唇を合わせる。ん、と鼻にかかった声が洩れた。重なった身体から、凛の早い鼓動が聞こえて来た。
「……とっととメディカルスタッフの診察を受けて『問題ない』って言われて来い」
昂った腰を引いて、凛が不貞腐れたように言った。凛は横暴なようでいて、いつだって潔の身体を気遣っている。潔は笑って頷き、凛の額にキスをした。
凛が出かけてしまうと、異様な重だるさが戻って来た。潔は左手の薬指にはまった指輪に触れた。五年前に凛と一緒に買ったものだ。婚約指輪だとからかった冴に凛は怒って否定したけれど、実際似たようなものだ。普段ならこの指輪に触れていると落ち着くのに、今日はやけに胸がざわつき、漠然とした不安が込み上げた。
……後から考えてみれば、それはいわゆる〝虫の知らせ〟というものだったのだ。
「珍しいな。今日はひとりか」
クラブハウスについてすぐ、ロビーで冴と会った。冴はわざとらしく周囲を見渡してから、肩を竦めた。
「誰にも威嚇されずにおまえと話せるのは、新鮮だ」
「威嚇って。それ、もしかして凛のことを言ってる?」
「他に誰がいる」
冴は馬鹿馬鹿しそうに鼻を鳴らした。潔の顔を見て片眉を持ち上げる。
「顔色が悪ぃな。風邪を引いたのか?」
「それ、おまえの弟にも言われたよ」
「メディカルスタッフに診てもらえ」
「それも言われた」
「……いいから来い」
冴は不機嫌に舌打ちをして、潔をメディカルルームへ引っ張っていった。
メディカルルームには主任がひとりいるだけで、他のスタッフは出払っていた。
「いつもより血圧が低いかな。でも、正常値の範囲内だよ。熱も無い」
主任は潔の体温と脈拍を計り、タッチパネルでデータを登録しながら言った。
「だってさ、冴」
冴は不服そうだった。
「熱が無いからって、問題ないってことにはならねぇだろ。もっとちゃんと検査しろ」
「相変わらず糸師兄弟は世一に過保護だな。これ以上詳しい検査ってなると、血液検査とかになるけど」
「やれ」
「……冗談だったんだけどなぁ」
主任が呆れた様子で首を竦めたときだった。ダンボールを抱えたスタッフが部屋に入ってきた。三つも抱えているせいで、顔が見えない。
「主任。備品置き場はどこですか?」
立ち上がろうと腰を浮かせた潔は、ぴたりと動きを止めた。聞き覚えのある──いや、忘れようのない声だった。心臓がどくどくと暴れ出す。手足の先から血の気が引いていく。
「ああ、通路の突き当たりなんだ。すまないな。運ぶのを手伝うよ」
「いや、これくらい一人で運べますよ」
「頼もしいな。二人とも、彼の紹介はまだ済んでいなかったよな? 産休に入ったメリンダの代わりに来てくれた、サンチェスだ」
ダンボールの影から、男がひょいと顔を出す。彫刻のように整った顔、チョコレート色の甘い瞳に、少し癖のある黒髪。青年は口を開いて、また閉じた。何度もそれを繰り返してから、ぎこちなく微笑んだ。
「──初めまして、世一。ルーカス・サンチェスだ。見ての通り両手が塞がっているので、握手はご勘弁を」
潔は呆然と立ち尽くし、その男を見た。
その──糸師凛を殺した、男を。
運命を定める女神たちの押し殺した笑声が、耳の奥で響く。
呪われた運命が潔に追いつき、這いより、足首を掴んだ。闇に引きずられていく。落ちていく。
──猛烈な吐き気に襲われて、メディカルルームを飛び出した。ひとけのない場所を見つけ、立ち止まった。目の前にありもしない血溜まりが見えた気がして、更に吐き気に襲われた。ごぼ、とまた吐いた。冴が来て、凛も来た。何もかも悪い夢では無いかと祈ったが、ルーカスが追いかけてきたことでこれが現実だと知らしめられた。
「世一、顔色が悪い。メディカルルームに行こう」
凛の腕の中で震える潔に、ルーカスが不器用に微笑みかけた。怯える子どもを宥めるような口調と表情だった。潔が答えられずにいると、ルーカスが躊躇(ためら)いがちに足を踏み出した。その瞬間、冴がルーカスの胸倉を掴んで壁に叩きつけた。
「ぐッ、」
「兄貴⁉」
「凛、潔を連れていけ」
冴が押し殺した声で言った。憎悪が剥き出しになったその声に、潔の全身に鳥肌が立った。
「待てよ、どういう、」
「行け」
戸惑う凛に、冴は再度命じた。凛は口を閉じ、潔を抱き上げた。世一! とルーカスが名を呼んだが、潔はもう彼の顔を見ることができなかった。
凛は潔を空いているロッカールームへ連れて行った。シャワーを使うかと訊ねられ、潔は自分の汚れた服を見下ろして頷いた。洗面台で口をゆすぎ、ついでに顔も洗った。鏡に映った潔は、幽鬼のような顔色をしていた。
「……おまえも来いよ」
「はぁ? ちょ、おい」
潔は凛の腕を引き、強引にシャワーブースへ押し込んだ。自分も服を着たまま、コックをひねる。熱いシャワーが吹き出して、あっという間に二人をずぶ濡れにした。凛が文句を言う前に、抱き着いて唇を塞いだ。凛は諦めたように身体から力を抜いた。潔の後頭部を掴む。
「どういうことだよ」
唇を触れ合わせたまま、凛が訊ねた。
「いい加減説明しろ」
潔は凛の顔を両手で挟んだ。
「あいつ、さっきの男」
潔はやっとの思いで言った。
「あいつが、おまえを殺した男なんだ」
凛はすぐには言葉が見つからないようだった。
「ルーカス・サンチェス。あの男が、おまえを殺したんだ」
凛は途方に暮れたように潔を見下ろした。親指で潔の目尻を拭(ぬぐ)った。
「俺は死んでない」
「凛」
「おまえの言いたいことは分かってる。でも、それは別の俺の話だろ。兄貴もおまえも反応が過剰なんだよ」
「じゃあ聞くけど、おまえは俺を殺した男が目の前にいても平静を保っていられるのか?」
凛はぐっと言葉に詰まった。溜め息をついて、潔の額に唇を押し当てる。
「俺は生きてる」
泣き出しそうになった。
「疑うなら、確かめてみろ」
潔は凛にしがみつく腕に力を込めた。何度も唇を重ねながら、服を脱がし合う。濡れた素肌に手を這わせた。とくとくと伝わる鼓動。これを再び失う時が、人生の終わりだと思った。